77 安堵
有栖川さんの様子を見て、もう一押しだと直感した。
「あなたは、もしかしたら、そうやって黙っておられる事で大切な方を守りたかったのかもしれませんが、その行為が却って大切な方を窮地に追いやってしまう事もあるのですよ?」
それを聞いた有栖川さんは、さすがに絶句を解いて身を乗り出してくる。
「窮地って…、何かあったのかい?」
「ええ。実はあの夜、あなたがライブラリーから転落された時、ライブラリーの真下のラウンジには、京極さんがいらっしゃったそうです。そして、お二人の会話が耳に入ってしまったと…」
「ラウンジ……」
有栖川さんの状況把握は迅速なのだろう、2、3秒後には私に対し、それだけか?と目で訴えてくる。
確かに二人の会話を盗み聞きされた程度では、窮地とまでは言えまい。
秘密の恋人だった事はばれてしまったとしても、それはもう既に私も含めてその他の人間の知るところなのだから。
だから私は、たっぷり5秒ほどは間をとってから伝えて差し上げた。
「あなたが転落する直前まで一緒にいたのが久我先生だと知ってらっしゃる京極さんは、久我先生が、あなたを三階のライブラリーから突き落としたのだとご発言なさいました」
「――――は?」
「ですから、あなたの転落は事故ではなく、久我先生による殺人未遂事件だったのではと仰って…」
「それは違うっ!!絶対に全然違うっ!!そんな、そんな事あるわけないじゃないかっ!!」
ダンッと全力で立ち上がった有栖川さんはテーブルの角に派手に足をぶつけてしまい、その拍子にアナベルのブーケが揺さぶられて危うくテーブルから落ちてしまいそうになった。
「あらあら」
とぼけた調子で言いながら、私はテーブルの端でアンバランスな姿勢のアナベルを手に取ろうとした。
だがすんでのところでそれは有栖川さんに奪われてしまったのだ。
「……有栖川さん?」
首を傾けて見上げると、アナベルを手に仁王立ちして私を見下ろす有栖川さんと視線が絡まる。
その目は、葛藤に震えているようにも見えた。
「………違うんだよ」
ゆうに数十秒を超えてから、とうとう有栖川さんの心のアナベルが咲いた瞬間だった。
「違う…とは、いったいどういう意味なのでしょう?再度確認させていただきますが、有栖川さんは、あの夜の事、ひいては吹月学院で過ごされた時間を、覚えておいでですか?」
私の追及に、有栖川さんはアナベルを大事そうに両手で抱えて、また元の場所に腰を落とす。
「もし覚えてらっしゃるのなら、あなたがあの夜の事を話してくださらないと、久我先生が殺人未遂の容疑者にされてしまいます」
私が口にしたのは、完全なフェイクでもない。
事実、京極さんは久我先生を有栖川さんを突き落とした犯人だと思ってらっしゃったのだから。
「久我先生の無実を証明できるのは、有栖川さんしかいらっしゃらないのです。それとも、久我先生は、京極さんのお考えのように、本当にあなたをライブラリーの窓から突き落としたのですか?」
「そんな事あるわけないじゃないか!」
アナベルの花からバッと顔を上げた有栖川さん。
「そんな……、そんな事……」
「そう仰るのでしたら、あの夜に何があったのか、お話しいただけませんか?久我先生を守る為にも」
「僕は……」
掠れるような声を発した有栖川さんには、確かにまだ躊躇いが見え隠れしていた。
けれど、それは長くは続かなかった。
「………僕は、あの夜の事を………覚えてるよ。だから、だから久我先生は何も関係ないんだ。本当なんだ。まさか僕のせいで久我先生が疑われるなんてそんな事、考えもしてなかった………。館林さん、僕はあの夜の事全部話すよ。そうしたら、久我先生は容疑者になんかならないんだよね?」
「ええ、勿論です。私が今有栖川さんからお聞きして、間違いなく久我学院長や京極さんにお伝えいたします。私はその為に、皆さんの代表として、今日こうしてあなたを伺ったのですから」
私の即答に、有栖川さんはほんの少しは安心したように顔つきがゆるんだ。
だが、躊躇いに躊躇って、ようやく吐き出された真実は、私も、いや私の方こそ大いに安堵させてくれたのだった。
ああ、これで、事件という線が完全に消されたのだと、つまり ”全員容疑者” が崩れ去ったのだと、はっきりと胸を撫で下ろしていたのだから。




