83 落涙
彼らが抱えているのは、相手が同性だろうと異性だろうと結局のところは恋愛問題だ。
だから私は、人の恋路にしゃしゃり出ていくのはただのお節介だと思っていた。
今もそう思っている。
だが、彼らが互いに想い合っているにもかかわらず、周りとは違う恋愛だからという一点で別れを決めたのなら、それは本当に勿体ないことなのだ。
だって、そこまで想い合える相手に出会えるなんて、ほとんど奇跡に等しい確率だと思うから。
「勿体ない……」
私の言葉を繰り返した有栖川さんにも、思うふしはありそうだ。
「もしあなた方のどちらかが本心からの望みで別れを選んだのだとしたら、それは責められません。人の心は永遠ではありませんから。ですが、お互いに好きだという気持ちがあるのに、他の人とは違うというだけで諦めることを選ばれるのでしたら、せっかく巡り合えた運命の相手をみすみす手放す事になります。それは勿体ないと申し上げたのです」
「それは……僕もそう思うよ。もうあの人みたいに本気で好きになれる人と出会えるとは思えない。だけど、」
「誤解なきよう先に申し上げておきますが、私は何も、お二人の関係を公にして正々堂々と付き合うべきとは申しません。あなたがご両親について仰ったように、お二人の恋愛を受け入れるのが困難な方々もいらっしゃるのは事実ですから。ですが今は、その方達を責めるような事も申し上げません。人には人の想いや感じ方があります。人が人を愛すること、それがどのような形であっても世界中で受け入れられたら素晴らしいとは思いますが、それが急激に変化を求めるような、一方的なものであってもいけません。私はそう思っております。ですから、あなたがご両親に打ち明けたくないというのでしたら、それを尊重いたします。その上で、大切な方と一緒にいられるような策を共に練って参りたいと考えております。勿論協力は惜しみません。それは久我学院長や京極寮長、栗栖君や円城寺君、楠先生も同じ気持ちだと思います。あとは久我先生ご本人のお気持ちを確認するだけです」
有栖川さんは、それが一番難しそうだと言わんばかりに、渋い顔をされた。
無理はない。今の時点では、有栖川さんは久我先生に振られたことになっているのだから。
その憂いを少しでも解消して差し上げたいと、私はやや大げさに微笑みをこしらえた。
「ご心配なさらないでください。これについては、私に少々考えがございます。そして、こういう言い方をすると聞こえが悪いのかもしれませんが、実は私は人を欺くのが得意だと自負しております。そしてそれはここにいる秘書にも言えることで、きっと彼からもいい知恵が出てくるかと思います」
「彼がかい?でも………いや、そうだね。彼は、人を騙すのが上手そうだ。むしろそうでないと秘書なんて務められないのだろうけど」
彼を見やった有栖川さんに、私は安心してもらえるように鷹揚とした雰囲気を意識して告げた。
「あなたの味方や協力者は数多くおります。もしあなたが、世間には公にしないまま久我先生と共に人生を歩みたいと望まれるのなら、それに力を貸す人間がいるという事実を心に刻んでおいてください。それを踏まえて、先ほどの私のご質問にお答えいただけたらと思います。記憶が戻ったことになさるのか、忘れたままでいるのかを。私のご提案する策に、乗ってくださるのか否かを」
有栖川さんはすぐには答えなかった。
じっとアナベルのブーケを見つめたり、その花に触ってみたり。
その姿を目にすると、私は、もう有栖川さんの中では答えが出ているようにも感じていた。
決断を告げてしまった後、事態がどう変化していくのかが読めずに、それが躊躇を誘っているように思えた。
「……まだ迷いがあるようでしたら、すぐにお決めにならなくてよろしいですよ。数日後でも、数週間後でも、決心がついた時にご連絡頂ければ結構ですから。それまでは、今日ここでお話した内容は誰にも打ち明けずにいますので、ご安心ください。ああ、ですが、久我先生楠先生、京極さん栗栖君円城寺君には、あなたの意識が戻っている事くらいは報告するつもりでおりますので、ご了承いただけると有難いです」
そう言うと、有栖川さんはピクリと、アナベルを握る指先を動かした。
「……僕がずっと意識不明のままでいると、みんなはそう思って心配しているんだね」
彼の心には、親しかった人達に対する申し訳なさや後悔が溢れかえっているのだろう。
陥落は間もなく、そう直感した。
「ええ、そうです。ですから、もう有栖川さんの命に危険信号は灯っていないのだと教えて差し上げたいのです。それと………こちらを、お渡ししておきます」
私が差し出したのは、神村さんから預かっていた手紙である。
久我先生宛てと有栖川さん宛て、二通受け取っていたが、有栖川さんの様子を確かめた上で二人に渡すタイミングを考えようと思っていたので、久我先生にはまだ渡していない。
だが有栖川さんへは、今がそのタイミングかと思えたのだ。
「手紙?」
にわかに、期待を乗せて問われたが、私がすぐに「残念ながら久我先生からではありません」と付け加えると、それはそれで不思議そうだった。
「じゃあ、誰からの手紙なんだい?」
「神村 菖蒲さんをご存じではないでしょうか?吹月学院のある土地にお住まいの方で、近くの高校に通ってらっしゃるお嬢さんです」
「……いや、覚えがないな」
「お名前は知らなかったとしても、風車のある公園でよく犬を散歩されてる方、と言えばお心当たりはありませんか?」
するとこの説明には有栖川さんはピンと来たようだった。
「それなら、思い当たる女の子がいるよ。いつも柴犬の散歩をさせてた子だよね?何度か話したことがあるけど、その子が僕に手紙を書いてくれたのかい?」
「そうです。彼女は神村 菖蒲さんといって、彼女の行動の一つが、久我先生を刺激してしまったようです」
「え……」
「どうぞお読みください。私共の退席をお望みでしたらそういたしますが、神村さん本人から事情を聞かされている私には、そこに書かれている内容はおおよそ見当ついておりますが…」
私から奪うように手紙を手に取った有栖川さんは、私の申し出は耳にも入っていない様子で、急いで開封していく。
便箋二枚にびっしりと書かれているようだったが、有栖川さんはものすごい速度で顔ごと左右に小刻みに揺らして読み進めていった。
やがて、その動きは止まった。
「………そういうことだったんだ」
ぼそりと感想が漏れる。
「事実を知ったあなたが彼女にどういう感情を持たれても、それはあなたの自由です。ですが彼女は、あなたに知らせる義務はないにもかかわらず、こうして自分の悔いてる行いを打ち明けられた。それは、あなたと久我先生の仲に亀裂が入ったりはしていないか心配したからです。彼女の行いは決して品行方正というものではありませんが、私は、自らを省み、こうして手紙を私に託した神村さんを責め立てる事はできませんでした。今の彼女が望んでいるのは、あなたの幸せなのでしょうから」
「責めるなんて、僕にもできないよ……」
有栖川さんには責める権利がじゅうぶんあるのに、静かに首を横に振る。
彼女の行為は褒められるものではないが、有栖川さんと久我先生の関係に現実を見させたという点では、意義があったはずだ。
勿論それは、二人の関係が元に戻るという前提で言えることなのだが。
私は手紙とアナベルの両方を握り締めている有栖川さんに、もうひとつ差し出した。
「有栖川さん、こちらもお持ちいたしました。どうぞお受け取りください」
「何だい?」
まだ何かあるのかと、若干に身構えを硬くさせながら、彼はそれを受け取る。
破れた紙片を。
そして彼の手に完全に渡ってから数秒もしないうちに、彼は、アナベルも神村さんの手紙も手放し、その破れた紙を夢中で見入って、それから、片方の手で口元を覆い隠した。
「もう……、もう戻ってこないかと……」
涙声で訴える有栖川さんに、私は色を加えずに返した。
「それは、偶然、私が拾ったものです。もしあなたがお望みでしたら、他の手紙もあなたの元に戻るように学院長に掛け合いますが?」
けれど有栖川さんは、先ほどよりも強く強く首を振った。
「それには及ばないよ。必要なら、僕が直接学院長先生にお願いするから」
「そう仰るということは、もう決められたのですか?」
「ああ。………どんなに悩んだところで、結局はこんなに好きなんだから。孝則さんがくれた手紙に触れただけで、こんなに嬉しいんだから……」
有栖川さんは口を覆っていた手を離し、顔を上げて。
「――――いいよ、決めた。僕に君達の策を伝授してくれるかな?」
まっすぐ前だけを見据えたような眼差しからは、一筋の涙が落ちていった。




