57 はじめての音楽棟
「―――と、いう事らしいですよ?先生?」
私の声かけに、まるで迷いを吹っ切ったような勢いで扉が押し開かれる。
楠先生は闇夜を裂くような仕草で扉を開ききり、自らの姿を明確に現したのだった。
「やはり楠先生、あなたも絡んでいたのですね」
京極さんが驚きもせず、むしろ腑に落ちたといった風に落ち着き払って告げる。
一方の楠先生は京極さんと栗栖君がいたことに少なからず驚いた様子だった。
「……話し声がすると思ったら、あなた達だったの。京極君、栗栖君……」
「こんばんは。館林に誘われたんですけど、俺達もご一緒してよろしいですか?」
「ごめんなさい、それは私には決められないわ。私も立場的にはあなたと同じだから、栗栖君」
「つまり、今夜の彼女の待ち合わせ相手は、あなたではないのですね?」
「そうよ?どんな理由があるにせよ、こんな夜遅くに人目を忍んで誰かと会っているのを見られでもしたら、館林さんの為にも良くないと思ったの。勿論、音楽室で待ってる彼も承知の上よ。それに私は、館林さんが知りたがっている事にまったくの無関係というわけでもないの。だから館林さん、私の同席を許可してくれるかしら?」
楠先生は教職者としての配慮と個人的な希望をいい塩梅に混ぜてくる。
ここで私が拒否しても彼女は受け入れるだろうが、私の中では、彼女も立派な共犯者認定済みなのだ。
それゆえ、むしろ彼女の申し出は好都合で、実際のところは五分五分ほどの確率で、彼女も待ち合わせ場所に来ているだろうと予測していた。
「勿論です。私は楠先生にもお伺いしたい事がたくさんありますから」
「いいわ。何でも訊いて。私も彼も、このまま何もなかった事にしてしまうのは、心苦しかったの」
「誤解なさらないでください。私は、お二人の懺悔を伺う為に英国からやって来たのではありません」
思わず、そう口走っていた。
黙っているのが苦しかったからなんて、そんな泣き言めいためいた言い訳は、有栖川さんの身に起こった事実を知るまでは聞きたくはなかったから。
私がきつい言い方をしたからか、京極さん、栗栖君は黙って見守っていた。
そして楠先生は首元にあるペンダントのトップをきゅっと握りしめた。
その仕草は ”不安” の心理の表れかもしれない。
「そうね……。ごめんなさい、私達の事よりも、有栖川君の事よね。はっきり言ってくれてありがとう、館林さん」
まだ数回しか顔を合わせていない生徒の厳しい意見にも、素直に耳を傾ける彼女は、基本的には良い教師なのだと思う。
だからこそ、きっとこの後は、真実のみを語ってくれるだろう、そう信じてみたかった。
「いえ、私も失礼な物言いをしてしまいました。……では、中に入っても?」
「どうぞ。彼も私もずっと緊張しながら待っていたわ。京極君と栗栖君も、一緒に入って。きっとあなた達の同席も許してくれると思うから」
「ありがとうございます」
「ありがとう、楠先生」
楠先生が懐中電灯で先導し、私、京極さん、栗栖君の順に音楽棟に入っていく。
音楽棟の中は非常用のささやかな灯りのみの世界で、各自が持つ懐中電灯だけが頼りなのは、外にいる時と変わりなかった。
はじめて足を踏み入れた音楽棟は、管理棟やフラットAと同じような古い匂いがしたけれど、床はそれよりもしっかりしている。防音室があるのだから当たり前だけれど。
その床は絨毯が敷かれており、懐中電灯で照らされたそこは、深みのある赤色だった。
「でも楠先生はどこから音楽棟に入ったんですか?俺達ずっと音楽棟の前にいたのに。やっぱ隠し扉とかあるの?」
一番後ろの栗栖君から先頭の楠先生に質問が飛ぶと、「あら、栗栖君でも調べられなかったの?」と、やや挑発調の答えが跳ね返っていった。
「俺達が調べていたのはご存じなのですね」
「ええ、そうね。京極君が栗栖君と組んで何か動き回ってるというのは、私達も久我学院長も気付いていたわ」
「なるほど、じゃあ俺達は泳がされていたわけか」
「そう言う栗栖君だって、私を見張りながら泳がせていたのではなくて?」
「まあ……なあ」
それぞれが腹に思いを据えながら、唇は気安く言葉を踊らせて、音楽棟の古びた階段を上っていった。
円城寺君情報では、グランドピアノがある音楽室は二階の最も端だ。
一行はまっすぐそこを目指し、楠先生は軽くノックした後、がらりと引き戸を開いた。
その瞬間、ポーンと、鳴り止んでいたピアノの音がひとつだけ跳ねた。
Gの音だ。
中は暗くて、こんな環境で鍵盤を叩いていたのだとしたら、かなりのミスタッチも頷けた。
「さあ、どうぞ?」
扉口で立ち止まった楠先生に促されて、音楽室に真っ先に入った私を歓迎するかのように、部屋の中央付近でランタンの灯りがふわりと点けられた。
グランドピアノの天板に置かれたものだ。
そして、ピアノスツールからゆっくり立ち上がる久我先生と目が合った。
「こんばんは。舞依さん」
そこにいたのは吹月学院高等部の久我教諭であり、私にとっては ”コモ湖のジェラートのお兄様” だった。




