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90 記憶を塗り替えて






私から奪い取るようにして封を開き、手紙を広げた久我先生。

夕刻の光が色濃く差し込む音楽室では、しばしの沈黙が流れた。



やがて手紙を読み終えた久我先生は、それを握る指先に渾身の力を込めて、わなわなと小さく震わせて。

共に差し出されたアナベルも、私から受け取られた。


「辛抱強い愛情……」

「久我先生もご存じでいらしたのですね、アナベルの花言葉を」

「あいつとの思い出の花なので……」


有栖川さんとまったく同じ答えを口にする久我先生に、思わず頬がゆるまる。

彼らの心がとても強く結び合っているのだと、改めて見せつけられた思いがした。

この様子では、明確な返答を聞くまでもなく、有栖川さんの想いは受け入れられたと考えていいのだろうか。

けれど何も知らされないままただ待っていた京極さん達は、焦れる思いがあったようで。


「ミス・フルーガル、我々には説明をもらえないのかな?その手紙には何が書かれていたんだい?それに、その花は?」


丁寧な物言いなれど、はぐらかそうとしても無駄だと凄むような鋭さも健在だった。

私は久我先生に問いかける。


「彼らには知る権利があると思いますし、今後彼らの協力は不可欠ですので、ご説明してもよろしいですね?」


あくまでも確認という形を取ったが、ほぼ一方的な宣言でもあった。

だが当然、久我先生から返ってきたのは肯定を意味する頷きのみだった。

一応はそれを合図に、私は他の四名を広く見渡しながら話しはじめた。



「久我先生にお渡しした手紙とアナベルの花は、有栖川さんから久我先生に贈られたものです。手紙の仔細な内容については私は存じ上げておりません。ですが、おおよその事は理解しております。というのも、久我先生に手紙を書かれてはどうかと私が有栖川さんにご提案したからです」

「舞依さんが?……ああ、でもそれで納得しました。あの夜、一旦は別れを了承していたあいつがこんな手紙をよこすなんて、意外な気もしましたから」

「手紙には何て書かれていたの?」


久我先生に催促したのは楠先生だ。

だが若干言いにくそうに視線を彷徨わせた久我先生に代わり、私が答える。


「有栖川さんの正直なお気持ちと、これからの身の振り方について…だと思われます」

「じゃあ、有栖川先輩からのラブレターだったんだ?」


円城寺君が嬉しそうに手を叩いた。


「ラブレター……なんか円城寺が言うと軽く聞こえるなあ」

「なんだよ、いちいち深刻な感じにしなくたっていいじゃないか。栗栖はおかしなところを気にするよな」


いつもの調子を取り戻しつつある二人だったが、京極さんからは「君達はいいから黙っててくれないか」と窘められ、二人して口を噤む。


「ミス・フルーガル、もっと詳しく聞かせてほしい。アリス先輩の久我先生への気持ちが記されているとして、それはつまり、別れを撤回したいという事だろうか?それに、これからの身の振り方というのは、具体的にどういう内容なんだい?手紙は君が提案したと言ったが、それはどこまでを指しているんだ?」


京極さんは久我先生でなく、私に疑問の解消を求めた。

この件においては当事者の久我先生よりも私にイニシアチブがあると判断したのだろう。

私は期待に応えるべく、事情説明を再開したのだった。



「記憶喪失のフリでもおわかりの通り、有栖川さんが今も久我先生を想ってらっしゃるのは明らかでした。そして昨夜、ここで、久我先生も有栖川さんへの気持ちを変わらずに持っておられるとお聞きしましたので、私は、お二人が互いに想い合っているままで別々の道を進まれるのは勿体ない(・・・・)と思いました。ですから、有栖川さんに、もし、久我先生と共に生きる道を選ばれるのなら、協力は惜しまないと申し出ました。その際、誠に勝手ながら、京極さん、栗栖君、円城寺君、楠先生、そして久我学院長も同じ思いであろうと、そう伝えました。無断でお名前をお借りした事はお詫びいたします。ですがきっと、皆さんも異論はないかと思われますが?」

「当然だよ」

「乗り掛かった舟だしな」


即答した円城寺君と栗栖君に続き、楠先生も頷かれた。


「久我君と有栖川君が決めたなら、私は応援するわ」


そして最後に残った京極さんは、思慮深くも感じる間を数秒ほど越えて、フッと微笑んだ。


勿体ない(・・・・)とは、いかにもミス・フルーガルらしいね。でもそのおかげで、アリス先輩の心を動かせたわけだ。だったら勿論、俺も協力させてもらうよ。君のことだから、もう具体的な計画も立っているんだろう?」

「ええ、ある程度は」

「そう。だったら後は……久我先生の返事を聞くだけだね」


京極さんの最後の一言に、全員が久我先生に注目する。

久我先生はアナベルの花に意識を注いでいた。


「ねえ、マイマイ。あの花って…」


隣から円城寺君がこそっと訊いてくる。

今朝学院長にアナベルに関する話を聞いていた彼は、アナベルを前にして真っ先に浮かぶのは、あの夜、意識なく倒れている有栖川さんとその傍らの白い花の記憶のはずで。

私は円城寺君の中に残っているであろう傷に刺激を与えてしまったかと不安が掠めた。

けれど次に聞こえたのは、可愛らしい小動物のような同級生の弾んだ声だったのだ。


「やっぱり二人の思い出の花だったんだね!」


考えてみれば、それは実に彼らしい反応だった。

学院長室でアナベルと聞いた時は確かに強張っていたのに、今はもうその片鱗はどこにもない。

円城寺君のアナベルに関する記憶の上書きが完了したのだろう。

それについて私がホッとしていると、久我先生がふとこちらを向いた。



「舞依さん……、唯人からの手紙には、もし自分との恋を貫く覚悟が持てたのなら、あなたにこれからのプランを聞いてほしいと書かれてありました」

「そうですか。では、お覚悟はできたのでしょうか?」


だが久我先生は即答はなさらなかった。

しばしの躊躇が残花のごとく彼の心にしがみついているのかもしれない。


「……俺は唯人が好きです。ですが、あの夜、俺がもっと適切な対応をしていたら、唯人はあんな事にはならなかったんじゃないかと、その後悔は今も消えてはいません。唯人がなぜあんな風になったのか、舞依さんはご存じなのですよね?でしたらそれを教えていただけませんか?それを聞かないままでは、唯人の手は取れません。もしかしたら唯人がああなってしまったのは、俺の…」

「事故ですよ」


久我先生の言わんとする事も理解できたので、あえて最後までは聞かずに回答した。

タイミングの早さに一瞬呆けてしまわれた久我先生に、もう一度告げる。


「事故です。有栖川さんの転落は事故でした」

「事故……」


おおいに胸を撫で下ろす久我先生。

おそらく彼は、有栖川さんが自死未遂だった可能性を恐れていたのだろう。

だが今後有栖川さんからあの夜の出来事を細密に聞く機会があるかもしれない。

落ちても(・・・・)構わない(・・・・)と思ってしまった有栖川さんを知る日が来るのかもしれない。


「ですが久我先生?」


私はそっと呼びかけた。


「もし…、もし有栖川さんの転落が事故でなかったとしても、それが久我先生の言葉がきっかけになっていたのだとしても、それらは過去のことです。過去の事実は変えられません。けれど記憶は別です。記憶とは、とても柔軟で曖昧なものです。同じ事実を経験しても、その人その人で記憶は異なるのですから。過去の事実は変えられなくとも、記憶の上書きはできます。例えば冴えなかった記憶に鮮やかな色を付けたり、痛々しかった記憶の印象を柔らかく塗り替えたりもできるでしょう。記憶は、自分次第でどうとでも変われますから。ですから、あの夜の記憶は、どうぞお二人で共に塗り替えていってください」


私の言葉をまっすぐ真剣な面差しで聞いてくださった久我先生は、それをじっくりと心身に沁み込ませるように首肯したのち、はっきりと仰ったのだ。



「ありがとうございます。そうします」


それは、有栖川さんの想いが受け入れられたと確定できる瞬間だった。














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