70 アナベルの白い花
「有栖川さんは恋人の存在に反応を示された、ということですか?」
「私はそう感じた。だがご両親の前で彼の恋人の話題を広げるのは具合が悪い。だから適当な言い訳をつけて、彼と二人きりで話す機会を作った。その時に、何か思い出すきっかけになるかもしれないと持参していた吹月の校内や関係者の写った写真を見せたのだが……。そうしたら、意外なものに有栖川君が反応したんだよ」
「恋人の、久我先生の写真ですか?」
反射的にそう訊いたのは円城寺君だ。
だがおじさまはゆっくりと首を横に振った。
「いいや。私もそれを期待していたんだが、彼は孝則にはまったくと言っていいほど表情を変えなかった。孝則の写真だけじゃない、他の写真も、どれにも一切興味を持たずにページをめくるだけで、まるで無関心だったんだよ。だが一枚だけ、その写真のページを開いた瞬間、彼はびくりと体を震わせた」
「それは何が写っていたのですか?」
「アナベルだよ。管理棟とフラットAの窓際に植わっていた、彼が一命を取りとめるクッションにもなった、アナベルの白い花の写真だった」
アナベル―――
何かと縁のあるその花が、頭に浮かぶ。
あの夜、まだ季節ではなかったというのに気の早い花が白く咲いていたというから、もしかしたら転落した有栖川さんが最後に視界に入ったのが白いアナベルの花で、それが混乱している記憶を刺激させたのだろうか?
「アナベルって……」
隣の円城寺君が強張った呟きをこぼした。
その現場に散らばっていた白い花は、関係者の脳裏に相当に濃く焼き付けられたのだろう。
私は円城寺君の気配を気にしながらも、ふと、昨夜の久我先生の話を思い出していた。
――――夜中にこっそり部屋を抜け出してライブラリーで好きな本の話をしたり、下に咲いてる花を眺めて二人きりの花見をしたり――――
久我先生はそのような思い出話をしてくれたはずだ。
下に咲いてる花とは、アナベルのことではないだろうか?
そうだとしたら、有栖川さんはやはり恋人だった久我先生に関係する事だけはかすかに記憶に刻まれているのかもしれない。
だが、おじさまの話では、有栖川さんは久我先生の写真を見ても反応はなかった……
ということは、やはり、意識を失う直前に目に入ったのがアナベルで、だからその写真に反応した……?
―――いや、おじさまは、有栖川さんはどの写真を見せてもまるで無関心のようだったと説明された。
まるで無関心……
自分の抜け落ちた記憶の手がかりになるかもしれない写真を見て、まるで無関心でなんていられるだろうか?
例えその写真の人物や風景を覚えていなくても、それらについて尋ねたり、一枚一枚をじっくり眺めたりするものだと思うけれど……
そうはならなかったという事は、有栖川さんが失くした記憶を取り戻したがっていないようにも感じてしまう。
………記憶を、取り戻したくない………?
「アナベルの花が、有栖川君にとって何を意味するのかはわからない。だが、彼の態度には少々…」
「何か引っ掛かりを感じられたのですね?」
その展開を予測していたかのような私へ、おじさまは無言で頷かれた。
だって、よくよく考えてみると、あまりにもタイミングが良すぎるのだ。
事故で頭を強打し、その衝撃で記憶障害が起こる、それはあり得ない事でもないし、恋人の久我先生から別れを切り出されてショックを受けたせいで解離性健忘を引き起こした可能性もあるかもしれない。
だが、可能性はまだ一つ残っている。
それは――――
「有栖川君を見舞った日、彼のご両親は私の事を、有栖川君が通っていた高校の ”理事長” だと彼に紹介してくださった。だが有栖川君は私に ”学院長” と呼びかけてきたんだよ。ご両親には聞こえてなかったようだが、彼自身はそう言った後、一瞬だけ顔を強張らせていた。私にはそれが、”しまった” と焦っているようにも見えたんだ」
「え、それって………有栖川さんが学院長を覚えてたってことですか?」
円城寺君は希望を見つけたように喜々と確かめる。
けれど私は、そういう温かい結末ではなさそうに感じていた。
ここで考えられる最後の可能性、それは………
―――――有栖川さんが、記憶喪失のフリをしているという事だったからだ。




