64 あの夜の事
「では久我先生は、内線電話を受けた後、有栖川さんを慰める為に、ライブラリーでお会いになったのですか?」
大人の男性がここまでの苦悶を浮かべている姿は、滅多に見る機会はなかった。
ごくたまに遭遇したとしても、それは家族や親しい相手が亡くなったり、病気だったりが原因で、少なくとも恋愛についてではなかった。
だが、”大人” と一括りにしても、久我先生は二十代で、まだまだ社会人としてはビギナーの範疇なのだろう。
恋愛にしても、中等部高等部時代をここ吹月学院で過ごしたのであれば、決して経験豊富とはいかないはずだ。
生徒達の目には立派な大人に見えていた久我先生も、本当のところは、色んな意味でまだ若い青年に過ぎなかった。
そしてその若さゆえの誠実さや実直さが不器用な形になって、恋人を傷付けてしまった……
「とにかく唯人を落ち着かせたかったんです。その時は、きちんと説明すればわかってもらえると思いましたから」
久我先生の発言は嘘ではないと思う。
だが全てでもない。
私は彼の優しさが、彼の説明から曖昧さを醸し出しているのだと思った。
自分を脅迫してきた相手の事さえ慮ってしまうような、そんな優しい性格が時にはボトルネックにもなったりする。
だから私は…
「何を理解してくれると考えたのですか?久我先生が説明すれば、有栖川さんは別れを受け入れてくれると思ったのですか?きちんとした説明とは、久我先生が受けた見ず知らずの人物からの脅迫電話の件も含まれているのですか?」
「脅迫電話?!」
「脅迫電話ですって?!」
栗栖君と楠先生が声を揃えて驚き、京極さんは無言で私を見つめてきた。
私は三人の反応にはよそ見せず、久我先生を見据えていた。
本来ならば、神村さんの行いについては、わざわざ彼らに知らせる必要はないと考えていた。
彼女の品性に欠ける行為をあえて触れ回る事も、それこそ品性に欠ける行為なのだから。
だがこのままでは久我先生が単に己の保身の為に有栖川さんを傷付けた…という印象を、京極さんや栗栖君から払拭するのは困難な気配がしたのだ。
「先ほどもお話ししましたように、久我先生と有栖川さんが親密な関係であると一目でわかる場面を、吹月外の人物に目撃されていたのです。そしてその人物は、有栖川さんが久我先生に弄ばれていると思った。だからこれ以上有栖川さんに酷い事をしないようにと久我先生に直訴する為、その場面を証拠写真としてスマホに保存した。久我先生は電話でその写真を引き合いに出されたのでしょう?」
真実に少しばかりの嘘を混ぜて。
私の中で神村さんを罰したい気持ちはなかったし、きっとそれは久我先生も同じだろうから。
「証拠写真って、まさかそれをばら撒くとでも言われたの?」
「あー、それなら有栖川先輩を不安にさせないように事情を伝えなかった…ってのも頷けるな」
楠先生、栗栖君とそれぞれの反応があった後で、やはり京極さんは私を見つめてくる。
どうやらこのカリスマ性あふれる寮長は、久我先生だけに対してではなく、私への燻ってる感情がある風情だ。
”なぜ君がそんな事を知ってるの?” もしくは ”君が知ってるということは、脅迫してきた吹月外の人物は神村さんだね?” …彼の頭にあるのはそんな考えだろうか。
「……脅迫、という言葉は強すぎるから使いたくはないが、もしそうだったとしても、そんな人目のあるところで二人で会っていた俺達、いや俺に非があるんだ。それに電話をかけてきた彼…人物は、唯人を思っての事だったんだから、何も悪くはない。舞依さんもそう思いませんか?」
「ええ、私もそう思っています。そして、有栖川さんを思い、詳細を告げないまま距離を置こうとなさった久我先生にも非がないとも思っています。そうですよね?京極さん」
「……そうだね。事情を聞けば、致し方ない選択だったとも思えるから」
そう頷くと、京極さんは私から久我先生へと視線を移した。
私も彼に続き、正面の久我先生にまっすぐ告げた。
「あの夜、ライブラリーで何があったのかを教えてください」
久我先生はため息を吐いたが、それは準備運動の深呼吸のようにも聞こえた。
「……内線をかけてきたあいつを電話越しに落ち着かせようとしてみたけど、もうその時点であいつはかなり動揺していて、俺の言葉も届いているのかわからないような状態だった。それで直接会う事にして、すぐにライブラリーで落ち合った。日付の変わる少し前くらいだったと思う。あいつは俺が今までに書いた手紙を全部持って来てて、これを捨てさせてどうするつもりなんだと俺に叫んだ。叫んだと言っても、真夜中だったから、声のボリュームはあくまでも控えめにだ。だが心の底からの叫び声のようにも俺には感じた。それと同時に、今の時間帯を考慮できるほどには落ち着きが戻ってきてるようにも感じた。だから写真を撮られたとか、具体的な事は飛ばして話せる範囲で事情を説明すれば、あいつも距離を置く事に同意してくれるんじゃないかと思った。事実、あいつは渋々ながら納得したよ」
「有栖川先輩が納得したんですか?」
「少なくとも俺はそう受け取った。唯人からはちゃんと『わかった』という返事も聞いた」
「けれど、実際はそれはアリス先輩の本心ではなかった?」
「何が本心だったのかは、有栖川君本人でないとわからなかったはずだわ」
即座に説いてくる楠先生は、どこまでも久我先生を守りたいのだろう。
だが言われた京極さんは、視野の角度をぐんと広げたようだった。
もう一方的に久我先生に鋭い態度を放つことはせず、私と同じニュートラルな思考に重きを置いているようだった。
「それで、アリス先輩の了承を信じた久我先生は、先にライブラリーを出られたのですね?」
「そうだよ。まさかその後であんな………」
途切れてしまった久我先生のセリフを引き継ぐ者は、誰もいなかった。




