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一.

「うちの近藤准教授と眼科の梅村智恵先生って怪しくないですか?」

 黒っぽい丸首のシャツを着た後藤舞が、少し鼻をふくらませて俺に言った。

 俺の名は斉藤進、三十二歳になって母校である私立中央医科歯科大学の血液内科学講師に昇任したばかりだ。居酒屋で俺の前に座っている後藤舞は今春、臨床研修医を終了して血液内科学教室に入局してきた三年目の女医だ。


 我が教室の主任教授は帝都大学から赴任した土井幸三という日本でも有数の血液専門医で、その下には帝都大学からついてきた高田直也と、我が校出身のホープ、近藤賢治の二人の准教授がいた。白血病などの疾患を扱う血液内科は重症患者が多く、また骨髄移植など緊急性も高い仕事をする。昨今は緊急を要する仕事が多いキツイ部署には若い入局希望者が少ない。


 教室には俺の二年先輩の宮崎講師、そして二年後輩の鈴木助教と、目の前で喋っている後藤医師が全医師で、四十人あまりの入院患者やその百倍はいる外来患者に比べるとどう考えても少ない陣容だった。高度先進医療が必要な重症患者を受け持ちつつ、医学生や研修医、看護師の教育に新薬や新しい治療法の研究と開発、そして学会でも活動する使命を果たすべく毎日遅くまで仕事に奔走する毎日を送っていた。


 この夜も病棟で十時過ぎまで目が離せない重症急性白血病の子供を後藤と二人で診ていて、遅い夕食を近くの居酒屋で摂っていた。二人とも別に居酒屋に来たかったわけではなく、時刻が遅かったので居酒屋かファミリーレストランしか開いていなかっただけだ。


「近藤先生の奥さんが二年前に胃がんで亡くなったのは知っているよな?」

 近藤准教授と梅村医師の仲を怪しんでいる後藤に向かって俺は落ち着いて言った。彼女は明るい性格で頭の回転も速い女性だが、時々思い込みで突っ走る傾向もあった。

「はい。梅村先生は近藤先生の奥様の妹。そして、斉藤先生の大学の同級生だということも知っています」その梅村智恵と俺が学生時代の病院実習が同じグループで親しかったことまでは知らないようだな、と俺は思った。親しいと言っても色白で端正な女性である梅村とは気のおけない仲間としての付き合いに止まり、俺の彼女に対する片思いは実らず残念ながら男女の仲はなかった。


「よく知っているなぁ…」俺が溜め息まじりに言うと、

「そんな暇があったら、もっと勉強しろとおっしゃりたいのでしょうね」と間髪を入れず言った後藤は、呼び出しがあるかも知れない携帯電話を気にしながらウーロン茶をチビリと飲んだ。

「そのとおりだ。…近藤先生には三歳の娘さんがいて、その子を梅村の実家の両親が面倒を見ているそうだ。梅村智恵もその家から病院に通っている。つまり近藤父娘は梅村家に住まわせてもらっている」

 俺は後藤に説明した。そう言いながら、俺にとって梅村と近藤先生との接近は気持ちのよい話ではなかった。だから俺はまだ梅村を好き、いや憧れているのだと、後藤に話しながらに自己分析した。

「知っています」後藤は大きな瞳をクルリと俺に向けて言った。

「だから近藤先生と梅村が親しくても別に不思議なことではない」俺は少し強がった。

「そうなのですが、この間、二人が病院の職員食堂でコソコソと内緒話をしているのを見たんです。その雰囲気が結構深刻っぽくて、只ならぬ妖気を発していました」

 後藤は確信に満ちた口調で俺に言い切ったので、俺は思わず吹き出してしまった。

「二人が男女の仲になっている、という意味か?」不服そうな顔をしている後藤に俺は、単刀直入に質問した。

「端的に言えばそうです」後藤は真顔でスパッと即答した。それから俺は一杯だけ頼んだ生ビールを一口飲んでから彼女に言った。

「何かこう… 証拠でもあるのか?」

「いえ、女の勘です」

 後藤は医者のくせに非論理的な答えを口にした。医学は理系に分類されるが、実際に人相手の仕事をしていると理論や科学を超越するような症例にはいくつもぶち当たる。人体には例外が付き物で、医学は一般の人々が考えるような厳密な確実性は意外に少ない。例えば同じインフルエンザ・ウイルスでも違う人が感染すれば違う症状を出し、またある薬剤が効く人もいれば効かない人がいるように百パーセント確実に診断や治療ができる厳密な理系科学ではない。


「女の勘か…」俺は宙を見た。そういう男女関係についての勘は、概して男より女の方が数十倍鋭い。一度に一人の男からの子供しか胎内に宿せない女体が、自分の家族を保全する本能から派生した才能なのかなと余計な学説が俺の頭に浮かんだ。

「そういう勘は斉藤先生には皆無ですよね」五歳年下の後藤が俺を横目で見て笑った。

「皆無…。ひどい言い方だな」

「だって先週結婚した研修医の小田君と看護師の石川さんの話を、先生は同じ職場で毎日のように顔を合わせていながら全く知らなかったでしょ」後藤がセミロングにした亜麻色の髪を揺らせてフフと笑った。

「…ああ」確かにそうだ。いきなり石川看護師から結婚披露宴の招待状を渡されて驚いている俺を、その場にいた看護師たちがあきれ顔で冷笑していた光景を思い出して俺は思わず頭をかいた。

「あの二人は秘かに交際しているつもりだったようですが、女の私たち全員がとっくに勘づいていました」やや肉感的な後藤は、得意げな顔をして目の前に残っていたおにぎりを平らげた。

「女の私たち全員って?」俺は初めて知る事実に唖然として訊き返した。

「私と血液内科病棟の看護師全員です」

「全員……。な、なぜ?」

「具体的にどこがどうと説明はできませんが、二人の様子を見れば一目瞭然です」

「一目瞭然なんだ…」俺は二の句が継げなかった。女の勘は実に恐ろしいと思った。


 二人で居酒屋を出ると後藤は、もう一度病棟に寄って白血病患者の様子を診てから帰ると俺に言った。「目下で未熟な者は他人の何倍も多く動け」と言う俺の教えを意外なほど素直に後藤は守っていた。

俺は「じゃあ頼む。何かあったらいつでも知らせて」と彼女に言うと、自分のアパートに帰ることにした。

 後藤と夜道で別れると、白い巨塔のような大学病院を遠くに眺めながら歩いた。ジメジメと湿気がまとわりつくような梅雨の暑さが地表に残っていた。明日は雨らしい。

 帰宅してシャワーを浴びながら、俺は梅村智恵の顔を思い浮かべた。郊外の眼科医院の次女に生まれた彼女は、色が白くてお洒落な女性だった。地元の有名私立女子大を卒業した三歳年上の姉がいて、その人が近藤准教授のお嫁さんになった。


 結婚式で見た梅村の姉さんは、丸顔の智恵よりも少し面長だが色白で端正な顔だちをしていた。結婚後はすぐに子宝に恵まれて幸せを絵に描いたような一家だと思っていたが、去年になって彼女は胃がんで急に亡くなった。腹痛で検査を受けて胃がんが見つかった時にはもう手遅れで、進行の早い癌によって三週間で息絶えてしまった。

 自分も仕事柄、病気で亡くなる患者さんを多く見送るが、死は誰にいつ襲ってくるかわからないとよく思う。『運命』という非科学的な言葉を日常的に実感しながら生活している。梅村の姉さんはそういう運命だったのかも知れない。次は自分かもしれない。

「別に近藤先生が先妻の妹と交際しても不思議はないじゃないか」

 浴室から二DKの寝室にたどり着くと、俺はそう独り言を言ってベッドに横になった。何となく寝苦しい夜だった。


 朝になって外来が始まる前に、昨晩から急性白血病で状態の悪化している五歳の家田健君の様子を病棟に見に行った。血球が極端に減った健君は、一般病室からナースセンターの脇にある個室に移されていた。病室の窓からはどんよりとした曇り空が広がって見えた。


「おはよう」病室の扉を開けると、白衣を着た後藤がすでに健君を診ていたので、俺はまた少し感心した。後藤は俺に気づくと振り向いて「おはようございます」と一礼した。

「どう?」俺は化学療法で髪の毛が抜けて丸坊主になった健君に微笑みかけた。貧血が進んで青白い顔をした健君は、力なく俺に微笑んだ。お世辞にも元気とは言えない彼の額に手を当ててみる。昨夜からの高熱はおさまったようで少しだけ安心した。後藤が俺にカルテを見せながら小声で経過を短く説明した。彼の状態は芳しくはなかった。


 今日の検査と抗生剤、そして念のため輸血の準備をするよう後藤に言い残した俺は、外来業務に行こうと部屋を出た。そこでバッタリ健君の母親に会った。

「あ、先生、おはようございます」

 短めの髪の母親のお腹は出ていて、すっかり妊婦になっていた。俺は手短に健君の深刻な病状を話すと、「ところで、お腹のお子さんは順調ですか」と話題を変え努めて明るく訊いた。

「はい、お陰様で」

「お大事になさって下さい」

「ありがとうございます」

 それから俺は病棟から外来にエレベーターで降りながら、健君の両親と話し合った八ヶ月前のあの初冬の日の事を思い出した。


 雪が降り出しそうだった寒いあの夜、病棟の面談室には俺と家田健君の両親がテーブルを挟んで座っていた。市内の病院からこの病院に運ばれてきた時の健君は完璧な急性白血病、つまりガン化した白血病細胞が無秩序に増殖して正常な血球を造り出せない状態で極度の貧血に感染症を併発した極めて重症の患者だった。

 教授は俺に、診断を確定したら直ちに化学療法を行うよう指示した。入院後一週間で数々の検査をして病態を確定してから、連日抗がん剤や輸血を一ヶ月以上にわたって繰り返した結果、健君の容態は持ち直してきた。このまま化学療法を粘り強く続けて白血病細胞を封じ込め、次に他人の骨髄を移植して正常の血液を造り出すようにしてやれれば病魔を克服できる可能性があった。

 だが、健君に移植する骨髄提供者が見つからなかった。少子化の著しい日本では提供者を見つける事が難しい現状がある。


「骨髄バンクにも我々親族にも、健に適合する骨髄がないなんて…、何とかならないですか」

 健君の父親が悩みぬいた表情で俺に詰め寄った。彼の横には母親も必死の目をして俺を見ていた。

「健のためなら自分の命を捧げてもいい。僕たちはそこまで思っているんです。なあ」

 俺と同年齢の父親が言うと、傍らの母親も大きくうなずいた。

「これは倫理的にどうかと思うので他言無用に願いたいのですが…、アメリカで行われ始めている方法をご紹介します」俺は少し迷ったが、家田夫妻の気迫に押されて口を開くと、彼らは身を乗り出した。

「移植にはHLAと呼ばれる白血球の型合わせが必要です。赤血球のABO式の血液型は四種類しかありませんが、HLA型は数万通りの組み合わせがあります。親子でもまれにしか一致せず、他人では数百から数万分の一の確率でしか一致しません。 HLA型が一致しなければ、他人の骨髄を移植しても拒絶反応を起こすだけで成功は得られないのです」俺の話を家田夫妻が固唾をのんで聞き入った。俺は言葉を続けた。

「ところが、HLA型は両親から半分ずつを遺伝的に受け継ぐため兄弟姉妹では四分の一の確率で一致します。端的に言えば、健君の兄弟が生まれれば骨髄移植のドナーになってもらえるかも知れません」

「…今から子供を作れば健を救えるかも知れないのですね。確率が四分の一でも挑戦したい」父親が宙を見て呻くように言った。隣の母親は考え込むようにうつむいた。


「通常の妊娠よりさらに成功率の高い方法は、不妊治療に用いられる体外受精の技術を使って受精卵を作り、その受精卵が細胞分裂しながら成長して八分割になった段階でHLAが適合した受精卵だけを選び出して母体に戻し出産する方法です」家田夫妻の必死の眼差しに逆らう事が出来ず、俺は話し続けた。

「骨髄提供者を獲得することを目的に、子供を半人工的に作る事が倫理的に正しいかどうかはわかりません。これはあくまでそういう可能性もあるという話です」俺は自分の持っている情報を残らず両親に提供して話を終えた。

 俺の話は余計な負担を健君の両親に与えたかもしれない。そしてこの方法で健君を救えたとしても、それが人として正しい事をしたのかどうかはわからない。だが、両親のあまりにも必死の表情に、つい自分の胸の奥にあった話を彼らにしてしまった。そしてこの話をした事は上司にも教授にも言わなかった。いや、言えなかった。


 その三ヵ月後のある日、健君の母親から「妊娠しました」とそっと俺に告白された。自然な生殖で妊娠したのか、あるいは人工授精で人為的に身ごもったのかを彼女は言わなかった。だが彼女の表情が晴れ晴れとして明るかったので、俺は心から「おめでとうございます」と言えた。

 あれから経った月日を数えると、あと三ヶ月ほどで健君の弟か妹が生まれてくる。仮にその赤ちゃんのHLA型が健君と適合したとしても、その子が一歳くらいにならなければ骨髄を提供できる体力が備わらないので、健君にはあと一年は頑張ってもらわないといけない。

 今のところ健君は数回にわたる化学療法で白血病は落ち着きつつある。現時点での骨髄移植まで持ち込める可能性は五分五分だ。でも何とか彼を救いたいと、俺は強く思っていた。俺の下で働いていた後藤は俺の思いを肌で感じ取ったのか、彼女もまた必死に治療をしてくれていた。

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