僕には“まだ”無理だけれど
多分、それは僕が前世で警官の誤射により命を落として、すぐの出来事だったと思う。
「ハァぁぁぁああああ~………………………」
何とも失礼なことに、僕の目の前でクソデカ溜め息を吐く半裸のお姉さん。
天女の羽衣のようなものを纏って佇んでいるし、神話の登場人物のコスプレか何かだろうか。
大事なところだけを隠すような、水着みたいな着物。胸元は少しはだけており、谷間が見えている。
エッチだね。でもその服装、防御力は皆無に等しいだろう。
ウェーブのかかった長い栗色の髪の一部が胸の方に流れているけれど、もしもの時はあの髪が乳首とかを隠すんだろうな。
それでも防御力は皆無だろう。乳首も多分守れない。
「ここはどこ?」
「物怖じしない、どころか……呑気な性格をしてるわね………」
「僕、何かおかしなこと言った?」
「大物になるわよアンタ」
「もう死んでるのに?」
「………」
僕の返しに、お姉さんは少しの間黙り込んでしまった。
呆れて物も言えないって反応。真正面からされるのは、何だかくすぐったいね。
「……はぁ。ま、いいわ」
気を取り直したように、お姉さんはかぶりを振った。
そして僕を真正面から見据える。
「ここは天界。あなたは、死んだわ」
そう、「衝撃の真実!」みたいな感じで言うけどさ。
「知ってるよ。それでどうにも変な景色なのか」
「………」
僕はぐるりと周囲を見回した。
頭上には抜けるような青空が広がり、眼下には地平の果てまで敷き詰められた綿のような雲。
どこに目を向けても太陽はおろか何ら光源は見えないのに、妙にすっきりと明るい景色。
作り物のようでいて、しかし違うと分かるのは不思議な感覚だ。
足の裏は雲を踏んでいるはずなんだけど、ちっとも感覚が無いしね。
飛行機の中から見るような景色を、僕の肌、いや五感で直接に感じているのに、ちっとも落下の恐怖などを覚えないどころか、若干の安らぎすら感じる始末だ。
頬を撫でる暖かい風は、エアコンから吐き出される温風でもなければ、冬の終わりを示す春風でもないし。
また、こうして周囲が視認できている以上は光の反射や屈折が存在する証拠に思えるけれど、目で見える光景以上のものが見えていて、しかしこの目には何も見えていない―――そんな矛盾した感覚を抱かせる、この景色。
僕が「ここにいる」という、ただそれだけのことで、物質界ではまず感じることのない“狂い”のようなものに、脳髄を静かに犯されながら傍観を強いられている気分になる。
この「どこでもない場所」にいる感覚は独特だ。形容しがたい、理性だとか本能で本質を捉えることすら難しい、そんな空間にいる。それだけは確信を持って言える。つまり、「自分がここにいる」という情報以上のものに関しては、今の僕は自分自身では得られないということだ。
やはり、これが夢でないなら、僕は彼女の言う通り「死んだ」のだろう。
まぁ、こうなる前のこともよく憶えているし、夢っていう線は考えにくいのもあるけれどね。
今僕がいるのは病院のベッドの上ではないわけで。
僕の脳が記憶している限り、この直前にあたる記憶は………男の死体の隣にいた僕に警官が発砲するシーン。
ああ、でも、明晰夢ってやつの場合なら少し厄介なのか―――
「夢じゃないわよ、現実よ。その『明晰夢』という結論を出すにも、まだ少し材料が足りないのではないかしら?」
「そうみたいだね」
「………」
ジトっとした目で見つめられても。
「それにしても不思議な人間よね。どうして心が読めるのかとか、ちょっとは不思議に思わない?」
「少なからず驚いてるよ。こんな場所が存在している以上、どちらかといえば僕は“地獄”とか、それに近しい場所に堕ちると思っていたから。目の前のあなたも、どうせただの人間とかじゃないんだろうな、とかね」
「………」
お姉さんはじっと僕を見て、小さく口を動かして言う。
「落ち着いているのね」
そうかもしれない。
普通なら、もっと慌てたり、取り乱したりする場面なのかもしれないけれど。
「ワタシが誰かということに対して疑問は抱いている。それは認めてくれるわよね?」
「そりゃあね」
そもそも、お姉さんは誰なんだろうとは思わないわけじゃないんだ。
ただ、それを尋ねてもいいのだろうか。でも、それを確認した場合、僕は自分自身の存在意義をかけて、とある行動に訴えなければならなくなる。
「それはまずいわ」
お姉さんは肩を竦めて、やれやれとため息を吐いた。
「今、それは非常に都合が悪いの」
「……」
好機かな。好機かもしれない―――そう、思いたくなるところだ。
ただ………もし彼女が僕のにらんでいる通りの存在なら、何をしたところで成功率は皆無に等しいだろう。
不都合と言いながらも余裕を崩さず、内心を隠そうともしない彼女の態度も気にかかる。
となると、僕がそうした行動に出た時に向こうに生じる不都合は何なのか。
つまり向こうにとって都合が悪いのは、僕との完全な対立、交渉の決裂のようだ。
それが僕の思い上がりでない証拠は今一つ足りないけれど、確かめてみる価値はあるだろう。
「悪知恵が働くのね」
「僕のほとんど唯一といっていい特技だからね」
言葉を選びながら、僕は刻一刻とさえ変わらない状況、脳が麻痺しそうになる感覚に必死に耐える。
今、何となくだけど、思考にモヤがかかっているような気がする。
これはものすごく覚えがあるぞ。
身に覚えがある、というのとは少し違う。
僕本人が暗示にかけられたことがあるというわけじゃないから。
ただ、僕は暗示にかけられた人間を、もうウンザリするくらい見て、接してきた。
これは―――このお姉さんの発する気配は。
支配する側に立ち続けた人間が持つ特有の雰囲気、つまり「カリスマ」のようなものだと思われた。
その気配、彼女の注意は、今は僕に向けられている。
まさか洗脳しようとしてる?
中々エグいことするよね、こういう輩はさ。
「………驚いたわね。ここまでシンキにあてられて平気な人類も稀だけれど」
「シンキ?」
「神の放つオーラ。思わず万人がひれ伏したくなる“神聖な”気、ということで“神気”よ。すごいでしょう?」
「ああ、そういう………」
神。
神、ね。
………僕はポケットを弄った。
「頼もしい凶器や武器は見つかったかしら?」
ポケットの中を探して徒労に終わった僕を見て、お姉さんは意地悪そうに口角を上げて笑みを浮かべた。
「裸で呼びつけていないだけ感謝してほしいのだけれど?」
「僕としては裸でも良かったよ」
本当に、ここでは何でも自由自在みたいな口ぶりだ。
事実、そうなのかもしれないけれど。
「裸で良いなんて、よく言うわね? それほどまでに自分のカラダに自信があるのかしら?」
「試してみる?」
「………」
スッ……と目を細めるお姉さん。
今までにない迫力を感じた。
少し怒らせたかもしれない。
「……類稀な思念。その常軌を逸した執念だからこそ、あえてここに召し上げたけれど………本当に見事なものね」
「そりゃどうも」
ただ、今の僕はナイフも拳銃も持っていないけれど、両手を使えばお姉さんのあの細い首くらいは、どうにでもできるだろう。
……と思っていた。
「………………………………」
今、僕は身体が動かせなくなっている。
先程まで身じろぎできていたし、余り気にしないようにしていたけれど、こちらがその気になった途端、身体がピクリとも動かなくなったのだ。
まるで―――そう、時を止められた、とでもいうかのように。
………それと、こんな”天界”だとかいう場所にいてなんだけど、先程まで僕は生前のように呼吸をしていたらしい。
そのためか、微動だにできなくなったことで、今、僕は息苦しさを感じ始めていた。
横隔膜の運動、肺の膨らみすら阻害されているようだ。
「かッ………………!」
息を吸おうとして失敗。
しばらく頑張ってみたけれど、何をしようと無駄だった。
時間が経てば経つほど、僕の肉体は足りない酸素を欲し続け、やがて追い詰められていく。
このムカつくほどに綺麗な景色、眩しい青空と雲海を映す視界が、チカチカと明滅し始めた。
「はぁ………………」
お姉さんの溜め息が聞こえてきた瞬間、僕の身体はようやく自由を取り戻す。
気付けば雲の大地の上に這いつくばっていた。
ようやく可能となった呼吸を再開し、咳き込みながら僕はお姉さんを見上げる。
「反抗的な目ね。自我を持たせたまま天界に、それもワタシの目の前に来させてあげたのに……そんなに特別扱いが気に入らないの? これはどういうことかしら……?」
「………」
呼吸を落ち着けながら、何とか姿勢を戻しつつ立ち上がる。
お姉さんは、人の心が読めるはずなのに、僕の心は分からないようだ。
まるで僕が人外か何かだとでも言われている気分。
失礼な話だね。
「事実でしょう? 少なくとも、今のあなたは人間という器に汚らわしい悪魔でも飼っているかのように醜悪よ」
「………」
誉め言葉だ。
神様と相容れない僕にとって、神様からそうした台詞を頂くこと自体が名誉以外の何ものでもない。
「………消してしまおうかしら」
「僕に何かしてほしいことがあるんじゃないの?」
別に、今の僕にはもう失うものは何もない。
生前はやるべきこと、およそ人生の目標というものを掲げ、それを果たして死んだのだ。
今さら死ぬこと、消えることが怖いはずがない。
「いっそ清々しいほどに邪悪ね、あなたは」
「照れるよ。そんなに褒めても、何もでないよ? それとも『ボロンッ』しようか。ボロンって。ソッチならいつでも出せるよ」
「………」
僕も下ネタが特別好きというわけじゃないけれど、お姉さんは下ネタが嫌いっぽい。収穫だね。
この路線で攻めるのはアリかもしれない。
「………不敬なところは心底気に入らないけれど―――」
ただ、お姉さんはここまでふざけ続けた僕に不快感を露わにしつつも、僕のことを何かに利用したいのは本当のようだ。
「―――だからこそ、素質は充分、ってことなのかしらね」
「………ん?」
何か、逆に気に入った部分があったことを示すように、お姉さんは不敵に笑った。
……あ、マズい。
僕の本能が警鐘を鳴らしていた。
僕と相容れないお姉さんだ、彼女が困れば困るほど、僕にとっては都合が良いということ。
逆に、お姉さんがそんな風に笑うってことは……僕にとって都合が悪いことが起きようとしているに決まっているのだ。
「あなたを適格と認めるわ」
「……は?」
お姉さんが言っていることが分からない。
ただ、猛烈に嫌な予感はしている。
お姉さんは不敵な笑みを浮かべたまま、ウェーブがかった長い栗色の髪を片手でふぁさっ…と翻し、僕の目を真っ直ぐに見て告げる。
「あなた、ちょっと異世界に行って来なさいよ」
「え」
「喜びなさい? 転生というやつよ。どうせ好きでしょう、そういうの」
「は―――」
は? 好きも嫌いもあるもんか。絶対ヤダよ、面倒事に巻き込まれるに決まってる。
………そんな風に反抗する前に、僕の足元に真っ暗な穴が開いて、僕の身体はそこに吸い込まれ始めた。
「善は急げよ。いってらっしゃいな」
「な―――」
何が起きたのか理解する間もなく、僕の意識と視界は、暗闇に閉ざされたのだった。