異世界三度笠無頼:短編連作『峠にて恩を返すⅢ:宇都宮の貸元』
――救いと別れ――
道沿いの百姓に頭を下げて糧をもらい、
空きっ腹を抱えながらも歩き続ける。
峠を越えて三日――
丈之助たちは、宇都宮の城下にたどり着いた。
肩の傷はまだ塞がらず、動くたびに血が滲む。
だが、姉弟の顔にはようやく人の色が戻っていた。
「ここが……宇都宮?」
「そうだ。人が多くて、風が乾いてる」
丈之助は街道脇の茶店でひと息つき、
遠くに見える木戸の向こうを見据えた。
目的の貸元は、町の北側に構える「辰巳屋」。
昔、丈之助が流浪の折、ここで一宿一飯の恩を受けた。
親分の三蔵とは、それきりの縁だが――
筋を通せば、話を聞いてくれるはずだ。
辰巳屋の門前で、丈之助は笠を外し、深く頭を下げた。
「お控えなすって。手前、下里村より来た丈之助と申します。
一宿一飯の恩を受けし折のご縁にて、お願いがあって参りました」
門番の若い者が丈之助の風体に目を丸くした。
しばらくして、奥から年配の声が返ってくる。
「……丈の字か。疾風の丈之助とは、懐かしい名を聞いた」
現れたのは、恰幅のよい男。
髪には白いものが混じり、しかし眼光は鋭い。
辰巳屋の親分・三蔵だった。
「旦那、無沙汰をお許しくだせぇ」
丈之助が頭を下げると、三蔵は手を振った。険しい顔立ちの中に温情厚い人柄がにじみ出ている。
「堅苦しい挨拶はいらねぇ。お前には助けられたからな。だが、その怪我はどうした」
さすが一家を背負う貫禄を持つ。丈之助の事情を察した。だが丈之助は言葉を選んだ。
「恩を返す道すがら、少々、面倒がありやして」
丈之助が事情を語ると、三蔵は静かに聞いていた。
そして、姉弟に目を向けた。
「親は亡くしたか」
姉弟は頷く。
「名は?」
「おきよと、彦太です」
「……そうか」
三蔵はしばらく黙り、やがてうなずいた。
「わしと女房には子がいねぇ。
この子ら、うちで預かろう。
生きる場所がねぇなら、ここを家にすりゃいい」
三蔵の女房のお稲が傍らに寄り添い姉弟を見つめていた。
姉弟は目を見開き、二人揃って頭を下げれば、丈之助も深く頭を下げる。
「筋を通してくださり、まことにありがとうござんす」
「筋なんざお互い様だ。
だが、丈の字……お前さんは、どこへ行く」
「風の向くまま、でさぁ」
「また骨を折るぞ」
「骨が折れりゃ、義理が通るってもんで」
三蔵が苦笑した。
「昔と変わらねぇな。まぁ、上がれ、一緒に飯でも食おう」
姉弟から無情の気配が消えたのを、丈之助は噛み締めていた。
その夜。
丈之助は、貸元の裏庭で傷を洗っていた。
月が雲間から覗き、井戸の水面が白く光る。
屋敷の奥から、姉弟の笑い声が聞こえた。
あどけない声。
丈之助は、少しだけ目を閉じた。
「これで恩は、ひとつ返せた」
呟きとともに、井戸の水をすくい、傷口にかける。
痛みが走る。
だが、その痛みが生きている証のように思えた。
夜明け。
屋敷の者たちがまだ寝静まる中、丈之助はそっと門を出た。
正式に軒先の仁義を切ったわけではない。迷惑がかかる前に姿を消す必要がある。
笠をかぶり、道中合羽の紐を結ぶ。
足もとには、朝露が光っている。
振り返ると、姉弟が門の陰から手を振っていた。
丈之助は、笠を軽く上げて会釈した。
「達者でな」
声に出さず、唇だけで伝える。
風が吹き、門の暖簾がふわりと揺れた。
思えば丈之助も、幼い頃に親をなくした。そして、人の情けでどうにか生きながらえた。
ある老人に聞かされたことが有る。
――恩は水のようなものだ、人の手から手へと、上から下へと、淀むことなく流れていく――
通りの先には、東へ続く街道。
商人の声、馬の蹄、朝の匂い。
丈之助は、その中を歩き出した。
空は薄曇り。
けれど雲の切れ間から、光が一筋差している。
丈之助の背に、その光が落ちた。
「――風の向くまま、道の果てまで」
笠の下で、誰に聞かせるでもなく呟く。
その声は、街のざわめきに溶けて消えた。
やがて、彼の姿も朝靄の向こうに消えていく。
恩を返した男の影は、再び誰の記憶にも残らぬ旅へと溶けていった。
――『峠の恩』了。
本作は『異世界三度笠無頼』の外伝短編連作に一つとして、
渡世人・丈之助が異界へ流れる前の足跡を描きます。
各話は独立してお読みいただけます。




