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五。

 一年が経ち再び梅雨の季節が巡ってきた。

 俺の前から姿を消した梅村智恵は、携帯もメールも通じず相変わらず音信不通のままだった。かつて智恵の同僚だった眼科医に訊くと、彼女は九州で開業していた叔父が急病に倒れ、その診療所を切り盛りするために大学病院を辞めた。教室員たちにも連絡先は智恵の実家しか知らされていないとのことだった。彼女の実家では相変わらず、亡くなった智恵の姉の夫である近藤准教授とその愛娘が智恵の両親と暮らしていた。


 俺と後藤舞は、俺の部屋で半ば同棲生活を送っていた。後藤、いや、舞はコツコツ実績を積み重ねて春に助教へ昇進した。しかし今春、血液内科には新しい医師が入らなかったので、彼女は診療に加えて学会や教育活動が増えてますます多忙になっていた。

 学会や当直も含めると、同棲と言っても生活はすれ違いが多かった。でも俺にとっての舞は、仕事でもプライベートでも欠くことのできないパートナーになっていた。それに彼女を抱くたびに、舞の俺に対する愛情が深まってくるのを体感する。


 家田健君の母親は元気な男の赤ちゃんを十一カ月前に出産した。卓と名付けられた健とHLA型のピッタリ合う弟から、いよいよ骨髄採取を明日実行することになっていた。

「今までよく頑張ったね」舞がクリーンルームで眠る健君の頭をやさしく撫でた。この一年の治療で彼の白血病細胞は死滅した。しかし移植後の拒絶反応を防ぐための免疫抑制療法によって、健君の正常の血液成分は激減して皮膚のあちこちは荒れ口内炎や下痢にも悩まされていた。彼の髪の毛は全くなく、発熱にも繰り返し襲われていた。

 でも骨髄移植が成功すれば、これらの症状もすべて解決する。明日には俺と後藤が執刀して、弟の卓君から採取した骨髄を健君の身体に注入する。

 それにしても、HLA型が適合する赤ちゃんが見事に生まれるとは、人工的に適合する受精卵のみを選んで『救世主兄弟』を製造したのではないだろうか?

だとしたら何処の医者がそれを実行したのだろう?

 若干の疑問はあるが、健君の両親はその事にまったく触れないので敢えて俺も何も訊かなかった。経緯はどうあれ、今は健君を救う事だけに集中しよう。ゴールは目の前にあると思った。


 一夜が明けると、朝から手術室で全身麻酔のかかった卓君の骨盤から慎重に骨髄を採取した。皮膚が薄い腸骨と呼ばれる骨盤の一部に採取用の太い針を刺し、一つの穴から方向を変えながら骨盤から髄液を注射器で採取した。三つめの穴からの採取は舞にやらせた。

「もっと腰を入れて」時おり俺は彼女の手を取って教えた。舞は額に汗を滲ませながらも当初の計画通り全部で五つの穴を空けて、それぞれで方向を変えて約五十箇所から髄液を採取した。

 採取後は、髄液が骨盤から漏れないようにガーゼで圧迫して止血した。その間に俺は採取した髄液を一刻も早く健君に注入するよう舞に託すと、彼女はそれを大切に抱えて手術室を出て行った。

 俺は十分後、出血が完全に止まったのを確認してから傷口にテープを張って手術を終了した。それを見届けると麻酔医が卓の麻酔を覚ました。約十分後、卓君が泣き声を上げて麻酔から無事に覚めた。

 万一この手術で卓君の命が損なわれたら、今までの苦労が水泡に帰す。想像したくもないような最悪な事態は免れて俺はホッとした。


 病棟に上がると手術衣のままの舞が、髄液を健君に注入していた。昼過ぎにそれが終わると、新しく健君の体内に入った髄液に拒絶反応が起きないように、再び強力な免疫抑制薬を点滴に入れた。

 また数日の間、健君が下痢や嘔吐、発熱や口内炎に苦しむ。だが今回の化学療法はゴールが見えている。二週間ほどすると、卓君の骨髄が健君に生着し始め、その頃から健君はメキメキ元気になり始めた。

 

「もう一ヶ月ほどで外泊させて徐々に慣らし、二ヵ月後には退院させて様子を見よう」

 毎週水曜日の夜に行われる教室の検討会の際、近藤准教授が家田健君の治療方針を俺に命じた。最近は土井教授と高田准教授が不在のことが多い。舞が聞いた噂では、教授は母校である帝都大学の教授の座を狙って忙しい日々を送っているらしい。


「帝大の主任教授が学長に昇進して急にポストが空いたらしいです。でも私たちを見捨ててすぐに名乗りを上げるなんて…。此処は土井先生にとって出世への単なるステップだったんですね」舞はプリプリと怒っていたが、世の中はそんな話は五万とある。俺はそんな事は大して気にならなかったが、近藤准教授は好むと好まざるに関わらず微妙な立場に立たされていると心配していた。

 土井教授が晴れて帝都大学の教授になれた場合、ここの教授のポストを帝都大出身の高田准教授と争うことになる。同じような年齢の二人のうち、どちらが教授になっても敗れた方は大学を去ることになるだろう。

 そんな事情はおくびにも出さず近藤先生は日々の仕事を精力的にこなしている。最近の彼は生き生きしているように感じる。何か勝算があるのだろうか?


「近藤君は東洋病院に行っているの?」

 市内で開業している十年先輩の西口先生に訊かれた。俺は週に一回、西口病院の夕方の外来に行っていた。薄給の勤務医のために先輩から頼まれたアルバイトなのだが、消化器内科出身の西口院長も血液疾患の患者を診る俺を必要としていた。

「いえ、知りません」と俺は答えた。近藤准教授は大学傘下の城東市民病院へ定期的に行っているが、東洋病院へ行っているとは聞いた事がなかった。

「そうか。東洋病院は老舗の有名私立病院で院長は代々帝大出身だ。下で働く医師たちも全員が帝大の連中なのだが、実は整形外科に一人だけうちの出身者がいる。そいつは俺の同級生なんだが父親が帝大出身で、医師免許を取ったら帝大に入局しろと命令されて入った。でも結局は帝都大学内での出世コースから外されて、八年くらい前から東洋病院で働いている。内科と産婦人科がメインの病院の整形外科医だから、まあ閑職だ。

 先週、そいつと久しぶりに飲みに行ったら、白衣を着た近藤君を病棟で見たと言うから気になったんだ」

「そうですか…」

「土井教授が帝大に戻った後は帝大出身の高田准教授がうちの教授になる、と決まったのかと思ったよ。うちの大学の教授はよくそういう決まり方をして、口の悪い連中からは帝大の属国と言われているからね」

「はい。でも帝都大学の方がいまだに教授の公募期間中で、決まるのは早くても三カ月くらい先だそうです。うちが決まるのは更にその後ですから…」

「甘いね、斉藤君は。この手の密約とは教授選前から動き出すんだよ。うちの教授は高田先生を昇進させるが、その代りに近藤君は伝統ある有名病院で帝大の牙城、東洋病院の内科部長か副院長あたりのポストを譲るという密約が成立しているかも知れない」

「…お見事な推測ですね」俺は西口先生の考えすぎという気もしたが、彼の話には一点の矛盾もなかった。

「ワハハ、そうだろう。君も身の処し方を考えておいた方がいい。こういう事は早い者勝ちだよ」西口先生は得意げに大笑いをして俺の前から去った。


 最近は家田健君も大部屋に移れて元気になった。今は病棟も比較的落ち着いているので、今夜はまっすぐ家に帰った。五階の部屋に入ると、舞も珍しく帰って来ていて台所で料理をしていた。

「お帰りなさい」彼女の笑顔はいつ見てもいい。俺はホッとした気分で料理を手伝った。

 それにしても、舞が言うように男女の仲を嗅ぎわける女の勘が異様に鋭いとしたら、俺たちが付き合っている事は病棟中の看護婦が察知しているのかな?

 俺は舞の顔を見てふとそう訊きたくなったが、それを聞いても仕方のない事だと思い直して、さっき西口先生から聞いてきた話をした。彼女は興味津津な様子で聞き入った。

 外食で不足しがちな栄養素を補いながら手軽にできる豚肉と野菜いために、味噌汁とご飯の夕食を二人で食べた。会話は自然とこれからの教室がどうなるのかという内容になった。


「私は近藤先生が主任教授になってくれる方がいいなぁ」舞が遠くを見るように言った。

「やはり同窓生というのは何かしら繋がりがあって親しみやすい」俺も同意見だった。

「何か近藤先生のためにできることはないでしょうか?」

「特にない。俺たちは自分の仕事するだけだ。それが患者さんのためになり、結局は人のためにもなる」

 俺には三年目から二年間勤めた場末の港病院で強くそう思った。次々にやって来る貧困層や労務者、夜の女たちの重症患者の治療にあたっては、出身校や身分、男女などは関係ない。金儲けにもならず、ひたすら身を粉にして使命を果たす『医療』のみを行う毎日だった。

 もちろん、時代を切り開く『医学』も大事だ。先端医学がなければ、家田健君も到底助かる見込みはなかった。でも俺の本分は『医療』だと思う。

「それはそうですね」後藤はつぶやいた。


 食事が終わって後片付けをしたら俺は机で、舞は食卓でノートブック型のパソコンと本を出して仕事をする。学会や研究会、そして学生の講義に院内会議の準備などを黙々とこなす。

 明日は舞が、二日後は俺が当直だ。三日後は舞が西口病院の当直に出かける。その日から俺は教授と、京都の日本血液病学会でプレゼンするために二泊三日で出かける。順番に風呂に入って、お互いの仕事が一段落すると二人でベッドに入って愛し合ってから眠った。二人で身体を寄せ合っていると安らげた。

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