四。
週末は夕方から市内のホテルの会議室で小さな研究会があった。弁当を食べながら忌憚なく意見を交換する会合で、他の大学や病院の中堅の先生たちと自由に話し合えた。
それが終わってから、中央駅のタワーホテルのバーで梅村と待ち合わせた。彼女から飲みに行きたいと誘われたからだ。
待ち合わせのロビーには梅村がシックな色のスーツを着て立っていた。
「ごめん。待った?」と俺が声をかけると、「いえ、私も今来たところ」と微笑んだ。
ホテルの天辺までエレベーターで一気に上がった。入り口のボーイに「二人だけど座れますか?」と訊くと、「此処の席なら空いております」と答えた。そこには背もたれの高い、見るからに高級そうなソファーが夜景を見る方向に置かれていた。
「ここがイイ」と梅村が言ったので、二人で夜景を目の前にして深々とソファーに腰を下ろした。
「滅茶苦茶ロマンチックな席だね」俺は目の前に広がる夜景を見て思わず言った。
「本当ね」俺の左側に座った梅村が微笑んだ。
「好きでない人と結婚できる?」二人で二杯めのジンロックを飲んだところで梅村が俺に訊いた。
「一夜だけの関係ならともかく、結婚はできないだろう。だって結婚は共同生活。好きでない人と共に白髪が生えるまで生活するなんて無理だろう」梅村の真意を測りかねた俺は、少しドギマギして答えた。
「だよね…」梅村はそう答えると夜景に目を移した。彼女の切れ長の瞳に街の灯りがキラキラと映った。
「じゃあさ、愛する者のために自分を犠牲にできる?」梅村が前を見たまま言った。
「一体どうしたんだ…」
「答えて」梅村は哀願するように俺を見た。
「愛の深さにもよるけど…、多分できる」彼女の気迫に押されるように俺は答えた。先日の彼女の陰りのある表情を思い出した。梅村は何か重荷を背負っている気がした。
「子供のためなら?」梅村が潤んだ眼で俺に問いかけた。
「それはできると思う。俺の職場では子供も亡くなるんだ。そういう場合、親は決まって自分が代わってやりたかったと言って泣く。たまらないけど、きっと自分もそう思うんだろうなぁ」家田夫妻の必死な顔を思い浮かべながら俺は答えた。
「そうだよね…」梅村は何かを考える表情をした。それから彼女はジンロックのお代わりを、俺はウイスキーの水割りを頼んだ。束の間の沈黙が二人を包んだ。空には一雨来そうな黒い雲が押し寄せて来た。
「私が、今夜は帰りたくないと言ったら斉藤君はどうする?」沈黙を破って梅村が俺に言った。
「…そんな事を言うと俺は狼になってしまう」唐突な梅村の言葉に、俺は妙に喉が乾いてきて水割りをグイッとあおってから答えた。俺の左腿に彼女の右腿が擦り寄った。
「狼の斉藤君も多分素敵よ」梅村の眼から先ほどの翳りは消えて、今は妖しい光を放っていた。
「私を嫌い?」
「バカ。嫌いなら此処に来ない。好きに決まってる。ずっと前からだ」
「私も貴方を好きよ。ずっと前から」
「…じゃあ、このホテルに部屋を取って来る。据え膳食わねば男の恥、女に恥はかかせない」
「アハハ、さすが斉藤君ね。でも、武士は食わねど高楊枝という言葉もあるわ」
「俺はそんな聖人君子ではないよ。昔から」
フロントに下りて尋ねると、スイートルームしか空いていないが夜遅いのでダブルルームの値段で結構ですと言われた。俺たちはキーを受け取ると部屋に上がった。
「素敵なお部屋ね」眼下に広がる市街を窓から見た梅村が、はしゃいだ声で言った。俺は何も言わず彼女を抱き寄せて唇を奪った。
彼女は目を閉じて俺に身を任せた。欲情のままに彼女をベッドに押し倒して服をはぎ取った。思ったよりも豊かで張りのある彼女の胸があらわになった。
「シャワーを浴びさせて…」彼女は喘ぐように俺の下で言った。俺が彼女を解放すると、彼女は浴室に消えた。
俺は冷蔵庫からミネラルウオーターを取り出すとソファーに座って夜景を見ながらそれを飲んだ。雨が降り始めて辺りが煙って見えた。何だか急転直下で夢のような展開だな、と思った。
「お先に」梅村が裸身に白いバスタオルを巻いて浴室から出てきたので、入れ替わって俺はシャワーを浴びた。身を清めてから浴室を出ると、薄暗くした部屋のベッドに梅村が横たわっていた。俺は彼女の横に身体を滑り込ませると、もう一度彼女を抱き寄せた。
「コンドームを持ってないから外に出すよ」俺が言うと、梅村が俺の腕の中で「安全日だから大丈夫よ」と微笑んだ。
ベッドの中では俺が彼女を求める以上に、彼女は俺を求め激しく身体を反応させ何度も「滅茶苦茶にして」と喘いだ。俺が彼女の中に入ると、彼女は身を震わせるように逝った。俺の身体を、稲妻に打たれたような衝撃が駆け抜けた。長年積もっていたマグマが一気に爆発するように二人は熱く燃えて互いを求め合った。
もう一度、彼女が極みに達してから俺は彼女の腹の上に抜いて果てた。安全日とは言え、万に一つも彼女を妊娠させてはいけない。俺は梅村を好きだが、一生を共にするほどの覚悟はできていない。お互いにもっと話し合ってからにしようと、ギリギリのところで判断した。
しばらく二人で息を切らせて抱き合った。そのうちに梅村が寝息を立て始めた。それを子守唄のように聞きながら、俺も眠りについていた。
目を覚ますと夜は明けていて、梅村は消えていた。テーブルの上にホテルの便箋が置いてあった。表には「斉藤様」と梅村の字で書いてあった。便箋の封を開けると中から紙が一枚出てきた。
『今夜はありがとう。とても嬉しかった。
突然だけど、これから私は大学病院を辞めて旅に出ます。いつかきっと事情を話します。いえ、話せる時が来るように頑張ります。
勝手を言ってごめんね。そして、ありがとう』
俺は呆然と立ち尽くした。梅村の時折みせる翳りから、彼女は何かを悩み迷っていると感じていたが、彼女の抱える事情にはまるで心当たりがなく、またこういう展開もまったく予想外だった。
俺の夢が一夜にして実り、そして瞬く間に何もかもが崩れてしまった気がした。窓の外には雨が、まるで梅村を跡形も無く流してしまうように激しく降っていた。
そこにけたたましく俺の携帯が鳴った。梅村からかと思って慌てて電話を取ると、「先生、健君が大変です」と後藤の切迫した声が聴こえた。
「どうした」俺は現実に引き戻された。
「一時間前に痙攣して意識レベルが低下しました。血液検査では極度の貧血で、輸血を取り寄せていますが未だに到着せず血圧が下がってきて…」後藤が途方に暮れたように言葉を詰まらせた。
「熱は?」
「ありません。むしろ低体温です」
「昇圧剤を点滴しろ。すぐに行く」俺は電話を切ると急いで服を着てフロントに駆け下りてチェックアウトをすると、タクシーで病院に急いだ。雨の降りしきる日曜日の朝の街並みは、気味が悪いほど静まりかえっていた。
大学病院の時間外外来の脇の通用口から五階の医局に上がると、ロッカーから白衣を出して着た。近道するために防火扉を開けて別棟五階にある血液内科病棟に急いだ。
ナースセンター脇の病室に入ると、両腕に点滴が刺された家田健君の向こうで看護師と輸血を準備していた後藤が「朝からすみません」と俺に言った。
「輸血が来たんだね」俺が少し安堵して言うと、後藤が血圧が四十しかないと半ベソをかくように言った。ベッド脇のモニターを見ると脈も微弱になっている。
「強心剤!」俺の身体を、この患者が死んだらどうしようという不安と緊張が走り、看護師に緊迫した声で言った。
「それは大人用の劇薬…」後藤が反対側の腕に輸血をセットしながら言った。
「わかってる。緊急事態だ。あとステロイドを百ミリグラム!」
「そんな治療法も教科書にありません」後藤がうめくように言ったが、看護師は俺の指示に従ってテキパキ動いた。
このまま手をこまねいていても健君は死ぬだけだ。俺には二年間在籍した場末の港病院で、瀕死の子供に強心剤を投与して救命した経験がある。役に立ちそうな武器を縦断爆撃のように全部使う。最早理論ではなく、とにかく命が助かればいいと思った。
「後藤は早く輸血を入れるんだ」俺は看護師から強心剤とステロイドが入った注射器を受け取ると、目分量で点滴の側管から静脈へ薬剤を注入した。ほぼ同時に後藤が健君に輸血を全開で入れ始めると、少しずつモニターの脈拍が力強くよみがえってきた。
「血圧、八十の四十です」看護師が言った。後藤は健君の左腕から輸血を入れながら「健くん、がんばって」と必死な目をして言っていた。
五分ほどで健君の顔に血の気が戻り、十分ほどで意識も戻った。輸血が終わる頃に、もう一度血液検査をするように看護師に言うと、俺は病室を出て健君の家族に病状を説明した。
「先週まで行っていた化学療法が大変よく効いたのですが、血球数が下がり一時的なショック状態に陥りました。今日一日は予断を許しませんが、ここを乗り切ってくれると白血病細胞はかなり退治できたと言えます」
「健は大丈夫でしょうか?」日曜だったので、健君の父親が来ていた。母親は臨月が近く今日は休んでいるらしい。
「彼は頑張っていますよ。少しずつ容体が持ち直しています」
「ありがとうございます」健君の父親が頭を下げた。俺がもう一度、病室に入ると意識の戻った健君が俺を見た。
「気分はどうだ?」
「眠いよ」抗がん剤の影響で髪の毛も眉毛もすっかり無くなった健君が、思ったよりはっきり答えた。
「疲れていたんだよ。少し眠りなさい」
「うん」健君が目を閉じたら輸血を終えた後藤が、今度は注射器で採血をした。看護師に目配せすると、血液を受け取った看護師が検査室に走って行った。
「また君が呼ばれたの?」俺は後藤に声をかけた。
「はい。この間の学会資料を医局で作っていたので、来る事自体は大した手間ではありません。でも私の手に負えませんでした」
「いや、一番大切な輸血の手配をしたのは君だ。もう少し遅かったら危なかったよ」
そこへ看護師が検査結果を持って入って来た。血球は正常値の下限まで戻っていた。
「もう大丈夫だ。点滴はカルテにオーダーしておくから、後はよろしく」俺は看護師に言うと、後藤を伴って病室を出た。近くにいた健君のお父さんに「落ち着きました」と告げると、ナースセンターで今日と明日の点滴と薬剤のオーダーを後藤と一緒に書き直した。
「朝飯でもおごるよ」書き終えて後藤に声をかけると「もうすぐお昼ですよ」と後藤が微笑んだ。時計を見るともう十一時だった。
「本当だ。じゃあ、昼飯をおごってやる」
「ありがとうございます。もう一度、健君を診てから医局に行きますので、先生は先に行って待っていて下さい」後藤は飛びきりの笑顔になってナースセンターから元気よく出て行った。
医局に戻った俺はソファにどかっと座ると、今日は日曜日で職員食堂が休みである事を思い出した。
「まいったなぁ」俺は独り言を言ってから、何処で後藤と昼食を食べようか考えた。
結局、後藤の車で小さなイタリアン・レストランに行くことにした。職員駐車場に停めてあった彼女の車は、若い女性には不釣り合いなリアウインドを真っ黒にシールドした濃紺のクラウンだった。父親が使わなくなった車をもらったのだと彼女は説明した。雨は上がって夏の太陽が顔をのぞかせていた。
十分ほど走って着いたレストランは木造で、店内には五つのテーブルがあった。一番窓際の席に二人で向かい合って座った。
「後藤は、なぜ血液内科に入ったの?」俺は頼んだコーヒーを一口飲んでから訊いた。程良い苦さが口の中を駆け抜けた。
「小さい頃、親族が白血病で亡くなっていて…、なんて言うと格好いいのですが」後藤が悪戯っぽく笑った。
「何だ、違うのか」
「うちの父は事業家で、私を医療ビジネスの起点にしようと画策して、医学部に入るように勧めました。私も医者になったら金持ちになれると思ったので、素直に従って医学部に進みました」
「そうか…」
「でも大学で学んでいくうちに、医学はそんな生半可なものではないと思うようになりました。五年生の病院実習の時に、私は先生から内科を教わりました」医学生の実習は義務付けられているので、どこの大学病院でも学生が医師の近くに立っていることがある。現場の医師にとっては臨床の傍らで学生にも医学を教えるので、忙しいと指導もついおろそかになる。残念ながら俺は彼女の医学生時代を思い出せなかった。
「看護科も含めると毎年たくさんの学生さんが来るので、先生は私を覚えていらっしゃらないでしょうね」後藤が俺の気持ちを代弁するように言った。
「お恥ずかしいが、そのとおりだ」
「先生はお忙しい合間を縫って、私に内科学を一生懸命に教えて下さいました。一年間実習した中で一番印象に残ったので、研修医が終わったら此処に入ろうと思っていました」
「そうだったのか」
「でも人を助けられる医者になるには、まだまだ年月が要りますね。今日も私は自分の力不足を嫌と言うほど自覚しました。増して金儲けのために医者になろうとした事を今では恥じています」
「…今は何でも自分の血となり肉となる。何でも吸収しながら懸命に働くのがいい」
「はい」
「でもずっと全力疾走を続けることは体力、気力とも難しい。俺がそう感じ始めていたところに君が来てくれて本当に助かっている」
「こんな私でも?」後藤の顔が明るく輝いた。「大助かりだ」と俺が微笑むと後藤も嬉しそうに微笑んだ。
出てきたパスタを「いただきます」と言うや美味しそうにペロリと平らげた。俺も空腹だったので一気に食べた。食事を終えて周りを見ると、日曜のせいか平和そうなカップルや家族連れで席が埋まって来た。
「出ようか」俺は後藤に言って店を出た。
「後藤は今から何処に行く?」助手席に座った俺が訊くと、「そうですね。少し休みに帰ります。先生は?」と運転席に座った後藤が訊いた。
「俺も帰る。悪いけどアパートまで送ってくれないか」
「お安いご用です」後藤が車を発進させると十分もしないうちに俺のアパートに着いた。
「よかったら…、部屋に来ないか?」早朝、梅村に急に去られた俺は少し錯乱していたのかも知れない。とにかくこのまま一人で部屋に帰るのが嫌だった。一人になるのが怖くて後藤を誘っていた。
少し間を空けて後藤が「はい」と決心したようにうなずいた。アパートの駐車場に車を停めると、二人で最上階の五階にある俺の二DKの部屋に上がった。
「少し片づけないと…」俺は思わず言った。ライティングデスクの周囲は書類や本に埋め尽くされたが、最近は自炊をする暇もないほど忙しかったので部屋自体は比較的きれいだった。
「片づけを手伝います」と近づいてきた彼女を、俺はおもむろにソファーに押し倒すと無心で彼女を抱いた。彼女はほんの小さく抵抗したが、すぐ素直に俺に抱かれた。
小ぶりながら肉感的な彼女の服をはぎ取ると、俺は自分の欲情をぶつけた。彼女に押し入った俺には、昨晩の梅村を抱いた時のような稲妻がかけぬけるような衝撃は感じなかったが、後藤を抱き終わった後には何とも言えない充足感と安心感に包まれた。
『女で受けた傷は女でしか癒せない』
ある作家のエッセイを引用して俺が梅村に言った言葉だったが、それを俺は体感した。俺を癒してくれた後藤を愛おしく思った。