63 あの夜への入口
「……確かに5月1日も、新月だった。でもその前に、さっき舞依さんからもあったように、俺は、ある人から唯人との関係を見直すようにという電話を受けていて………とても普段通りに会える状況ではなかった。それなのにあいつにどう伝えるのが最善か悩み過ぎて、結局、いつものように暗号も残さず、ただ無視するようなかたちになってしまった。でも夜が明けて2日になって、すぐさま後悔した。何の連絡もなしにいつもの約束をキャンセルされたらどう思う?俺だったら、相手に何かあったんじゃないかと不安になってしょうがないだろう。とにかくすぐにあいつに謝らなきゃと焦った。でもいくら連休中で学院内に残ってる人数は少ないとはいえ、人目がないわけじゃない。電話や手紙も過ったが、やはり記録が残るものは避けた方がいい……そうこう考えてると、これまで俺達がやり取りしていた手紙の存在が、急に危険に思えてきた。互いの名前は書いてなかったし、立場がわかるような言葉や言い方はしないように二人ともじゅうぶん気を付けていたが、中を読まれてしまえば、男が男に書いたものだとわかるだろう。中には、恋人同士のような内容もあったはずだ。もしもそれを誰かに見つかって、あいつが関係してると知られたりしたら大変だ。だから俺は、急いでその手紙を処分するように伝えたくて、咄嗟に暗号の印を付けた」
その時の動揺がストレートに感じられる言葉つきだった。
久我先生の焦りが相当なものだったのは、暗号に使った文字の選び方でも推察できる。
ただ、その暗号のメッセージについてひとつだけわからない事もあった。
「”手紙 名消す あした 捨てろ” ですね?」
「そうだよ。我ながら、雑な文章だな……」
「少し気になったのですが、どうして ”あした” なのですか?」
「ああ、それは、」
「まさか次の日が燃えるごみの特別回収日だったから、ですか?」
久我先生のセリフを奪ったのは、穏やかな冷静を取り戻した京極さんだった。
「……正解だ。短絡的だろ?嗤っていいぞ」
力なく微笑むも、それに倣う人間はこの場にはいない。
「……あいつと一緒にいる事を選んだ時に、とっくに覚悟はしていたはずなのにな……。なのに、いい歳した大人がたった一本の電話でこんなにも取り乱すなんて、自分でも情けないよ……」
自嘲する久我先生には同情もする。けれど申し訳ないと思いながらも、私はその先を知りたかった。
「それで、そのメッセージを受け取った有栖川さんはどうされたのですか?」
すると久我先生からはスッと笑みが消滅する。
ああ、ここからがあの夜へと向かう入口なのだと、瞬時に察した。
「………その日の夕方、あいつは職員棟にまで訪ねてきたよ。俺は不在だったが、幸い、その時あいつを見かけたのは楠だけだったようで、俺の代わりに対応してくれた」
「ちょうど食事時で他の職員も出払っていたの。有栖川君は特におかしな様子ではなかったけど、彼が職員棟にまで久我君を訪ねてきたのは驚いたわ。二人は人目のある所ではほとんど接触してこなかったから。だからすぐに久我君が留守であると伝えて、何かあったのか訊いたの。そうしたら有栖川君は『何でもありません』って普通の態度で戻っていって、てっきり私は、二人が痴話げんかでもして、謝りに来たのかな?くらいにしか考えていなかった。だから有栖川君が来た事を久我君に伝えるのが遅くなってしまったの。でも、消灯間際にやっと見かけた久我君に有栖川君の話をしたら、いっぺんに顔色が変わってしまって……」
「きっと、あいつはライブラリーで夕刊の暗号を確かめたその足で職員棟まで来たんだろうな。俺は心のどこかで、その日の朝刊に暗号があるのに気付いた唯人は、夕刊に差し替えに来る俺をライブラリーで待ち伏せしてるんじゃないかとも思っていたんだ。だがあいつはそうしなかった。朝刊だけでは暗号の文は完成されてないわけだから、慎重になったんだろうが、でもそれ以上に、俺達の関係を悟られないようにと日頃から用心に用心を重ねていたせいだろうと思う。そんなあいつがわざわざ職員棟まで来たと知って、これは暗号のメッセージを間違えたのかもしれないと思った。あいつを追い詰めたんじゃないかと思って、居ても立ってもいられなくなってしまった」
「それで、俺が盗み聞きした、ライブラリーで深夜の密会となったわけですか?」
さらりとした京極さんの追及に、久我先生はそちらに顔を向け、「ああ」と一言で答えた。
そしてまた、私達全員に聞かせるような姿勢に戻した。
「消灯を少し過ぎた頃だった。俺は本心ではすぐにでも唯人を訪ねたかったが、さすがにそれはまずいと理性も働いていて、悶々とした時間を過ごしていた。その時、内線が鳴ったんだ。こんな夜更けに内線なんて、緊急事態が起こったか、唯人からしか思い浮かばなかった。ただ校内でトラブルがあったとは聞いてなかったし、もう唯人しか考えられなかった。さっきも言ったように内線も履歴は残ってしまうから、それまで一度も唯人から俺の部屋に内線をかけてきた事はなかったが、あの時はなぜか唯人からかもしれないと強く予感したんだ」
「有栖川先輩は、電話で何て言ったんですか?」
「……あの暗号はどういう意味だと、明日の朝ゴミに捨てろという事かと、自分の事を嫌いになったのかと、そう…」
「当然ですね。アリス先輩から見たら、ただの恋人からの裏切りにしか見えなかったのでしょう」
「京極君、それは言い過ぎよ」
柔らかい物言いなれど、楠先生が窘めたのは、久我先生寄りの立場ゆえにも見えた。
言うまでもなく、京極さんと栗栖君は有栖川さん寄りだ。
ならば私は、どちら寄りでもなく、ニュートラルで。
けれどまだ15歳の経験値では、久我先生の話を聞けば久我先生側に、有栖川さんを想えば彼の側に天秤は傾いてしまう。
「いいんだよ、楠。実際、俺が唯人を傷付けてしまったことに変わりはない。……あいつは電話の向こうで、泣いていたんだからな」
そう語った久我先生の声も、気の毒なほどに苦しそうだった。




