六。
京都での学会は、他の大学の最先端の研究や治療法を聞いたり討論し合う事が出来て充実していた。舞とは毎日電話をしていた。家田健君は順調に回復していると、舞は嬉しそうに俺に報告した。
学会が終わり、梅雨空の晴れない京都駅で新幹線を待っていると見知らぬ携帯電話番号から俺の携帯に電話が入った。
「もしもし、私、梅村です。智恵」紛れもなく梅村の声が受話器から聞こえた。彼女がホテルの部屋から蜃気楼のように消えて一年あまりが経っていた。俺は驚いたが、同時にとても嬉しかった。
「もしもし、元気か? 今どこ?」俺は矢継ぎ早に質問した。
「今は実家にいる。斉藤君の携帯番号が変わってなくて良かった。…今からまたすぐに出かけるの」
「どこへ?」
「それは言えない。突然あなたの前から消えてしまってごめんなさい。私は元気にしているから心配しないで。それを言いたくて…」
「例え短い時間でもいい。会えないか?」
「…正直に言えば、私はあなたに会いたい。でも会えばきっと辛くなる」梅村がそう言った時、新幹線がホームに入って来た。
「どうして辛くなるんだ?」俺は新幹線に乗り込むとデッキに立ったまま電話を続けた。
「それを今は言えない。いえ、言う勇気がない。許して」梅村の声が泣きそうになった。
「…わかった。話したくなったら、いつでもいいから話してくれ」
「うん、ありがとう。ちょっと急ぐからまたね」梅村はそう言うと一方的に電話を切った。俺はしばし呆然とその場に立ち尽くしていた。京都を発車した新幹線の窓を、降り始めた雨の粒が横に走っていた。
窓の景色が山にさしかかった頃、ようやく俺は自分の席を探して座った。それから、今かかってきた電話番号を自分の携帯の住所録に登録して梅村智恵と名前をつけた。
俺は窓に叩きつける水色の雨を見ながら考えにふけった。梅村智恵は何かを俺に言いたかった。わざわざ電話してきたのだから、それは間違いない。でも彼女の置かれている状況は皆目わからず、彼女の言いたい事もまったく見当がつかなかった。いくら考えても堂々巡りで何も結論はまとまらない。梅村に会って話したいと思った。
駅に着き新幹線を降りると、俺は大学病院に向かった。三日ぶりに病棟に行くと、とにかく真っ先に家田健君を見に行った。
彼は六人部屋に移され、一番廊下側のベッドで横たわっていた。左腕にはまだ点滴が刺さったままで髪の毛もなかったが、皮膚炎や口内炎は治り血色もよくなっていた。弟の骨髄が日一日と彼の身体に根付いて回復に向かわせていた。生命の神秘を感じた。
「先生はどこに行ってたの?」無邪気な表情で健君が俺を見上げた。
「ちょっと勉強しに京都に行っていた」俺は彼の元気な様子を確認して安心した。他の重症患者を少し診てから、アパートに帰った。中では舞が食事の支度をしていた。
「お帰りなさい。思ったよりも早かったですね」
「ああ、学会は盛況で有意義だったよ」
「私も来年は行きたいです」
「そうだね。家田君に使った新薬の成果をまとめられたら発表してもらおうか」
「頑張ります」舞が嬉しそうに笑った。
それからいつものように食事をして後片付けを終えると、二人ともパソコンで残務をした。しかし俺は夕方に聞いた梅村の声が頭の中で繰り返し聴こえ、仕事に集中できなかった。彼女は何を言いたかったのか……
「健君の弟って」舞が静かな部屋の中で突然独り言のようにつぶやいた。
「骨髄を提供した卓君か?」俺は我に返って答えた。
「はい。見事にHLA型が健君と一致したんですが、あれは偶然でしょうか?」舞の疑問は俺も感じていた事だ。でも敢えて見ないふりをしてきた。
「わからん」
「健君の母親は何か隠しているんです。私にはそれがひしひしと感じられるんです」
「また女の勘か?」俺は少し笑うと、舞は真面目な顔で俺を見た。
「はい。家田さんは時おり凄く暗い表情を垣間見せるんです。何かを隠し思い悩んでいるような陰を感じるんです。それが最近は頻繁になってきました」舞は言い切った。
「そうか…」女の勘とは実に恐ろしい。今度からそういう目で母親を観察してみようと俺は思った。同時に俺は舞の前では梅村の事を考えないようにしよう。勘の鋭い舞に悟られないようにしてやろうと思った。
「もう寝ようか」俺は舞を誘った。ベッドに入って彼女を夢中で抱いていると梅村の事は忘れられた。心地良い充足感と共に果てた。
隣で寝息を立てて舞が眠った。俺は舞を愛しているし必要な存在だ。でも、梅村と一つになった時の稲妻に打たれたような衝撃は舞では得られない。雨の夜に梅村を抱いたあの目くるめくような感覚は忘れられない。