82 一人ぼっちのアナベル
「私が学院長から依頼されたのは、5月2日に起こった事の真相究明と、あなたが本当に記憶を失くされているかどうかの確認でした。それ以上は特に指示を受けておりません。それは、今後の事は、あなたの実際の状況を踏まえた上で判断すべきというお考えがあったからだと思います。そして私は、あなたを守りたいと思ってらっしゃる学院長のことですから、こうしてあなたと直接面会している私に決定権を委ねてくださってるという認識でおります。ですから、有栖川さんには、これからどうなさりたいのかを伺いたいのです。このまま記憶喪失のフリを続けられるのですか?それとも、私との面会で記憶が戻ったという形を取り、今後の事を考えていくおつもりですか?」
あくまでも、それを決めるのは有栖川さん自身だ。
有栖川さんの希望が最も優先されるべきで、きっと久我のおじさまはその手助けを惜しまないだろう。
勿論事情を知る私と円城寺君もそのつもりではいる。
……ただ、私は、それだけで終わるのは勿体ないと思いはじめていた。
ちらりと見やったペーパーバッグの中には、仲間外れのアナベルが残されている。
「……僕はこのまま、ずっと吹月の事は思い出さないまま生きていこうと思っていたんだ。そうする事で、あの人に迷惑かけずに済むと思ったから。でも、僕が何も覚えてないせいであの人が容疑者扱いされてるなら、僕はあの時の事をいくらでも説明するよ」
強い意志を持った返答に、私はどこかで嬉しく感じた。
ただ、ちょっとした誤解を解消させないままでいるのはフェアではないので、私は先ほどの発言を訂正することにした。
「有栖川さん、そのご心配には及びません。先ほど私は、有栖川さんが黙ったままでいると久我先生はあなたを突き落とした容疑者にされてしまう…という主旨をお伝えしましたが、実は既にその嫌疑はほとんど晴れております。勿論、あなたの証言があれば完璧に消滅されますが、今の段階でも、久我先生が容疑者として警察に取り扱われる心配はないと言えます。それにライブラリーに散らばっていた手紙が今後人目に付く事はあり得ませんので、手紙の筆跡からお二人の関係が漏れる可能性もありません。それでもあなたは、記憶が戻ったという選択をなさいますか?」
私の話に注意深く耳を傾けていた有栖川さんは、少しの間黙ってしまう。
次に聞こえてくる返事がYesとNo、それぞれの場合を想定して、私はどちらでも会話の主導権を握るつもりでいた。
だが彼からの回答は、Maybe yes であり、 Maybe no でもあったのだ。
「どちらの方が、あの人にとってはいいんだろう……?」
躊躇いは、再び膝の上に戻したアナベルのブーケに降りかかっていった。
あくまでも大切な人、久我先生最優先な有栖川さんに、私は今が頃合いかと、ペーパーバッグの中から歪な形のアナベルを取り出した。
丁寧にラッピングされているそれは、とてもブーケ選抜に落とされた花には見えなかった。
「……有栖川さん、差し出がましいようですが、少し私に意見をさせていただけませんか?」
「え、勿論、聞かせてほしいけど……それは?」
有栖川さんが見つめるのは、私の手にある一本のアナベル。
「これは、そちらのブーケに混ぜてもらえなかった、少しだけ他と違って見えるアナベルです。花屋のスタッフが除外していたものを、譲っていただきました」
「そうなんだ……あんまり違いがないような気がするけど」
自分の持つアナベルと見比べる有栖川さんに、「私もそう思います」と同意を返す。
そして
「ところで、有栖川さんは、今もあの人のことをお好きですか?」
一応の確認でそう尋ねたのだった。
当然、有栖川さんからは即答しかない。
「勿論だよ。今だけじゃなく、この先もずっと、僕は……」
「でしたら、このまま関係を絶たれるのは、勿体ないとは思われませんか?」
有栖川さんはわずかに ”何勝手なことを言ってるんだ” という不快な目をされた。
けれどきっとお優しい性格であろう有栖川さんの眼差しは、鋭さを宿してもさほどの尖りではなかった。
「……館林さん、さっき説明しただろう?僕達の関係が人に知られてしまって、それであの人は僕に別れを切り出したんだよ。それなのにいくらまだ好きだからって、僕がどうこうしてもあの人に迷惑をかけるだけだよ」
「諦めてしまうのですか?」
「………仕方ないんだ。それがあの人の選択なんだから。そりゃ僕だってはじめは拒否したけど、あの人の事を考えれば考えるほど、それが一番いいのかもしれないって……」
「それは久我先生も同じだったのでしょう。あなたの事を考えて、あなたを守る為に、あの時はああいう選択をされた。はっきりそう仰ってましたから」
「……そうかもしれないね。だから僕達は、離れた方がいいんだよ。お互いがお互いの事を想った結果、別れしか選べなかったんだから。僕達みたいな恋愛は、綺麗事だけでは終われないんだ。相手にも負担をかける事になるんだから……」
悟ったように嘆く有栖川さんに向かって、私はあくまでも平坦な温度で告げる。
「この世にある恋愛なんて、ほとんどが綺麗事では済ませられませんよ」
「……え?」
「人が人を好きになる、ただそれだけなのに、そこに絡んでくるものは色々と複雑でややこしくて厄介で、時には善人を悪人にも変えます。でもそれが恋愛なのではありませんか?」
有栖川さんは何かを言いかけて、だが唇を結ばれた。
「それに、一緒に恋愛をしていくなら、相手に負担をかけるのも相手から負担をかけられるのも、それもまた恋愛の醍醐味なのではありませんか?自分以外の他人と共に過ごすのですから、何らかの負荷がかかって当たり前なのです。勿論それが我慢ならない人もいるでしょう。けれどその負荷や負担が苦に感じない相手と出会えたなら、それが運命の人なのではありませんか?異性だろうと同性だろうと、そういう相手に巡り合えた方が、私には羨ましく思えます。あなたはいかがですか?有栖川さん」
「え……?」
「久我先生と一緒にいる為に強いられる負担は、あなたにとって苦なのですか?」
「まさか!一緒にいられるなら僕は何だってするよ。何も苦じゃない。そもそも負担になんか思わないよ。だけど……」
「久我先生にその負担を強いるのは嫌だ、と?」
私を見つめ、二度ほど有栖川さんは頷く。
まるで一度目は私に、二度目は自分に言い聞かせるように。
私はやれやれ…と息をついた。
「私は久我先生のお気持ちを代弁できませんが、もし、久我先生も今のあなたと同じ想いだったとしたら、それは勿体ない事だとは思いませんか?お互いにお互いが大切過ぎて、その結果一緒にいられないなんて」
「でも……、僕達は普通の恋愛じゃないんだ……」
「もしそれが同性同士という点を述べてらっしゃるのでしたら、それは最初からわかっていた事ではないのですか?」
「――――っ」
「それでも、あなた方は惹かれ合って、恋愛をされた。そうでしょう?……本来なら、私はお二人の出される決断がどうであろうと、それに異を唱えるつもりはありませんでした。ですが、偶然にもこの一人ぼっちのアナベルを見かけて、他と違っているからというだけで諦めてしまうのは、勿体ないと思ったのです」




