6フラットAの住人
京極 瞬也
それが、拍手の主の名前だった。
吹月学院高等部生徒寮の寮長で、私と同じフラットAの住人。
クラスは2-1。
生徒会のない吹月学院においては寮長という役職が生徒会長に近い役割もあるらしい。
背は180ほどだろうか。長めの髪をハーフアップにくくっていて、半袖姿の生徒が多い中、きちんとジャケットを羽織っていた。
美少年というよりは美丈夫という言葉の方が似合いそうな容姿である。
ここに来る前、在校生の中で、将来的に私の人生に関与してくるであろう人物の名前はいくつか知らされていたのだが、彼はそのトップに載っていた人物だった。
父曰く、彼の実家筋とはこれまでは公私ともに深く関わりなかったそうだが、見知っておいて損はない人物ということだった。
そしてそれはおそらく向こうもそう考えているはずで。
私は、久我先生から紹介を受けて彼と挨拶を交わす間じゅう、彼の愛想の裏に隠れた鋭い視線と対峙しなくてはならなかった。
けれどそれも、「ではあとは俺がエスコート役を承りましょうか?」という彼からの申し出により、一転したのである。
一度は断ろうとした久我先生を、彼はやわらかく「ですが同じフラットAの住人同士、早く打ち解ける機会を持った方がいいと思いませんか?」と進言し、案内役を交替させてしまったのである。
「舞依さんはそれでもよろしいですか?」
申し訳なさそうに尋ねてきた久我先生に私は即答した。
「もちろんです。久我先生もご用事がおありでしょうから」
「それでは、先生の車のキーをお預かりしてもよろしいですか?夕食後、職員棟までお持ちしますので」
車に残してきた私の荷物を取りに戻るため、京極という生徒は久我先生からキーを受け取る。
「頼んだぞ。ああそれから、舞依さ…館林さんに冷たいものをお出ししてくれ。その為にここに寄ったのにここじゃ落ち着けそうにないから、管理棟のラウンジにでもお連れして。それでは館林さん、私は職員棟にいます。何かあったらすぐに直通電話で知らせてください。使い方は…」
「俺からちゃんとご説明しておきますよ。ご心配なく。お飲み物も承知しました」
「あと、IDカードはまだだから、後で…」
「わかりました、IDの説明もしておきますので、ご安心を」
久我先生のセリフを引き継いだ彼は、私に優しく微笑んでくる。
私は、”舞依さん” という呼び方を苗字に改めた久我先生に、一生徒として頭を下げた。
「久我先生、今日はわざわざ迎えに来てくださって、ありがとうございました」
”ジェラートのお兄さま” が、”先生” に変わった瞬間だった。
すると久我先生はどこかホッとしたように眉を動かした。
どうやら、よほど心配してくださってたようだ。
そして寮長の彼は周囲に行き渡るように視線を巡らせた。
「じゃ、そういうことだから。みんな聞いてただろう?今からこちらの館林さんは俺がフラットAにお連れする。みんなも色々と気になるだろうけど、それぞれがその好奇心をぶつけるとどうなるかわかるよな?追い追い、館林さんが学院に馴染めるような機会も設けていくつもりだから、くれぐれも紳士的に振舞うように。明日以降も、あまり騒がしくして館林さんの貴重な交換留学の場を台無しにするなよ。いいな?」
寮長の短い演説は生徒達には絶大だったようで、あんなにざわついていた彼らが、一様に揃って納得した雰囲気になってしまう。
鶴の一声、と言うのが正しいのだろうか。
そんな彼の隣りでは、久我先生がささやかな苦笑いを浮かべていたのだった。
※※※※※
「ところで、飲み物は寮にある自動販売機のものでも構わないかな?」
久我先生の車から取り出した荷物のうち、ジェラルミンのスーツケースを運びながら、京極さんが尋ねてきた。
わたしはボストンバッグを右手から左手に持ち替え、「もちろんです」と答えた。
「それより申し訳ありません。先輩に荷物運びをさせてしまうなんて…」
「そんなの気にしないで。だって、この二つは、きみが今日ここまで一人で運んできた荷物なんでしょ?だったら俺にとっては大した労力にもならないよ」
「それはそうなのですが……」
それでもやはり、初対面の先輩に持たせてしまうのは気が引けてしまう。
私の出迎えという役目を担っていた久我先生とは、少々事情も違うのだから。
けれど京極さんは「なんだったら、そっちも一緒に持とうか?」と爽やかに言ってくる。
「いえ、とんでもないです」
首を振る私に、クスクス笑う京極さん。
さっき食堂棟で見せつけられた寮長としての影響力はかなりのものだと見受けられたが、今横に並んでいる彼は、とても面倒見のいい優しい先輩、といった印象が色濃い。
そして紳士的だ。日本の男子高校生にしては珍しいほどに。
「そんなに畏まらなくていいんだよ?俺は寮長なんてしてるけど、きみとは一学年しか変わらないんだから」
「畏まってるつもりはないのですが……、もしかしたら、少し緊張してるせいかもしれません」
「そうか、それもそうだよね。女性がたった一人で全寮制男子校に編入するだなんて、緊張しない方がどうかしてるよね」
京極さんからは同情的なニュアンスを感じる。
この人は食堂棟でも、私の登場に一切驚いた表情をしていなかった。
「あの、京極さんは、他の生徒さんと違って、私が編入してくる事をご存じだったのですか?」
「うん、そうなんだ。フラットAの寮生には前以て知らされていたんだよ。ほら、いくら個室でバス・トイレ付といっても、やっぱり女性と一緒の建物は気を遣ってしまうという生徒がいるかもしれないからね。学院側が意見伺いをたててくれたんだ。でも安心するといいよ。全員がきみを歓迎してるから」
「そうなんですか?それを聞いてホッとしました」
私は心の底からそう思っていた。
自らが望んだものではなくとも、やはり拒否されてる場所に身を置くのは難しい。
せっかくならば、互いに有意義な時間を過ごし、未来的な関係を築き上げたいものだから。
「6月に留学先のアメリカの学校を卒業したと聞いてるけど、そこでも寮に入ってたんだよね?」
「はい」
「じゃあ、ある程度は寮生活にも慣れてるんだね。ところで、卒業時にはもう吹月への留学は決まってたのかな?」
「いえ、久我のおじさま…学院長先生から7月にお誘いいただいたんです」
「やっぱり理事長の関係者だったんだ?」
「やっぱり、とは?」
「夏休み前には交換留学なんて話はなかったから、急に決まったのだとしたら、もしかして学校関係者のご息女なのかなと、そんな噂があったんだよ」
「そうでしたか。私の父と久我学院長が古い友人なんです。私も幼い頃から可愛がっていただいて、そのおじさまからのお誘いだったので、両親も私を預ける事に心配はなかったようです」
「ということは、本来なら別の学校に進む予定だったの?」
「別の学校に行く予定ではありました」
「差し支えなければどこに進学予定だったか訊いてもいいかな?」
「スイスの寄宿学校です。あの、ところで、私からもご質問してよろしいでしょうか?」
「ああ、ごめんね。俺ばっかり質問してしまって。どうぞ?何かな?」
京極さんはすんなりと退いてくれたが、私が質問権を譲ってもらったときには、もう寮棟は目の前になっていた。
「ここに来る前、学院案内や寮生活についての規則や概要の冊子を送っていただいたのですが、そこに ”細かな寮則はフラットごとに異なる” という記載がありましたので、それを教えていただきたいのですが」
久我のおじさまが私宛に送ってくださった冊子にはおじさまの手書きで付箋メモも添えられていて、おおよその暮らしぶりはイメージできたのだけど、どうしてもその一文は気になっていたのだ。
京極さんは「へえ、そんな説明書きがあったんだ?」と、まるではじめて聞いたような感想を口にした。
けれど特別驚いた風でもなく
「そうだね、暮らしていくうちにわかってくることも多いと思うけど………もう着いちゃったから、とりあえず、中に入って冷たい飲み物でも飲みながら話そうか?」
”フラットA” という表札の前で立ち止まって、くるりと私に体を向けたのだった。