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二。

 週末に、我が中央医科歯科大学出身で小児科教室の吉川先輩が小児科の主任教授に就任した同窓会主催の祝賀会が行われた。市の中心部にある老舗ホテルで開かれた立食パーティーの会場には、同窓の医師たちが百人ほど集まった。


「うちの大学は代々、帝都大学の連中に牛耳られている。その中で俺に続いて吉川君が主任教授になれた事は誠におめでたい」同窓会長の黒田病理学教授が持ち前の大きな声で怪気炎を上げて挨拶をしていた。

「お宅は近藤准教授が教授に昇進するよう、お前がしっかり支えてやれ」

 歓談の時間になって偶然そばに来た黒田教授が俺に言った。あまり昇進には縁がないと思っている俺だったが、自分と同じ大学出身者がトップにいれば誇らしい。ただ血液内科の土井教授に帝都大学からついてきた高田准教授と近藤准教授の年齢差は僅か二歳だ。今から十年後に土井教授が定年退官してから行われる教授選では生き残りを賭けた厳しい闘いが予想された。俺は黒田先輩に「はあ」と短く曖昧な返事をした。

 

 今夜の主役である吉川新教授にも挨拶した。

「俺は患者さんのために、与えられた仕事に全力で取り組んでいた。そして気がついたら教授になれていた。お前もまずは与えられた目の前の仕事を精一杯やってみろ」今年五十歳になった吉川先輩は俺にそう言った。

 パーティー会場では、その他に日頃お世話になっている先輩や俺を助けてくれる他科の後輩たちに一渡り挨拶して回っているうちに宴も終わりに近づいた。


「斉藤君」

 俺が壁際でコーヒーを飲んでいると、右側に梅村智恵がベージュのスーツ姿で歩み寄ってきた。

「ああ、久しぶり。来ていたんだ」こういう会にはあまり出席しない梅村に思いがけず会えて、俺は嬉しかった。

「学会があってね、さっき来たばかりよ」今来たばかりのせいか、梅村智恵が声を弾ませて言った。

「それは大変だったね」

「此処が会場から近かったので食事でもできないかと思って寄ったんだけど、もう宴会も終わりみたいね」梅村が周囲を見て少し残念そうに言った。

 彼女の容貌は学生時代のままの愛らしさを残していた。その当時、俺は彼女を好きだった。でも彼女は先輩と付き合っていた。卒業後、梅村はその人と別れたと風の噂に聞いたが、俺には看護婦のガールフレンドができていた。その彼女とは一年あまり付き合ったが別れてしまった。

「良ければ、その辺で飯でも食う?」俺は思い切って彼女を誘ってみた。

「斉藤君はもう食べたんじゃないの?」

「いや、いろいろな人と話していたから、ほとんど食べられなかった。すぐそばに小料理屋があるから行ってみよう」俺は梅村を促すと、終わりかけたパーティーを後にして繁華街に出た。

 

 土曜日の街は若者で賑わっていた。外はまだ明るく昼間の蒸し暑さが残っていて、歩いていたらスーツの下にはうっすら汗が滲んだ。

 通りから一本奥まった所にある小さな和風の店先に『とり重』という看板がかかった小料理屋に入った。出てきた和装の若い女店員に、「ちょうどお部屋が空いています」と奥の小じんまりした個室に案内された。

「いい雰囲気のお店を知っているのね」梅村がニコヤカに座ると、俺は上着を脱いで彼女の前に座った。この店は前に接待で一度だけ来た事のある店で、地元産の鳥をメインに使った料理を出す店だった。まずは生ビールを飲みながら、彼女の仕事について訊いた。

 梅村は実家の眼科医院を継ごうと思って眼科学教室に入った。六年ほど修行したら父親の診療所を手伝おうと考えていたが、駆け出しから親身に指導してくれていた女医の山本講師から頼りにされて抜けるに抜けられず現在に至っている。論文の実績が少ないので身分は助教で、講師に昇格する当てはない。

 そんな状況下で先月は事故で眼球を痛めて手術した患者が結果的に失明してしまい、「治療に不備があった」と訴訟を起こした。その緊急手術を担当した同僚医師は、多忙な診療の合間に裁判にも対応している間に「うつ病」になって休職してしまった。


「惨憺たる状況で、一時は私も辞めようかと思ったくらいよ」彼女は言った。

 内科でも去年、俺の後輩医師が救急外来に来た五十歳女性の急性腹痛患者が帰宅後に死亡し裁判になっている。深夜に外来を訪れた患者に対して腹膜炎や虫垂炎を想定した検査を行い結果はすべて異常がなかったので痛み止めを処方して帰したが、翌朝その患者は亡くなった。調べてみると死因は驚いたことに子宮外妊娠による腹腔内大量出血だった。女を診たら妊娠と思えと研修医時代に習ったが、五十歳での妊娠は想像を超えた事態だったと思う。

 遺族の無念さはわかるが、何でも裁判になる今の状況には疑問を感じる。訴えられた後輩医師は、仕事の他に裁判を抱え疲れ果てて病院を去った。明日は我が身かもと思う。

「今は大丈夫なの?」

 俺は心配になって梅村に尋ねた。

「もう忙しい状況に慣れてきたみたいで体重なんかむしろ増えたくらいよ」

 二人で思わず笑いあった。梅村がいつものような綺麗な笑顔になったのでホッとした。改めて彼女の姿を見ると中肉中背の体型は昔とちっとも変わらないが、心なしかウエストが一回り大きくなったようだった。

「でもさ、この医療情勢では今の病院を辞めても何処でも厳しいよ」俺は実感を込めて言った。救急医療は不規則な生活を強いられ、その上に裁判や雑用も多くて何処でも厳しい。

「そうだよね」梅村はうなずいた。注文した前菜や鳥の刺身、焼き鳥などをつつきながら更に焼酎なども頼んで酒も進んだ。


「前に付き合っていた男がいたんだけどさ…、別れちゃった」少し酔いも手伝って彼女の口が滑らかになってきた。学生時代に噂のあった先輩のことかな?と俺は思いつつ、「どうして?」と訊いた。

「彼は格好良くて話も楽しくて好きだったんだけど、何年かするうちに何か合わない気がして…」

「どう合わないの?」

「何て言うか… 志が低い男と言うか…。その上にその人がこともあろうに私の親友を好きになっちゃって…」彼女は少し言葉を詰まらせて、一口焼酎を飲んだ。

「ショックだった。おまけに別れてからも、その二人は近くにいたので見たくなくても見えてしまって」と言うとまた焼酎をあおった。

「それは辛いね。何年前の出来事?」俺は訊いた。

「もう五年も前。…それから三十歳になる手前で結婚に焦っていた頃にもう一人、付き合いかけた男はできたけど、ちょっと遊び人風の男でね、他にも女がいそうな気がしたから自分のほうから離れちゃった」

「他に女がいるって確かなの?」

「いえ、女の勘。でもそういう事って何となくわかるよ」女の勘か…。俺は後藤の顔を思い出した。

「もう遊びだけで付き合える年齢でもないしね。それと傷つくのが怖くなったのかなぁ?」梅村はふと遠くを見るように言った。二人の間に沈黙の時間が流れた。


 店員を呼んで焼酎からウーロンハイに切り替えて、俺は自分なりの意見を少し考えて整理してから口を開いた。

「親友に彼氏を盗られたのがショックだったんだろうね。それがトラウマになって恋愛に積極的になれないのかも知れない」

「なるほど…。あれ? 斉藤君は心療内科医だったっけ?」梅村が微笑んだ。

「違うけど、ある作家が書いたエッセイを思い出したよ。仕事で受けたストレスは仕事で成功するしか解決できない。気晴らしのつもりのゴルフでも、そこで受けたストレスはゴルフでしか癒せない。その理論で言えば、男で受けたストレスは男でしか癒せない。逆に言えば君のそのトラウマは新たな男女交際が解決する」

「フフ、なるほど。そうかも知れない」

「過去は過去として前を向いて前進していれば、いつかきっといい事があるさ。仕事でも何でも同じだと思う」と俺は言った。

「…斉藤君は今までどんな恋愛をしてきたの?」梅村もウーロンハイを頼んでから俺に向き直って訊いた。

「俺って、医者になって三年目から二年間、場末にある港病院に行かされた」

「過酷な病院で働いたんだね。斉藤君は昔から頼まれると嫌と言えない性格だから…」

「ハハ。そこで同僚だった五歳年下の看護婦と付き合ったんだ」

「ふーん、ありがちな話ね」

「その女が清楚な外見とは異なりなかなか凄い奴だった。一年付き合って、彼女が自分の他に二人も彼氏を作っていた事がわかっちゃった。最後は現場に踏み込んで修羅場だった。悲惨なまでにボロボロになったよ」

「…」

「誰だって自分が傷つくのは嫌だ。その時は二度と女性と付き合いたくないと思ったけど、人と人との交わりは元来楽しいものだし自分を高めることにもなる。これは何も男女関係に限った事ではない。だって人間は太古の昔から集団生活してきた生物だからね。大学に帰って来てからは、殻に閉じこもるより前に進もうと思うようになった」

「そうだね。…でも時に前向きに生きる事に疲れてしまう事があるのよ」梅村の表情が曇って意味深なため息をついた。

「前向きに頑張る事は悪い事ではないけれど、時には肩の力を抜いて少し視点を変えてみるのも良いかもしれないね」俺と付き合わないか?と言いたかったが声には出さなかった。

「…それって私を遠回しに口説いてる?」梅村が俺の心を見透かすように少し笑った。

「ハハ、まあそんなところだ」俺も笑って彼女の言い分を認めた。

 

 すっかり話し込むうちに閉店時間になってしまい店を出ることにした。外に出ると雨が降っていた。もう少し梅村と飲みたい気分だったが、彼女は俺を寄せ付けない雰囲気で「帰ろうよ」と通りでタクシーを拾った。

「斉藤君の携帯の番号とメルアドを教えてもらっていい?」タクシーに乗り込んだら梅村が俺に言った。

「ああ、もちろん。いつでも連絡して」

「ありがとう。またいろいろ話したいわ…」そう言うと彼女の表情が急に陰った。俺は気になったが、タクシーが森林公園近くにある彼女の自宅に着いたので、それ以上は話せなかった。梅村家はモデルハウスのようなモダンな家で、その中に近藤准教授親子も同居している。彼女は車を降りると俺に手を振ってからすぐに門の中に姿を消した。後ろ髪を引かれるような気分のまま、俺は運転手に自分のアパートへ向かうよう告げた。


 アパートの部屋に帰ったら早速、梅村からメールが着た。

「今日はありがとう。久しぶりに楽しい時間を過ごせて幸せでした。いろいろ話してくれて、また聞いてくれて本当にありがとう。また誘ってね。おやすみなさい」

 メールを見て、俺は幸せな気分だった。梅村と話せた事が楽しかったし、また会いたいと思った。でも同時に彼女が見せた暗い陰が気になった。

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