9ロングケースクロック
パブリックスペースのリビングを後にした私達は、フラットAの玄関方面に歩いていた。
私達というのは、もちろん、私と栗栖君、円城寺君の三人だ。
「基本的に携帯の電波がつながらないってことは、たぶんもう聞いてるよな?まあ衛星電話って手段もあるけど、学校ではネットもつながるし、部屋に電話もあるから、あんまり使ってる生徒は見ないな。と言っても、そもそも学院内に携帯の持ち込みは禁止されてるから。ま、休みの日に学院外で使用する分には認められてるし、校舎内ならネットがつながるから隠れて持ち込んで電話してる奴らもいるから、抜け穴がないわけじゃない」
歩きながら、栗栖君はまるでマニュアルを音読しているかのような流暢さで私に寮生活について詳細をレクチャーしてくれていた。
そして円城寺君も、上機嫌という態度ではないにしても、ちゃんと私のエスコート役を引き受けてくれていたのだ。
彼は幼いようにも見えるが、真面目な性格なのだろうなと思った。
「で、ここからが管理棟。一番向こうにある玄関扉のすぐ脇が管理人室。管理人さんは葛城さんっていう男の人で、年齢不詳だけど、本人は俺達生徒のことを孫みたいなものだって言ってるから、まあそれくらいの歳だろうな。今は外出中のはずだから、管理人室は後回しにするか」
栗栖君は口を休ませることなく動かしながら、足はスッと止めた。
フラットAと管理棟は大きな扉越しに繋がっていたが、その扉は常時開いて壁際に固定されているようだった。
つまり、上階は壁で仕切られているが一階だけはフラットAと管理棟は一つになっている構造だ。
フラットAから管理棟に入ってすぐ左側には階段があり、私達はその前で立ち止まっていた。
廊下はフラットAと同じ色の絨毯で、まっすぐ行った先にはフラットAと同じような玄関扉があった。
その脇にはカウンター窓があり、おそらくそこが管理人室だろう。
「管理人室と廊下を挟んで隣りが来客との面会に使う応接室で、その隣りが娯楽室。テレビがあるけど、テレビを見たい奴は自室に持ち込んでることが多いからここでわざわざ見る奴は少ない」
私は栗栖君に促されるようにして階段に足をかけながら、送られてきた資料の中にあった管理棟の案内図を思い出していた。
三階建てで、確か管理人室の真上が視聴覚室だったはずだ。
「二階は向こうから視聴覚室とラウンジ。視聴覚室は管理人の葛城さんがカギを持ってて利用のたびに借りる必要があるけど、スクリーンやプロジェクターがあるから映画鑑賞会なんかをよくやってる。スポーツの代表戦がある時なんかは満員になって盛り上がってるよ。今は夏休みだから誰も使ってないけど。それでこっちがラウンジ。ここは基本は出入り自由」
栗栖君は趣のある木製扉を丁寧に開いた。
ギ…と軋む音がある。
「古いからここはきっちり閉まりにくいんだ。いつもちょっと開いた状態だけど気にしないでいいから」
苦笑混じりの説明と共に、古い館特有の匂いが鼻をくすぐってきた。懐かしさも感じさせる匂いだ。
中は伝統あるクラシックホテルのロビーのようにソファやテーブルが並んでおり、片隅にはアップライトのピアノも置かれている。
全体的に古典的、アンティークといった装いだが、その中でも私の目が惹き付けられてしまったのは、窓と窓の間に設置されているロングケースクロックだった。
見るからに年代物のようだ。けれどガラス扉越しの振り子は規則正しく行き来していて、現役なのだということもわかる。
「素敵な時計……」
思わず、そう呟いていた。
これまでにもロングケースクロック自体はたくさん目にしてきたし、その中には相当価値のあるものもあったけれど、私は、これほどに惹き付けられる存在と出会ったことはない。
とても細やかな装飾が施されていて、けれど厳かで、品のある佇まいだ。
「ああ、あれはかなりの代物らしいからな。なんでも一説によるとどこかの博物館に寄贈される寸前にうちの学院長が譲ってもらったらしい。……ま、本当かどうかは定かじゃないけど」
「でもあれ、すっごく繊細だから絶対に触っちゃダメなんだよ?音が鳴らなくなってるけど、あまりにも繊細過ぎて修理もできないんだってさ。壊れちゃったらいくらうちの生徒でも弁償しなきゃいけないし、どんなに裕福な実家も怯んじゃうほどの金額になるって噂だからね」
円城寺君は肩を竦ませて怖がるような仕草をした。
彼の身振り手振りは日本人にしてはオーバー気味に思えて、欧米暮らしが長い私は親近感も覚える。
「真偽はともかく、触らないにこしたことはないな。館林もくれぐれも気を付けろよ?ま、どうせここはあんまり人も寄り付かないし、館林も利用する機会もほとんどないと思うけど」
「人が寄り付かない?どうして?」
こんなに素敵な部屋なのに?
そんな思いを込めて尋ねた。
私だったら、このアンティーク的な雰囲気は落ち着くし、自室よりもずっと広いのでのんびりできるかもしれないのに。
そんな部屋を使わないだなんて、勿体ない。
すると円城寺君が私の質問に答えてくれたのだった。
「寛ぐためのリビングなら各それぞれのフラットにもあるわけだから、わざわざこの部屋に来る必要がないんだよね。置いてあるのも相当な美術品が多いし、万が一傷でもつけたら大事だもん。それに、今は変な噂も出回ってて…」
「円城寺!」
淀みなく説明してくれてた円城寺君を、栗栖君の鋭い一声が制した。
円城寺君の方も、あ…といった様子で口をつぐんでしまう。
だがすぐに、おそらく彼の得意としてるであろうちょっと拗ねた表情で、私に言ってきたのだ。
「でも、そんなことよりさぁ、僕、ちょっと言いたい事あるんだよね。男子校に女子一人で乗り込んで来るなら、男子のふりでもしてほしかったんだけど?そうしたら僕の方が絶対に可愛かったのにさ。本物の女の子が来ちゃったら勝ち目ないじゃん」
あまりにも明け透けなはぐらかしだ。
「お前はドラマの観すぎだろ。だいたい館林が男の格好しても、お前よりは人気になってたんじゃないか?」
「そ、そんなことないよ!絶対僕の方が可愛いに決まってる!」
男装、ドラマ云々、どこかで聞いたことがある会話に父を思い浮かべてしまうも、私は、はっきりと理解していた。
これは、彼ら両方ともに触れてほしくない話題だったのだと。
円城寺君が言いかけた ”変な噂” というのは、もちろんこのラウンジについてだろう。
その噂のせいで、ただでさえ生徒があまり利用しなかったこの部屋にさらに人が寄り付かなくなった、そういう事に違いない。
そしてその噂の内容は、私には聞かせたくないものだった……
今の感じからして、それは二人にとっての共有認識で。
私はその噂が気になりはしたが、ひとまずは様子をうかがうことにした。
噂の中身よりも、なぜ彼らが私に知らせたくなかったのか、そちらの方が重要な気がしたからだ。
だから今日のところは、彼らの思惑に従い、あえて尋ねる事は控えよう。
「そうね。円城寺君の言う通り、もし私が男装したとしても円城寺君の可憐な魅力にはかなわなかったと思うけれど」
ああだこうだと、男子高校生らしいテンポで言葉を投げ合ってる二人に向かい、私は本心でそう伝えた。
すると、円城寺君はパッと顔を向け
「ほら、館林本人も認めてるじゃないか!」
嬉しそうに栗栖君に訴えた。
だが栗栖君は呆れ顔だ。
「館林は大人の対応をしただけだろ。今日だってスカートじゃなくてパンツ姿で、ヒールも履いてないし、ちゃんとわきまえてる大人なんだよ。誰かさんと違ってな」
「なんだよ!僕がお子様だって言うわけ?それに、なんでパンツ履いてるのが大人なんだよ」
「それがわからないってとこが、お子ちゃまなんだよ。いいか?ここは全寮制男子校だ。まだ休み中とはいえ、中にいるのは男ばかり。そんなとこに入っていくのに、ひらひらしたスカートや、歩く度にカンカン音の鳴るハイヒールなんか履いてたら目立っちまうし、いかにも ”女” って感じがするだろ?館林はネイルも化粧もしてないし髪だってキッチリひとつに結んでる。吹月には髪型に関する校則がないにもかかわらずだ。外見だけ取れば京極先輩の方がよっぽど女っぽいと思わないか?」
「まあ、言われてみれば……」
円城寺君が私を眺めながら頷いた。
なんだか最後はちょっと引っ掛かりもするけど、京極さんが長めの髪をしとやかに揺らしていたのは事実なので、反論したりはしないけれど。
栗栖君は「な?」と小首を傾げつつ、私に矛先を向けた。
「違うか?館林」
まるでクイズの答え合わせを待つ子供のような目で、私をまっすぐ捉えてくる栗栖くん。
私はそんな彼を、人当たりは良いが油断ならない人物だと感じた。
こんな短い時間で、うっかり口を滑らせた円城寺君を窘め、わざとらしくはぐらかした円城寺君から会話のイニシアチブを奪取し、自然な展開で隠したい事柄から遠退けたのだから。
栗栖君に関しては例のリストには載ってなかったはずだが、私の中では要注意人物の筆頭になった。
けれどそれには悟られぬよう、私は穏やかさを意識して、栗栖君に返事したのだ。
「それは、意識しない方が珍しいでしょう?だって私は、いつもなら男子生徒しかいないはずの場所にお邪魔させてもらうのだから。そこは気を遣って当然だと思うけど?」
「ふうん。でもとにかく、僕がこの学院で一番可愛い男子だってことに変わりはないんだからね!」
わかった?!
円城寺君は両手を腰に当てて念を押してくる。
私は「もちろん」と、円城寺君と敵対する意思が皆無であることを示した。
「ほら円城寺、もう館林に絡むなって。じゃ、先に進もうか」
栗栖君はお兄さんみたいな調子で円城寺君に苦笑を投げてから、私を先に促すような自然な仕草で、ラウンジの扉を閉めた。
だがそのとき、私にしか聞こえないほどの囁きで、「髪型くらいは、自分の好きなようにしたらいいんじゃないか?」そう伝えてきたのだった。
私は、そのおおよそ高校生には見えないさりげない思いやりに、やはり彼は他の大勢の生徒達とは違っているのだと、強く濃く頭に染み込ませながら、素知らぬふりで彼の後に続いたのだった。
それから、案内は管理棟の三階に進んだ。
三階には図書室があり、栗栖くん曰く、ライブラリーは外国語の本しか並んでいなくて、校舎とは別棟にある図書館に収まりきらなかった書籍達の避難場所だという。それゆえ、図書館と差別化する意図でライブラリーと呼んでいるそうだ。
そしてラウンジと同様、こちらも生徒の利用頻度はさほど高くないということだった。
入口から窺っただけだったが、腰高の棚がいくつもあって、その端には新聞架が置かれていた。
全校生徒にタブレット配布、校舎内ではネットを使い放題、そんな環境でも新聞が用意されている事に、なんだかホッとしてしまった。
外国語というと私には馴染みあるものだが、残念ながら避難してきた彼らの多くはミステリーものらしいので、私の好みからは大きく逸れてしまいそうだ。
だが日本の学校にある外国語書籍ばかりのライブラリーに興味がないわけではない。また後日散策してみよう。
そんな気持ちが高まった。
一通りの説明を終えた栗栖君は夕食を一緒にと誘ってくれたのだが、私は先ほどの豪雨のように降り注いだ痛いくらいの視線を思い返し、今日はこれ以上彼らに刺激をぶつけない方が穏便に済みそうだと、今夜はもう休むことにした。
にわかに心配げな顔をした二人に、私は軽い時差ボケだと答えた。
100%の嘘でもなかったからだ。
「じゃあ、また明日な。ゆっくり休めよ」
「朝食は8時半までだからね!時差ボケで寝坊なんかしちゃだめだよ!」
私の新しいクラスメイト達は、各々の優しさを口にしながら、私を部屋まで送り届けてくれたのだった。
二人に礼を伝えて別れたあと、私は心地よい疲労感に襲われた。
まだ夕方だというのに、もうベッドに潜り込みたいほどだ。
だが汗をかいた肌や髪がそれを引き止める。
昨日までと汗の質まで変わってるようで、ここが日本なのだと改めて思い知った。
私は「んー…」と背伸びをし、窓の向こうでだいぶ時刻の色合いを変えた自然豊かな景色を見やった。
今日からはこの風景が日常となるのだと心に刻みながら、格子窓を押し開く。
日本ではこういったデザインの窓はあまり見かけないようにも感じるが、私には、実家のある街を思い出させた。
ここは、日本を感じながらも、同時に日本ではないような感覚もしてきて。
この学院全体が、そんな感じなのかもしれない。
日本の山の中にありながら、どこか異国の空気に包まれた、不思議な世界。
その世界の住人として、はたして私は受け入れてもらえるのだろうか?
外から流れ入ってくる風が、エアコンで冷えた部屋の空気と混ざり合って、私の髪を揺らす。
その心地よさを感じながら、なんとなく、私はデスクの上に置いた学院の冊子に目を通していった。
そしてふと、寮の紹介ページで指が止まる。
そこに載っていた写真と今日案内された寮に、少しの違和感を覚えたからだ。
だがそのとき、静かなノックが鳴った。
「館林さん?いらっしゃいますか?」
はじめて聞く男性の声だった。
誤字をお知らせいただき、ありがとうございました。