69 恋人
「記憶が……?」
「それって記憶喪失ってことですか?!」
さすがに円城寺君も黙ってはいられなかったようで、身を乗り出して大声でおじさまを問い詰めた。
「そうだよ、円城寺君。さすがに舞依ちゃんのところにもこの情報は入ってなかったようだね」
おじさまに振られて、私は「そうですね…」と返しながらも、はじめて聞く話に思考速度を極限まで引き上げていた。
記憶喪失……つまりは、逆行性健忘。
脳に衝撃があった時などに起こる症状で、そこらじゅうにあるケースではないものの、決して珍しいものでもない。特に事故にあった後などはその発症率がぐんとあがる。
ゆえに、三階から転落した有栖川さんの身に起こっても不思議ではないだろう。
通常は、衝撃を与えられた時点に近い過去の記憶ほど忘れられやすいとも聞くが、個人差も大きく、絶対というわけではない。
だが。今、おじさまは、吹月学院に関する記憶だけが失われていた、と仰った。
もしそれが正しいのならば、それは事故による外傷性の逆行性健忘ではなく、心因性の解離性健忘になるのでは?
何らかの事象が有栖川さんにとって大きなストレスとなり、それから自身を守るためにそれに関する記憶を手放した………そう考えるのが妥当だろう。
「じゃあ、有栖川先輩は僕達の事も忘れちゃったんですか?」
円城寺君はダンッとテーブルを叩いた。
けれどそんな反応もおじさまには想定済みだったのか、視線一つすら揺れる事はなかった。
「個別に何を覚えていて何を忘れているのかは調べていないが、私が以前面会した時は、吹月に関する事は全般を覚えていなかったよ」
「そんな……」
両手で口元を覆い、肩を落とす円城寺君。
有栖川さんを慕っていたぶん、余計にショックだろう。
私は触れるか触れないかの感覚で円城寺君の背後にそっと手のひらを寄せた。
彼をこんなに動揺させてしまった責任は、今日この場に彼を誘った私にもあるだろうから。
すると円城寺二君は私にくるりと顔を回した。
「マイマイも、知らなかったの?」
「ええ……」
私は手を下ろしながら答えた。
「私が把握していたのは、有栖川さんの恋人の件と、有栖川さんの意識が戻って退院されたという事までよ」
「そうなんだ……」
呟いた円城寺君に、おじさまは「驚かせて済まなかったね」と告げた。
「いいえ…、ショックですけど、あの時、有栖川先輩は頭をかなり強く打ってたみたいだったし……」
円城寺君は俯いて、頭を小刻みに振った。
もしかしたら当夜の光景を思い返しているのかもしれない。
慕っている先輩が転落した直後の光景を。
夜の暗さ広がる中、無惨に折れた植木と、意識もなくぐったりとしている有栖川さん……
私はそんな悲惨過ぎる記憶から円城寺君を呼び戻したくて、すぐさまおじさまに話を持ち掛けた。
「ですがおじさま、吹月学院に関する記憶だけ、というのは、事故による記憶障害というわけではないようにも思えますが?」
おじさまは「うん……」と肯定なのか相槌なのか掴めない一言を吐いた後、ソファの背に体を預けられて、腕組みをなさった。
まるで何かを思案しているように見えた。
「……実は、それについては少々気になる事があってね。舞依ちゃんに有栖川君の退院を知らせなかったには、そのせいもあったんだよ」
「何が気になったのですか?」
「うん……」
おじさまはまたそう言うと、わずかばかりに黙った後で、「これは誰にも話していない、ただの私の考えにしか過ぎないのだが…」と前置きされてから、有栖川さんのご両親から連絡があった時の事を説明してくださった。
「有栖川君が目を覚ましたと連絡を受けた私は、すぐにでもこの件を知っている関係者に知らせるつもりだった。だがそれは彼のご両親に強く止められてしまい、事情を尋ねると、彼が記憶喪失になってしまったと……。私はすぐに病院に駆け付けた。ご両親の許可を得て彼に直接面会したんだ」
「あ、あの、」
「何だい?円城寺君」
「すみません、あの、記憶以外は……有栖川先輩は無事だったんでしょうか?」
どうしてもそれは確かめたかったのだろう。
円城寺君が有栖川さんに懐いていたのがよく伝わってくる。
おじさまは腕組みを解き、「ああ、どこも大きな怪我はなかったよ」とゆるく微笑んでみせた。
「そうですか……。あ、話を止めてしまって失礼しました」
「構わないよ。あの夜の目撃者でもある君は、立派な関係者なんだから」
胸を撫で下ろした円城寺君に、おじさまは優しい声だった。
有栖川さんの身体に問題がなかったという知らせに私も安堵はしたが、それは今日のメインテーマではない。
薄情なのは承知で、私はおじさまを促した。
「直接お会いした有栖川さんは、いかがでした?」
「……やはり、私の事も吹月学院の事も覚えてはいなかったよ」
「では、久我先生の事も?」
「ああ。息子の名前を出しても何も反応しなかった。息子だけじゃなく、同級生や親しかった人物、好きだったという推理小説なんかを持ち出してもだめだった。そこで彼のご両親が、恋人の存在を持ち出されたんだ。ご両親には、有栖川君には恋人との事で悩みがあったようだ…とはお伝えしていたからね、それでその女性に会えば、有栖川君も何か思い出すかもしれないと仰ったよ。事故が起きた当初は恋愛沙汰でこんな事にと取り乱されていたが、有栖川君が記憶を取り戻す為なら、その女性に頭を下げるのも厭わないとも仰った。だからその恋人だった女性を探して連れてきてくれないかと頼まれたんだよ。だが……」
おじさまは複雑そうに表情を歪める。
「有栖川君の恋人は、もう知っての通り、久我 孝則、私の息子だ。だがそれをご両親にお伝えするわけにはいかない。これは安請け合いはできない、もし引き受けるなら完璧な誤魔化しを用意しなくちゃならない。私はどうしたものかと返事に迷ったわけだが、その時、ベッドの上から私とご両親のやり取りを見ていた有栖川君の目が、ほんの少し、ほんの少しだけ、狼狽えたようにも見えたんだ」




