七。
梅雨が明けて真夏の太陽が容赦なく照りつけるようになった金曜日の夕方、骨髄移植を終えた家田健君がいよいよ外泊する事になった。彼は弟の骨髄液によって生き返った。
「発熱など体調を崩したらすぐに帰って来て下さいね」俺が健君の母親に念を押すと、横に立っていた健君が「わかってるよ」と返事をした。
母子は嬉しそうに手を取り合って病棟から出て行った。少しずつ外界に慣らしてやって、一カ月後には退院させる予定だった。
俺は病棟の仕事を終えて、医局で書類を書いていると夜の十時に携帯が鳴った。出ると病棟の看護師だった。
「家田健君が熱を出して帰ってきました」せっかくの機会だったのに残念。どうしたのだろうと俺は思った。
「医局にいるからすぐに行く。熱は何度?」
「三十八度二分です」
「血液検査の準備を頼む」電話を切ると俺は病棟に向かった。病室に行くと健君がむくれた表情でベッドに寝かされていた。傍らには母親が寄り添っていた。
健君に血液検査をしてから点滴をした。母親は、久しぶりに家に帰って弟とはしゃぎ過ぎたと言った。検査結果は悪くなく、約一時間の点滴が終わる頃には彼はスヤスヤ眠りについていた。
それを確認して帰ろうと、暗くなった深夜の病棟の給湯室を通りかかった時、健君の母親が給湯器の前でボウと幽霊のように座っているのを見つけた。
「お母さん、健君は大丈夫ですよ」俺が声をかけたら、彼女は飛び上がらんばかりに驚いてこちらを見た。その見開いた彼女の瞳には、舞が言ったような暗くて深い闇が広がっている気がした。
「先生、ありがとうございました。あの…」母親の口元は何かを言いたそうに動いた。
「心配事があったら、何でも言って下さい」俺は彼女の目を見て促した。数秒間、俺たちは見つめ合った。
「一番お世話になっている先生には言っておきたい話があります」母親は決心したような表情をした。
「まあ、座りましょう」俺は給湯器の前で丸イスを二つ出して向かい合わせに腰掛けた。
「今まで健を助けたい一心で頑張ってきました」母親は話し始めた。
「それは私が一番よく知っていますよ」
「願掛けや祈祷はもちろん、ありとあらゆる事をしました。でも…、やってはいけない事までしてしまった気がするんです」
「と言いますと?」
「…この話は誰にも話さないつもりだったので、内密にお願いしたいのですが、…実は私、人工授精を受けました」
「はい」
やはりそういう人工的な操作をしていたか。偶然にもHLAがピッタリ合う兄弟が誕生するなんて出来すぎた話だ。俺は心の中でそう思いながら頷いた。
「採卵する手術はとても痛かった。でも健を救うためなら何でもできると思って頑張りました。夫の精子とで受精卵を作ってもらい、八個に細胞分裂したところで検査しました」
「健君のHLAに適合する細胞を選び出すためですね」
「そうです。その中で二つの細胞が選ばれて私の胎内に植えつけられました。結局、赤ちゃんになったのは二つの受精卵のうち一つだけでした」
「健君を救うため、一番確実な方法を実行したのですね」
「はい。でも、八つの細胞の内、六つの細胞は捨てられたんです。あの時は夢中で気づかなかったのですが、いくら健を助けるためとは言え、そんな事までしてよかったのか?と最近になって悩むようになりました」
「…」
「捨ててしまった受精卵も私たちの子供です。日の目を浴びたかったのではないかと…」そう話すと、健君の母親は口に手を当てて声を押し殺し両目から涙をこぼした。俺はそっと彼女の肩を撫でてやった。
「ところで健君の弟、卓君は元気ですか?」俺は言葉を選んで彼女に声をかけた。
「はい」すすり泣きながら母親は答えた。
「健君は卓君とはしゃぎ過ぎて熱を出したんですよね。要するに兄弟はとても仲が良い」
「はい」
「よかったじゃないですか。例えどういう形でも無事に赤ちゃんが誕生して育っている。五体満足な子供が生まれてくること自体が、まさに神がお造りになった奇跡。その上に出産は子孫を残すための命がけの偉業。あなたはものの見事に元気な赤ちゃんを産んだ」
「…」
「おまけに兄弟は仲が良くて互いの存在を喜びながら生きている。物心ついたら卓君に、死にそうになっているお兄ちゃんを助けたいか?と尋ねてみて下さい。彼はきっと、もちろん助けたいよと答えます」
「はい」
「そしたら卓君をいっぱい誉めてやって下さい。もちろん健君にも、お前は弟の血で生きていると教えて下さい。彼らは世界一、絆の深い兄弟になります」
「はい」泣きやんだ母親の目に笑みが戻った。
「…ところで、そんな高度な医療を何処の病院でなさったのですか」今度は俺の素朴な疑問をぶつけてみた。
「絶対に言うなと言われていたのですが…、近藤先生が病院を紹介して下さいました。これ以上は勘弁して下さい」母親がまた泣きそうな顔になった。
「打ち明けて下さってありがとう。今は一緒に健君が治る事を願いましょう。そしてこの事は誰にも言いませんし、あなた方も誰にも話す必要はありません」俺はそう言い終えて彼女に一礼すると、病棟を後にした。
それにしても、健君の『救世主兄弟』作りを近藤先生が斡旋していたとは…。予想外の告白だったが、それ以上は俺の知らなくてもいい事。見ないふりをしよう。
「また近藤先生が東陽病院に白衣姿でいたそうですよ」日曜日の午前中、西口病院の当直から帰って来た舞が、部屋に入るなり俺に言った。
「西口先生からの情報?」
「そうです。どうやら子供の患者に骨髄移植をしたようです」
「骨髄移植?」
「謎の動きですよね。西口先生から、関連病院でもない所で働くとは一体どういうことか?と尋ねられました。でも、私たちは一切知らない。少なくとも教室からの正式な派遣ではないです、とだけお答えしました」
「まったくそのとおりだ」
「どうします?」俺は頭が混乱して、まずはコーヒーを淹れようと立ち上がった。台所のテーブルで冷蔵庫に保存してあったマンデリンの豆を二杯分、手回しの豆挽きで砕いた。次第に芳醇な香りが舞い上がってきた。
シャワーを浴びてきた舞が俺の前で、カップを出してからトーストを焼いた。俺はコーヒーメーカーに挽いた豆と水を入れてスイッチを押した。二人とも考え込むように無言でトーストを出しバターを塗って、カップにはコーヒーを満たした。舞はいつものように角砂糖を一つカップに入れた。一口コーヒーを飲むと、マンデリンの香りが口と鼻から入り頭が冴える。
「近藤先生って、最近機嫌がいいですよね」舞がポツンと言った。
「噂によると土井教授が帝大の教授になることはほぼ確実な情勢になってきた。気を揉んでいた事の一つが片付きそうだからではないかな」俺は自分なりの憶測を話した。
「そうですね。目上が一人いなくなったら、上のポストに行けるチャンスになりますものね。でもそれだけではない気がする…」舞がバタートーストをかじって言った。
「取りあえず俺たちは日常の仕事に打ち込もう。東洋病院での事は、必要があれば近藤先生自身から説明があるだろう。先生が何も言わなければ、それは俺たちとは関係のないことなんだ」俺が舞に言うと、彼女は「西口先生も、これは確証がない単なるうわさ話。だから俺も半信半疑なんだとおっしゃっていました」と言ってから自分で納得するようにうなずいた。