91 素質
「ということは、久我先生は有栖川先輩とやり直すわけですよね?」
円城寺君が喜々と声を弾ませた。
すると久我先生は手紙とアナベルをしっかりと握り、彼らを見まわした。
「お前たちには随分心配かけたな。すまなかった」
厳かに、深々と頭を下げられた久我先生。
けれど顔を戻された時には、決意を固められた眼差しがそこにはあった。
そして私にくるりと体ごと向けて、迷いなく告げたのだ。
「舞依さん、唯人はあなたをとても信じて頼りにしているようです。急な展開続きで、まだどこか夢のような気もしますが、とにかく俺は、今すぐにでも唯人の無事を自分自身で確かめたい。なので、さっきの今後のプランについてですが、また後で聞かせていただけますか?」
その申し出は、あまりにも当然すぎる願いだった。
意識不明だと思っていた大切な人が実はもう目覚めていたと知らされて、すぐに会いたい、それが無理ならせめて声が聞きたい、そう思わない恋人がいるだろうか?
私は心からの笑顔で「勿論です」と答えた。
「有栖川さんの携帯番号は変わっていないそうですから、すぐにでもお電話差し上げてください」
「ありがとうございます。お礼をしたくてもしきれないほどです」
「よろしいのですよ。コモ湖でご馳走になりましたジェラートのお礼です」
私が答えると、久我先生は一瞬何とも言えない顔をされた。
それは、あの夏の日に見た、どこか繊細な印象の少年の面差しを残しているようにも見えた。
だがすぐに、もう一度しっかりと私を見つめるその目は、もうあの頼りない男の子のものではなかった。
「本当にありがとう。―――お前達も、楠も、ありがとう」
久我先生は出会ってから一番と言っていいほどの明るい満開の表情でそう言うと、大事そうに手紙とアナベルを携えて、音楽室から駆け出したのだった。
自室に戻られるのか、それとも別の場所から有栖川さんへ電話をかけるのかはわからないが、あの夜以来はじめての、恋人の声が聞けるのだ。
彼らのこれからの時間に、私がどこまで関わっていけるのかは定かではないものの、叶うなら、可能な限り見届けたいという気持ちはあった。
けれど、私の抱える様々な事情がそれを許さない。
もともと私がここ吹月学院に編入した理由や目的は、既に達成されたと見ていいのだろうから。
少なくとも、あの時久我のおじさまが私に伝えられた依頼については、解決を迎えたはずだ。
ならばもう、ここに留まる理由はなくなったかに思えた。
勿論、有栖川さんとの交換留学という設定が崩れない範囲にではあるが、私はスイス行きを念頭に置いて振舞った方がいいのかもしれない。
だが、おぼろげにそんな事を考えていた私の正面で、今日は聞き役に徹していた楠先生が大きなため息を吐き出されたのだった。
「ああ、本当にホッとしたわ……。生徒達の前では普段通りの態度だったけど、裏では久我君も相当参ってたみたいだから。本当に昨日までは落ち着かない毎日だったのよ。京極君と栗栖君の動向も気がかりだったし、実のお父様なのに学院長に対しても疑心暗鬼が渦巻いてて、久我君が純粋に有栖川君の事を想えるのは、新月の夜にここで過ごしてる間だけだったそうよ」
誰に向けたものでもない発言だったが、私はそれで気になっていた事を思い出した。
「そういえば、久我先生は有栖川さんの事故があって以来、新月の夜はこの音楽室でピアノを弾いてらっしゃったのですよね?」
「ええ、そうよ」
「その時、なぜレクイエムを弾かれていたのか、楠先生はご存じではありませんか?私が確認できた曲はモーツァルトのレクイエム、サティのJe te veux、フォーレの夢のあとに、の3曲で、そのうち2曲については何となく選曲理由がわかるのですが、レクイエムだけは何故いつも弾かれていたのかが分からなくて」
いくら二人に協力していたからといって、果たしてその理由までを楠先生が把握していたのかは読めない。
だが音楽教師なのだから、何かしらのヒントは得られるように思えたのだ。
すると楠先生は、ああ…という感じに、容易くも正答をくださったのだった。
「モーツァルトのレクイエム、ラクリモーサは、有栖川君のお気に入りだったのよ。知ってるかしら?ラクリモーサはモーツァルトの絶筆で、ちょっとした曰く付きなの。そんなこともあって、ミステリーが大好きな有栖川君は興味をそそられたみたいね。それで、もともとピアノが弾けた久我君が、有栖川君を想って弾いていたんだと思うけど……実は、私は止めたのよ?だって夜中にピアノが聞こえるだけでも噂になるのに、その曲がレクイエムだなんて……ねえ?」
楠先生の苦笑に、思い当たるふしがあった私達もつられるばかりだった。
けれど、次のセリフを口にした楠先生は、それまでと纏う空気を変えられた。
「……だけど、いつか練習して弾いてやるって、有栖川君と約束してたんですって。だから、新月の約束の夜に、必ず弾いてたみたい……」
久我先生の傍にいたからこそひしひしと実感されていただろう楠先生の切なさが、私の胸にも突き刺さってくるようだった。
「そうですか……」
私の返事は、しんみりとした雰囲気をこの場に広げていくだけだった。
けれど、やはりと言うべきか、円城寺君がここでもまた、天真爛漫に言い放ったのだ。
「でもやっぱりマイマイはすごいね!ちょっとしか聞いてないピアノの曲目まで注意してたなんてさ。すごい洞察力!」
にこにこと、まるで自分の事のように自慢げに訴える円城寺君。
だが新月のピアノの曲について気付いたのは私だけではない。
そう説明しようとするも、それよりも先に楠先生に激しく同意されてしまったのだった。
「そうそう、私もそう思ってたのよ。実は久我君もそうだったみたい。昨夜あの後、すごく感心してたもの。とても15歳には思えないって。洞察力も凄いし、推理力も頭の回転も、それから、人の心を見抜くのにも長けてるって言ってたわ。さりげなく上手に導いていくところなんか、教師や心理カウンセラーの素質があるんじゃないかって話してたのよ?」
「そうですか?マイマイは館林家の跡取りなんだから、やっぱりビジネスで世界を飛び回るのが似合ってそうだけど。あ、でもきっとマイマイのことだから、教師とかカウンセラーになってもトップになりそうだけどね」
「相変わらず円城寺の館林贔屓は絶大だな。おっと…」
呆れ口調で腰に手を当てた栗栖君は、ヴヴヴヴ、という振動音に反応し、パンツのポケットからスマートフォンを取り出した。
どうやらメッセージを受信したようだ。
そしてちょうど同じタイミングで、楠先生のスマートフォンからも着信音が鳴った。
「あら、ごめんなさい。職員室に呼び出しだわ」
素早く画面を確認した楠先生は、名残惜しそうに「行かなくちゃ」と肩を竦めた。
「それじゃ館林さん、久我君に今後のプランを聞かせる時は、私にも一声かけてね。きっとよ?」
「はい。必ず」
私の了承に満足された様子で、楠先生は扉に歩き出す。
が、一度立ち止まり、「音楽棟の鍵は職員室に戻しておいてね」京極さんに教師らしく告げた。
「わかりました」
「お願いね」
じゃあね、と手を振って出て行かれた楠先生の背を見送って、それから京極さんは、ごく自然に、例えるならそういうシナリオでも書かれていたかのように迷いなく、栗栖君の前に移動し、尋ねたのだ。
「それでお前が今読んだメールには、いったい何が書かれていたんだ?」




