三。
「救世主兄弟という言葉を知っていますか?」夕方、病棟回診を終えて廊下を歩いている時に、後藤舞が俺に言った。俺は一瞬ギクッとした。
『救世主兄弟』とは、難病の子供の臓器や骨髄移植のために両親が作る弟や妹の事だ。今までは諦めるしかなかった病気の子供たちを、新たに生まれてきた弟や妹の臓器や骨髄などによって命を救う。両親にとってはまさに医学の進歩が神さま以上に思えるかも知れないが、こういう命の救い方に論議もある。
俺は死の淵にあった急性白血病の家田健君の両親に、後藤の言った『救世主兄弟』について話したことがある。その後、健君の母親は身ごもった。そしてあと二カ月あまりで健君の弟か妹がこの世に生まれる。
「その言葉は知っている」家田夫妻にその話を伝えた事は、後藤にも教授にも言っていなかったので俺は素っ気なく答えた。米国では体外受精によって受精卵を複数作り、兄姉と遺伝子が適合するものだけを選び出して妊娠・出産させる『救世主兄弟』が既に何百人と生まれているそうだ。
生まれる前からドナーとなることを期待され、「救世主兄弟」として生まれた子ども自身の気持ちはどうなのだろう?
HLA型が合わない受精卵を捨ててしまうことは倫理的に許されるのだろうか?
こういう方法での救命に、俺は若干の違和感を感じる。
「HLAの合う弟か妹が生まれたら、健君は助かるかもしれませんね」俺の心の葛藤をよそに、何も知らない後藤は大きな目を輝かせて言った。
「そうなっても問題になるのは本人の同意だ。一歳の子供に『兄を救うためにお前の身体から骨髄を取っていいか?』と尋ねて同意を得る必要がある。でもそんなの本人にわかるはずがない」ナースセンターに戻ると、俺は後藤を諭すように言った。
「未成年者は親が同意を代行できます」
「そうだ。だから健君の治療は全面的に両親が決める事になる。提供者の意思はまったく関係ない」
「…厳密に言えば、そうですね」そう言うと後藤は考えるように黙った。
「斉藤先生、時間外外来からお電話です」看護婦の一人が俺の背中に声をかけた。
「あ、今夜は当直だった」俺はナースセンターの壁にかかっている時計が六時を指しているのを見てつぶやいた。
「私も泊まります」後藤が言った。
「いいよ。君は一昨日の晩に当直したばかりじゃないか」年下の後藤は当直回数が俺より多い。医者の世界は昔から封建的だ。
「先生が外来に行っている間に家田君が急変したら困ります。病棟は私に任せて、先生は外来に行って下さい」後藤は凛として言った。当直医は一晩中働いても翌日は通常業務をこなさなければいけない。そんな状況は日本の何処でも昔から日常的に行われていて、医者の使命感とやる気のみに支えられている体制が医療崩壊を更に進めている気がする。
一昨日の晩は後藤が当直医だったが、病棟の重症患者が亡くなったので俺が呼び出された。彼女は時間外外来で発熱や胸部痛患者の対応に追われていたからだ。教室の中の独身で病院の近くに住んでいる俺と後藤が、どうしても呼び出される回数は多い。
夜十一時から病棟で危篤状態の骨髄腫末期の高齢男性の処置を始めつつ患者の家族を呼び出し、その患者の最期を看取ったのは午前二時だった。ナースセンターで死亡診断書を書いていたら後藤が現れた。
「斉藤先生、すみませんでした。やっと時間外外来が落ち着いて…」
「お疲れ様。すべては無事に終わって、今から霊安室へお焼香をしに行くところだ」
「私も行きます」夜の暗い廊下を二人で黙々と歩いた。患者が亡くなるたびに自分の無力さを感じる。医学が進んでも助かる命は一部だ。
地下一階にある霊安室に行くと、亡くなった患者の家族が四人ほど集まっていた。その中にいた患者の妻である老女が俺たちに「お世話になりました」と、深々と頭を下げた。
「力及ばず残念です」俺は白いハンカチを握り締めた老女に頭を下げると、焼香台で合掌して再びお辞儀をした。後ろにいた後藤が俺にならって焼香してからお辞儀をした。
「後はやっておきますので、先生はどうぞお帰り下さい」霊安室を出ると後藤が後ろから俺に言った。
「うん、頼む」俺はそのまま医局に帰るとソファーの上にゴロンとした。時計を見たら午前三時だったのは覚えているが間もなく俺は眠ってしまい、気づいたら朝になっていた。
自分のロッカーから歯ブラシを出して歯を磨いてから顔を洗った。それから当直室の脇にあるシャワー室でシャワーを浴びてから外来に降りて次々とやって来る患者たちを診た。
あれから三十時間ほど経った今は、俺が当直医だった。時間外外来には内科医が一人で、日ごろは診ない循環器や消化器の患者にも対応しなくてはいけない。心身ともにプレッシャーのかかる仕事だ。せめて病棟の仕事は私がやりますという後藤の健気な申し出は嬉しかったが、彼女は疲れているに違いない。
「今夜は帰れ。家田君も落ち着いている」
「…じゃあ、病棟をもう一度回って落ち着いていたら帰ります」
階下の時間外外来に降りて三人ほど患者を診たら手が空いた。「医局にいる」と外来の看護師に言い残して五階に上がると医局の扉を開けた。中には後藤がいた。
「何だ。まだいたのか」
「はい。冷凍のグラタンを買ってきたので一緒に食べませんか?」
「ああ、ありがとう」
「今から来月の学会発表の資料を作るので時間があったら見て下さい」
「ギブ・アンド・テイクか」俺が笑うと、
「そういうことです」後藤がチョロッと舌を出した。電子レンジの中で十分ほどして出来上がったグラタンを二人で食べながら後藤の資料に目を通した。
内容は最新薬を使って家田健君を治療した経過報告だった。米国では承認されている薬が日本ではまだ治験段階で一般には使えなかった。日本の行政のどこかに問題がある気がするが、政治の素人の俺にはわからない。だが、先進国の中で新薬の認可が一番遅れていることだけは歴然とした事実だ。
この薬で健君は一時かなり持ち直した。副作用もあるが、注意して使えばかなり有効な武器になる。海外ではすでに多くの治療成功例が報告されている。
「健君の白血病が制圧できて、骨髄移植に持ち込めるといいなぁ」後藤が独り言のようにつぶやいた。ペットボトルのアイスティーをガブ飲みしながら俺もうなずいた。
健君の弟か妹の誕生まで、あと二ヶ月だ。最近の後藤は必要以上に健君に感情移入をしている様子だが、彼の治療に長く携わっている俺にもそういう感情は湧いている。
もし数パーセントでも自分の息子が生存する可能性があるのなら、それを追求したいのが親心だ。そういう心情は十分に理解できるし、生まれてくる子も『兄を救いたい』と思わないはずはない。そう思う事にしよう。
ふと気づくと後藤がコンピューターの前に器用にうつ伏せて寝息を立てていた。彼女の肩に白衣をそっと羽織らせてから、俺は脇にあるソファーの上にゴロリと横たわった。最近は横で寝ている彼女と一緒にいる時間が生活の大部分を占めていて、何だか彼女と此処で一緒に暮らしているような錯覚を覚えた。
それも悪くないか…、というホンワカした気分の中で俺はまどろんだ。