80 彼の真相
有栖川さんの話を黙って聞いていた彼も、にわかに呼吸が変わったように感じた。
私達は、あの夜の真相について、事故以外の可能性を考えていなかったのだから。
事件、事故、自死未遂、そのうち自死未遂だけはあり得ないと、彼を知る人物が確かな自信を持って証言していたのだ。
だが有栖川さん本人からの不穏な発言は、その可能性を否定しなかった。
まさか……、そんな思いで、私と彼は有栖川さんの次の言葉を待った。
「………すべてがどうでもよくなった僕は、こんな事なら、もう、いなくなってしまいたいとさえ思ったんだ」
そう告げた有栖川さん自身も、どこかおどおどしているような口ぶりに聞こえた。
「だって僕が一生懸命受験勉強してたのは、あの人と一緒の仕事につく為、教師になる為だったんだ。僕は、あの人を本気で好きだった。勿論今でもそれは変わってないよ。男とか女とか関係なく、あの人だから好きになったんだ。だから僕は僕なりに、僕の人生をあの人と共にいられるように考えていた。いくら跡取りでないとしても、きっと両親は息子の僕に同性のパートナーなんて許すはずないし、だったら、ずっと一緒にいても自然な、親にも心配かけたりしない、周りにも変に勘繰られないような関係を構築しようと、必死だった。あの人だって最初は一緒に考えてくれてたのに……なのにあんな事言われて……だから僕は……」
「もう、いなくなってしまいたいと思った?」
有栖川さんの言葉を映し返すように言うと、彼は「………馬鹿だよね」聞き取れるかどうかの囁きを吐き出した。
「あの人があんな事言ったのは、僕の為なんだってわかってたのに。あの時の僕は、生きていく意味を取り上げられたような気持になったんだ。……館林さんは、本気で人を好きになった経験あるかい?それまでの自分をすっかり変えてしまうような恋愛、した事ある?」
唐突に顔を上げた有栖川さんに尋ねられたが、その眼差しは真剣そのもので、だから私も正直に答えるだけだった。
「いいえ。残念ながら、まだそのような経験はありません」
「そう……。なら、僕の感情は大げさに聞こえるかもしれないね。でも、僕はそんな恋愛に出会ってしまったんだ。将来的には父の会社の関連先で要職に就くはずだった人生を大きく変えて、大学卒業後は見合いをする予定だったのにそれも断るつもりで、僕はあの人がいたから、自分の生き方を自分で選んでいくつもりだった。なのにそうさせた張本人のあの人が、僕から離れてしまった……。それがまるで僕が努力して積み重ねてきたものがすべてボロボロになった気がして、目の前が真っ暗になった。ショックとか悲しいって気持ちよりもどうしようもなく無気力になって、そうしたらその時、すごく強い風が吹いてきて、僕の持ってた手紙の束を部屋中に飛ばしたんだ。……それを見たら、なんだか、もう何もかもがどうでもよくなった。僕は……吸い寄せられるように窓に歩いて行ったんだ」
有栖川さんは再び真下のアナベルに視線を落とす。
「……ここから落ちても構わない……そんな考えが頭に浮かんでしまった。そうしたかったわけじゃない。でも、そうなっても構わないと思ってしまったんだ。どうかしてたんだと思う。あの人に振られて自暴自棄になってただけで、本気で飛び降りようなんて思ってない。でも、心がボロボロになってて、正常な判断ができなくなってたんだと思う。窓に近寄って、窓枠に手をかけて、……身を、乗り出した」
ああ、まさか……そんな不安と、有栖川さんを思いやる彼らを信じている私が、せめぎ合っていた。
ただ言える事は、どちらにしても、有栖川さんは今ここにいるという事実だけだ。
私は心をしっかりと、有栖川さんの告白と向き合った。
「新月の翌日だけあって、外は暗くて、遠くにある外灯だけじゃとても周りは見えなかった。でも身を乗り出した僕は、見つけてしまったんだ」
いざ真実のお披露目に緊張感を張り巡らせていた私は、そうではなさそうな展開に、まるで急ブレーキで引き戻された反動のように問いかけていた。
「何を、でしょうか?」
有栖川さんは手にあるアナベルを、くるくると回して。
「アナベルだよ。ちょっとだけせっかちな気の早い白い花が、闇の中にぼんやり浮かんでいたんだ」
アナベル……
あまりにピンと気を張っていたからか、その言葉に瞬時には反応できなかった。
けれどそれが目の前の花の名前だと認識したとたん、心の底からのため息が流れ出ていたのだった。
隣で成り行きを見守っていた彼も纏う空気がかすかにゆるんだように感じたので、考える事は同じだったのだろう。
つまり、有栖川さんは自暴自棄に陥り発作的に窓に近寄ったものの、闇夜に浮かぶ白いアナベルが目に留まり、それが突発的な行動のストッパーになってくれたのではないだろうか。
その推察は私達の希望的観測ではなく、有栖川さんの今のアナベルを見つめる面差しが物語っていた。
「ライブラリーの下に植わってるアナベルは、僕とあの人の、大切な思い出なんだ。例年なら5月はまだ白い花は見られないはずなのに、一部だけ白く咲いてるのを見て、僕にはそれが、何か訴えかけているように感じたんだ」
有栖川さんは何とも言えない表情でアナベルをそっと撫でた。
「では、あなたは、そのアナベルのおかげで気持ちを落ち着けられた……という事でしょうか?」
「その通りだよ。だけどその時、下の階の窓枠に手紙が落ちているのに気付いたんだ。直前までもうどうでもいいとか思ってたくせに、アナベルのおかげで少しは冷静が戻ってきた僕は、その手紙を誰かに読まれでもしたら大変だと焦りだした。だって筆跡であの人だとばれるかもしれないから。僕は大急ぎで落ちてる手紙を拾おうとした。思いきり右腕を伸ばしたら、あともう少しで届きそうで、左手で窓枠をしっかり掴んで、さらに右手を伸ばした。でも、いくらしっかり掴んでいても、左手だけでは体を支えきれなくなって、気が付いた時には―――――視界いっぱいの、白いアナベルだった。それが、僕が吹月学院で最後に見た景色だよ」




