75 はじめまして、恋人さん?
有栖川邸に着いた私達を、有栖川さんのお母様はとても喜んで歓迎してくださった。
事前に久我のおじさまが伝えてある私の設定は、あくまでも有栖川さんの恋人だったかもしれない留学生だ。
留学前の見学で来日した際知り合った有栖川さんと帰国後も連絡を取っていたが、5月頃から音信不通になったのを心配していた。
そして実際に吹月に編入してみると有栖川さんの姿がなく、学院長に直に尋ねた結果、お見舞いに伺う事に……というシナリオである。
有栖川さんの周囲で恋愛関係の話を聞かなかったので、もしかしたら私がその相手だったのかもしれない……と、後で実は違いましたと転がっても不審がられないストーリーは、どこにも不備はないように思えた。
「遠いところをよくおいでくださいました。唯人の母でございます。あいにく主人は仕事の都合がございまして留守にしております。申し訳ございません」
背筋のしゃんと通った、きっちりした性質が窺える女性だった。
言葉遣いが息子と同年代の来客に対するものにしては丁寧過ぎるように感じたが、そこに館林の名前の影響があるのかは不明だ。
有栖川邸はこのエリアではかなりの広い屋敷だと思うが、使用人は家政婦一人きりのようで、少し意外にも思う。
だがお会いしたお母様には非常にテキパキと仕事をこなしそうな印象も抱いたので、家族と過ごす分には人手も必要ないのかもしれない。
「いいえ、こちらこそ、突然の訪問になってしまいましたことをお詫び申し上げます。お父様のご不在も致し方ないことですので、どうぞお気になさらずに。改めまして、館林 舞依と申します。はじめてお目にかかります。彼は私の秘書をしております。私の傍に控えるのが仕事ですので、どうぞ同席をお許しください」
通された応接室で、私はソファに、彼は私の背後に立っていたが、「勿論どうぞ。あなたもお座りになって?」とお言葉をいただき、目で彼に合図した。
「では失礼いたします」
彼は私の近くのスツールに腰を落ち着けた。
その間にも家政婦の女性がお茶をセットしてくれる。
彼女の退室を待って、本日の面会がスタートした。
「吹月学院の久我学院長からお話があったかと存じますが、私は以前より唯人さんを存じ上げておりまして、数日前、吹月学院に留学して参りましたところ、唯人さんの事故をはじめてお聞きしたのです。お加減はいかがでしょうか?」
「ありがとうございます。唯人は体の方はもうすっかり……なんですが」
お母様が言いにくそうに淀ませたので、私は大丈夫ですよと伝えるつもりで微笑んでみせた。
「込み入った事情も学院長からは伺っておりますので、ご安心ください」
「ああ、そうでしたわね。久我理事長からはその旨もご連絡がありました。実は、唯人の記憶に刺激を与えられるような人をご紹介いただけないかと、私共の方からお願いした経緯がございまして……」
私のことを ”息子の恋人” と呼ばずに、”記憶に刺激を与えられそうな人” と言い換えたのは、私が本当に有栖川さんの恋人だったか確証がないせいだろう。
この話題になった途端、彼女のキリリとしっかりしていた面差しに頼りなさが侵食してきて、よほど切羽詰まっているのだろうかと同情が芽生える。
「そうでしたか。私などでお役に立てるのでしたら、喜んでお手伝いさせていただきます。ところで、今日私が伺う件は、唯人さんには何と?」
「久我理事長のご紹介で、唯人が吹月学院にいる間に最も親しかった女の子がお見舞いに来てくれるそうだと、ただそれだけを伝えましたが」
問題ありませんでしたか?
やや不安色に揺れたお母様のお返事を、私は更に笑みを深めて受け入れる。
「最もというのは、私自身では判断しかねますが、学院長がそう判断なさったのでしたら、そうなのかもしれませんね。それで、唯人さんの反応はいかがでしたか?」
どこまでも曖昧に。
それを肝に銘じながら、私は次の質問に移った。
「はじめは、戸惑った様子でした。ですがしばらくすると、それはどんな人だとしきりに訊いてきましたので、好感触のような気もしておりますの」
「私を覚えてはいなくとも、興味を持たれた…という事ですね?」
「ええ、そのようですわ」
有栖川さんが私の存在に興味を持った理由は、果たして何だろうか。
こればかりは本人に直接会って確かめるしかなさそうだ。
「ではもう一つ伺っても?」
「何でしょう?」
「唯人さんの記憶に変化がなかったとしても、このままずっとご自宅にいらっしゃるわけにもいかないと思われますが、お父様お母様は、今後唯人さんをどうされるおつもりなのでしょうか?現在吹月学院では、私と唯人さんの交換留学ということになっておりますが、もしや、実際に唯人さんを留学させるお考えがおありなのですか?」
本人の希望が最優先だとは思うが、記憶喪失という建前があるのならば、そこは保護者である親の考えが左右してくるはずだ。
有栖川さんのお母様は、たった今初対面を果たしたばかりの私にそこまでの事を問われるとは想像もしていなかったのか、驚きを隠さなかった。
「それは、まだ久我理事長にもご相談はしておりませんが……」
「可能性がないわけでもないと?」
「………ええ、そうですわね」
「ですが、近々にという事でもないのですね?久我学院長は何も仰ってませんでしたが」
「ええ、ええ、それは勿論です。久我理事長にはお世話になっておりますので、決まった時はご挨拶に伺うつもりでおりますから」
「そうですか。それを伺って安心いたしました。私が唯人さんとお会いする機会も、まだありそうですものね」
これは恋人役としてではなく、館林 舞依個人での感想だったが、有栖川さんのお母様から見れば、それは違った意味にも感じられたかもしれない。
温かみのある眼差しを向けられて、私はそろそろ頃合いと察した。
「それでは、唯人さんを伺っても?」
「勿論です。ご案内いたしますわ。そちらの荷物はお預かりいたしましょうか?」
彼が手にしている大きめのペーパーバッグの事を問われて、私は「ありがとうございます。ですが直接唯人さんにお渡ししたいと思っておりますので」と辞退した。
「まあ、そうですの?ではこちらで何かご用意する物はありませんのね?」
「はい。どうぞお気遣いなく」
おそらくお母様は、中が見えないペーパーバッグを、菓子折りの類だと思ったのだろう。
私が有栖川さんを見舞っている間に部屋に運んでくださるつもりだったのかもしれない。
けれど、これからはじまる私と有栖川さんの対面は、なるべくならお母様の参加は遠慮願いたい。
「…大変申し上げにくいのですが、私と唯人さんが話している間は、二人にしていただけますでしょうか?その方が、以前と似た状況を作り出せると思いますし、その方が記憶に刺激を与えられるかもしれません」
息子を心配している母親にこんなことを頼んだりして、嫌な顔をされるだろうかと思ったものの、彼女はすんなりと「それもそうですね。わかりました」とすぐに了承してくださった。
そうして、私は有栖川さんの待つ部屋へ移動する。
お母様がノックして扉を開き、彼には廊下で待機を指示し、部屋に入ったのは私一人きり。
パタン…
背後で扉が閉じると、部屋には私と有栖川さんの二人きりとなった。
彼は窓際にあるパーソナルチェアで寛いでいたが、スッと立ち上がるとこちらに歩いてくる。
壁越しの廊下では人の気配が遠くなっていって、母親が立ち去ったのが分かった。
有栖川さんは私の前に立ち止まると、柔らかく微笑んだ。
笑った時の目元が、お母様似だと思った。
「ええと、……館林 舞依さん、でしたよね?わざわざ来ていただいたのにすみません。僕は、あなたの事を…」
意図してか無意識か、先制で仕掛けてくる有栖川さんに、私もまず放り投げておくことにする。
「はじめまして、恋人さん?」
その挨拶に、有栖川さんの顔つきが凍る。
「はじめ、まして……?」
混乱しきりの彼に、私はもうひとつ投げ込んだ。
「ええ、そうです。私はあなたと今日はじめてお会いします。そんな初対面の人間がいきなりこういった込み入った事をお尋ねするのは失礼かとは存じますが、どうぞお答えください。有栖川 唯人さん、あなたは、記憶を失ったりなんかしておられませんよね?」




