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76 誘い水





「それは、僕が……、嘘を吐いてる、という事……?」

「そうです」

「僕がみんなを騙してる、そう言いたいのかい?」


有栖川さんは穏やかな物言いこそ維持されたが、その瞳はみるみるうちに狼狽一色になっていく。

意識が戻って以来、ご家族と医療関係者以外とはあまり面会されていないようだから、こんな風に無遠慮な問いかけをしてくる者はなかったのだろう。

記憶があろうとなかろうと、色々と神経衰弱している事は想像に難くないが、それに遠慮していられる場合ではない。

必要とあらば、私は非情でやや強引な手段も選択するつもりでいたのだから。



「もし騙していらっしゃらないのならば、はっきりとそう仰ればよろしいのです。ですがその場合は、私はこちらをお渡しするまでですが」


言いながらペーパーバッグを掲げると、有栖川さんはそれに釘付けになった。

中身がまったく思い当たらない、そんな声が聞こえてきそうだ。


だがやはり前年度の寮長はただの高校生ではなかった。

動揺を消滅させる事はできなかったが、するすると冷静を手繰り寄せていったのだ。


「……とりあえず、座って話しませんか?」


有栖川さんはご自分が座ってらしたパーソナルチェアの横にあるソファセットに私を促した。

おそらく、私の持ってる物が予測できずに、こちらの出方を窺うつもりなのだろう。

だがそれは、ゆっくり話したかった私には好都合でしかなかった。


「失礼いたします」


言われるまま二人掛けのソファに腰を下ろし、足元にペーパーバッグを置く。

有栖川さんはパーソナルチェアのオットマンに軽く腰掛けた。



「それで……館林さん?館林さんは、僕と最も親しかった女の子の一人だと聞いてるんだけど……、その館林さんが、僕の事を疑ってるの?それに、さっき『はじめまして』と言ったよね?あれはどういう…」

「そのままの意味です。私は今日、あなたにはじめてお会いしましたから」

「えっと……ごめん、僕の理解力が悪いのか、ちょっと君の言ってる事が……」


白を切るつもりなのか、それとも本当に混乱しているのか。

私はその真偽を明らかにする為にも、ペーパーバッグを開いた。


「では、こちらをどうぞ」


中から取り出したのはアナベルのブーケ。



「……この花は?」

「アナベルです。久我学院長のお話では、あなたが唯一反応を示された写真に写っていたとか。……ライブラリーで、夜中に一緒にご覧になってたそうですね?」

「…………え?」


有栖川さんの表情が、一瞬で変わった。


「それも覚えていらっしゃいませんか?久我先生ご本人から伺ったエピソードなのですが」


私はブーケをテーブルに乗せながら、有栖川さんの様子を窺う。


「久我、先生が……?」


その一言は、信じられないと言外に響かせているようだった。

そして痛そうに細めた目は、どこかショックを受けているかのようにも見えてしまった。

まるで、二人だけの大切な思い出が、二人だけのものでなくなってしまったことに傷付いてるように。

だから私は、一気に畳み掛ける事にした。



「有栖川さん、あなたが本当に吹月学院での事を覚えていらっしゃらないのでしたら、これから私がお話しする内容はどうぞお聞き流しください。私は、久我 孝則先生から大方の事情を伺っております。けれどその久我先生には、あなたが吹月学院での記憶を失われた事への配慮から、実際はこうして元気になさってるのにそうとは伝えられていないのです。今も意識不明のままだと思ってらっしゃる久我先生は、あなたの事をとても心配しておられます。久我先生だけでなく、楠先生、京極 瞬也さん、栗栖 敦啓さん、円城寺 譲さんも、皆さん一様に心配してらっしゃいます。そして今名前をあげた方々は、皆さん、お二人の事(・・・・・)を承知しておられます」

「――――っ」


有栖川さんは絶句したまま、彫刻のように固まってしまった。

だがそれは、もうほとんど記憶喪失が偽りであったと告白しているようにも感じられた。


「あの夜、自分が傍にいればあなたはあのような事になっていなかったのではと、久我先生は悔やんでおられました」



さあ、どう出てくるだろう?

私からの誘い水は、彼の心にあるアナベルを潤してくれるのだろうか。



その答えが出るまでに、さほど時間はかからなかった。


固まったまま、じっとテーブルの上のアナベルを見つめていた有栖川さんが、そっと目を伏せられたのだ。









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