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35 感情





彼女は公園から駅方面に少し進んだところで、犬と一緒に立ち止まっていた。



「神村さん!」


呼びかけに振り返ると、すぐさま何事かと焦ったような仕草でこちら側に数歩駆け寄ってきた。


「…どうかしたんですか?」


不安げな顔色に染め、私を見上げてくる。

小柄な神村さんと対面すると、私は彼女を見下ろすような形になってしまうのだ。

それを回避する為、私はわずかに猫背姿勢になった。



「呼び止めて申し訳ありません。有栖川さんの事を、お伝えしに来ました」

「え?でもさっき京極さんは…」

「京極さんのお名前もご存じだったのですか?」

「吹月の生徒さんはこの辺りじゃ目立ちますから。特にさっき一緒にいらした三人は、中等部の頃からかっこいいと有名なんです」

「ああ、なるほど」


とても納得だった。

家柄云々までは知らなくとも、あのルックスでは地元のアイドル的扱いだったとしても不思議ではない。

それに名前程度であればどこからか漏れ伝わってしまうのもやむを得ないだろう。



「ご安心ください。京極さんにも了承済みです」


その京極さんから頼まれたという点は伏せておいた方がいいだろうか。

神村さんは京極さんに対して何か(・・)ありそうだからだ。

てっきり京極さんに好意でも持っているのかと思ったけれど、不躾に有栖川さんの事を尋ねてくるほどだから、おそらく彼女の好意は京極さんではなく有栖川さんに向いている。


もしかしたら、神村さんが、有栖川さんの彼女だったのかもしれない。


……いや、そう考えるのは早計だ。

先入観を捨てて彼女と接しなければ。

私は気持ちを引き締めて彼女に告げた。



「有栖川 唯人さんは、留学されました」

「え?そうだったんですか?」

「私と入れ違いだったようで、私は面識もありませんし、詳しい事はわからないのですが、神村さんは留学の事はご存じなかったのですか?」

「はい、全然……。そっか、留学……それで最近見かけなかったんですね」


神村さんのホッとした様子は、私に罪悪感を覚えさせた。

だが私の役目はまだ果たせていないのだ。



「やはりご存じなかったのですね。もし神村さんが有栖川さんに何かご用があるのでしたら、無闇にお待たせするのは気の毒だと、京極さんがそう仰ってました」

「え?京極さんが?」


食いついた。信じられないといった様子で。

やはり彼女は京極さんに対して何らかの感情を持ってるのだ。ポジティブではない類の。


「ええ。個人情報ですから、詳細をお教えするのは避けるべきでしょうけれど、留学してもうこの街にいないという事実くらいでしたらお知らせしてもいいのではと…」

「本当ですか?本当に京極さんがそんな風に言ったんですか?」


まるで京極さんはそんな事を言うはずがないといった言い草である。


「……失礼ですが、京極さんとはお知り合いではなかったのですよね?それにしては、今の神村さんは、京極さんの事をよくご存じの方の反応のようにも思います。さきほども何だか京極さんを意識してらしたようですが…」

「え?意識、ですか?」

「ええ。ひょっとして、京極さんに特別な感情をお持ちですか?それでしたら、いきなり吹月学院に編入してきた私をご不快に思われた事も納得できます。好きな相手のそばにどこの誰とも分からない得体の知れない人間が突然現れたりしたら、苛立ちを覚えても仕方ありませんよね」

「ちが、違います!不快とか苛立ったりとかじゃなくて、京極さんは素敵な人だけど別に好きとかではなくて、私が好きなのは有栖川さんの方ですから!………あ」



多少仕掛けたのは私だが、ここまで素直に引っ掛かってくれるとは。

それだけ彼女の心が有栖川さん一色だったという事だろうか。


短くも、絶妙に不協和な空気が流れる。



「……そうでしたか、有栖川さんを……」

「いえ、あの、それは、」

「お付き合いされてた、というわけではないのですか?」

「あの……いえ、…………私の、片想いです」


口を滑らせてしまった以上は仕方ないという様子で、神村さんは静かに認めた。


「そうだったんですね。それで、最近見かけなくなった事を心配してらしたのですね?」

「はい…」

「有栖川さんは街で見かけるだけ、だったのですか?」

「そう、です…。やっぱ変ですよね?親しく話した事もないくせに、もう何年も片想いだなんて」


気恥ずかしさからか、しゅんと俯いた彼女。

けれど私には、その行為こそが、彼女が有栖川さんを本当に好いている証のようにも見えた。


「いいえ」

「……え?」

「私は、そのようには思いません。人が人を好きになるのは、特別な事ですから。それ自体がとても不思議で、理屈では到底解明されない感情です。ですから、そこに自然とか不自然とか、変だなんて評価は付けられるはずないと思います」


私の言葉に、神村さんんはハッとした様子で目を見開いた。


「ですが、そんな風に相手を心配なさるなんて、神村さんはお優しいですね。さきほど私達に声をかけるのも、迷いに迷って、勇気を振り絞ったのではありませんか?そして、そんな風に想われている有栖川さんは、幸せな方ですね」


これは仕掛けでもなく、本心からの感想だった。

だが神村さんは何故か怯えたように、また目を伏せてしまったのである。


あまりにもあからさまな動揺。

だがこれは好機だろうか?

彼女が追い込まれると本音をこぼしやすいという事は、もう把握済みなのだ。

幾ばくかは申し訳ないと思いながらも、私は一方的に話し続けた。



「私は有栖川さんとはお会いした事はありませんが、お優しい神村さんにここまで想われるなんて、きっと有栖川さんもお優しい性格だったのでしょうね。お二人が羨ましいです。実はお恥ずかしい話、私は初恋もまだでして、どなたかを想う気持ちも、想われる経験も…」

「あの、違うんです!」

「――はい?」

「私、全然優しくなんかないんです!」


神村さんはガバッと再び顔を上げた。

眉を曲げて、苦虫を嚙み潰したような、だが切なげにも見える表情だ。

私はそんなに相好を歪める彼女に気の毒にという気持ちも生じたが、それよりも、今から彼女によって披露されるであろう新たなる事実の方に、感情は大きく傾いていた。









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