86 報告
やがて車が吹月学院の最寄り駅に到着し、彼とはそこで別れることにした。
彼からは、自分がここで降りるので私は学院まで乗っていったらどうかと言われたが、黒塗りのいかにもお抱え運転手という光景は生徒達には見られたくなかったのだ。
その点については彼も同意だったようで、深く促すことはなく、私がタクシーに乗り込むのを見届けてから彼を乗せた車も駅から立ち去った。
学院の正面ロータリーでタクシーを降りた私はフラットAには向かわず、そのまま学院長室を目指した。
おじさまにはタクシーの中から連絡しており、すぐにでも報告を受けたいとのことだった。
時刻は食堂棟で夕食が始まった頃だろうか。
校舎内は生徒の姿がないわけではなかったが、そこまでの喧騒はなかった。
有栖川さんのお母様は私にたくさんの感謝の言葉をくださり、その場で学院長であるおじさまにも電話をなさっていた。
そこで簡単な報告と、心配をかけた事、私を紹介した事に対しての礼が伝えられていた。
そんな知らせを受けていたおじさまは、一分一秒でも早く詳細を知りたかったのだろう、私が学院長室をノックし終わるよりも先に、学院長室の扉は開かれたのだった。
「やあ舞依ちゃん、ご苦労だったね。さあ、ゆっくり寛いで。飲み物は何がいいかな?」
開口一番にそう言って微笑まれたおじさま。
安堵感や期待感が高まって、それは上機嫌にも見えて。
けれど得た情報のうちどこまでをおじさまに報告すべきか、ここに来てもまだ迷い中だった私は、暢気にお茶をいただくつもりもなかった。
「いえ、どうぞお気遣いなくお願い申し上げます。私はこの後、すぐに予定がございますので」
おじさまに報告が済めば、次は昨夜の音楽棟会合のメンバーへの報告会が待っているのだから。
私の返事で察したおじさまは、「そうだね、彼らも心配していることだろう」と、ソファにゆっくりと腰を下ろされた。
私はおじさまの前に座り、足元にペーパーバッグを置いた。
それは何だい?という正面からの視線に気付いたものの、それには応じず、背筋を伸ばし、報告をはじめる。
「早速本題に入らせていただきます。有栖川さんのお母様からもありましたように、有栖川さんは記憶を取り戻されました。というよりも、もともと記憶は失くされていなかった、という言い方が正しいかと存じます」
おじさまはやっぱりそうだったか…といった風に表情を動かした。
「有栖川さんが仰るには、あの夜ライブラリーに散らばっていたはずの手紙の行方が分からず、手紙の筆跡で自分と久我先生との関係が知られてしまったのではと不安になられたそうです。もしもそうなら、自分が何も覚えていないと振舞う事で久我先生への追及をかわせるのではと考えられたそうです」
「そうか……」
特に驚いた様子もないおじさまに、私は、彼が言っていた通り、もしかしたらおじさまは既に色々とご存じなのかもしれないと思った。
それならば、私の報告は、その答え合わせ的な意味も含まれているのだろう。
しかしながら、この段階でも私はまだおじさまにどこまでをお知らせするのか思案を巡らせていた。
神村さんの事、あの夜の二人の会話、落ちても構わないと思ってしまわれた有栖川さん……それら細かな部分までをおじさまに報告する必要はないようにも感じていたからだ。
今後の展開によってはおじさまの助けも重要にはなってくるのだろうが、さりとて、すべてを詳らかにしたところで、おじさまの心配性に油を注ぐだけかもしれない。
そもそも私が最初に依頼されたのは、事件か事故の判断材料を得る事だったのだから、あれは事故だったと報告できればそれでいいようにも思えた。
結果、私は、5月2日の出来事は完全に事故だったと簡潔に説明した。
そして有栖川さんの記憶は失われておらず、だがそうと信じ切っておられたご両親の手前、記憶が戻ったという設定、フリをされる事になったと、大まかにまとめておじさまにお伝えしたのだ。
今後の事は、久我先生の出方を待ってから、彼らが必要と判断した際に彼らから直接おじさまに話すだろう。
勿論私が手伝う場合もあり得るが、少なくとも当事者の気持ちを無視して今私がしゃしゃり出るのも違っている。
おじさまは彼らに協力をくれると信じているが、久我先生のお父様であるという事も忘れてはならないのだ。
一方のおじさまは、おそらく私がすべてを明示していないと勘付いておられるのだろうが、あえて深くお尋ねにはならなかった。
あくまでもご自分は報告を受けるだけ、聞き役に徹するという姿勢でいらした。
だが、私が最後に今後の私の留学期間についてご質問した時だけは、しっかりと意見を述べられたのだ。
「私は、予定通り舞依ちゃんには学年末まで吹月にいてもらいたいと思っているよ。それに、まだ一週間にも満たない時間だが、舞依ちゃんには友人がたくさんできたようじゃないか。彼らもきっと、舞依ちゃんと高校生活を送りたいと願うんじゃないだろうか」
「ですが私は…」
「舞依ちゃんはもう立派な吹月の生徒なんだ。吹月にいる間は、舞依ちゃんはただの生徒なんだから」
柔らかく説得されて、私は、今この場でこれ以上の回答は控えることにした。
だがやはり、私の吹月学院での役目はもう終えているようにも感じてしまう。
私は自らの去就を決めかねながら、学院長室を失礼したのだった。




