1真夏の青天の霹靂
夏。
どこを見まわしても疑いようのない夏の景色に取り囲まれながら、私は久々の実家の居心地を堪能していた。
留学帰りの身には何の変哲もない日常が嬉しかったりするもので、私は、朝食後のただの庭の散歩でさえ、気持ちが弾んでいた。
例年よりも猛暑だと言われているが、留学先に比べればまだ過ごしやすい気候だし、庭には庭師の手入れが行き届いた花が並んでいるし、とにかく私は機嫌よく気ままに午前を過ごしていたのである。
しばらく行くと、目前にはこんもりと丸くて愛らしいアナベル達が現れた。
白い花がぽんぽんと並んでいる光景は、夏の空に浮かんでる雲みたいで、私はさらに足取りが軽くなって。
けれど少し視界を広げると、我が家の優秀な庭師が何やら難しい顔をしているのが見えた。
彼の手には、ライムグリーンのアナベルが。
「どうかして?」
思わず声をかけてしまった。
仕事中の使用人にはなるべく声をかけないようにはしているのだが、彼の手中の可愛らしい花の行方が気になったのだ。
「ああ、お嬢様。いえ、実はこの辺りの花の一部がちょっとばかり傷んでおりまして。他にも同じように傷んでるものがないか確認しておりました」
「傷んでる?私には綺麗なライムグリーンのアナベルに見えるけれど」
「パッと見ではそうかもしれませんが、ほら、ここですよ」
庭師がアナベルをくるりと回してみせた。
私はそれを覗き込む。
「……もしかして、この、ちょっとだけ茶色くなってるところ?」
「ええ、そうです」
「勿体ない。たったこれだけでカットしちゃうなんてダメよ」
きゅっと庭師を見上げると、彼は苦笑いを浮かべていた。
その表情には、”やれやれ、またか…” といった、親しい間柄ならではの呆れが滲み出ていた。
「お嬢様ならそう仰ると思いましたよ。ですが、本日は午後にお客様がお見えになります。この天気ですので、もしかしたら旦那様が庭をご案内なさるかもしれません。その際、お客様に庭の花の汚れを見つけられてしまうと、旦那様のお顔を汚すことにもなってしまうのですよ。……いつも申してる事ですが」
「それでも私は勿体ないと思ってしまうのよ。これもいつも言ってる事だけど」
私は、私が生まれる前からここで庭師をしている彼に笑い混じりに反論し、そして手のひらを前に突き出した。
「だから、カットしたアナベルには私の部屋を飾ってもらうわ。勿体ないから」
すると庭師も笑い返してくる。
「出ましたね、お嬢様の口癖 ”勿体ない”。お嬢様は相変わらずリユースがお好きですね。そしてお上手だ」
「こんなの普通よ。みんなやってるわよ?」
私が特別なわけじゃない。
留学先の同級生達だって、きっと似たような事をしていただろう。
だがこの温厚で人当たりのいい庭師は穏やかに首を振る。
「一般人はそうかもしれませんが、お嬢様のような身分の方には珍しいのですよ。現に、私の仕事仲間は皆驚いてましたよ。上流階級の若いお嬢様方はわざわざ枯れかけの花をご自分のお部屋に飾るなんてなさいません」
「でも勿体ないものは勿体ないのよ」
「やれやれでございますね。……こういうお人を日本語では何と申し上げるのでしたでしょうか……先約、いえ違いますね、契約、検察官……」
それまで円滑だった会話に急ブレーキがかかった。
けれどそれはネガティブなものではなくて。
私は変色した可愛い花を見つめながら
「それを言うなら ”倹約家” ?」
日本語を母国語としない彼の、微笑ましい言い間違いを正した。
こんなやり取りにも、実家に帰ってきた感があり、それを思う存分に味わってしまう。
彼は、我が家に勤め始めてからずっと、雇い主の母国語を学んでくれているのだ。
そんな彼から時々おかしな日本語が飛び出すのは、我が家では日常的な癒しとなっていた。
「ああ、そうですそうです。倹約家、でしたね。お嬢様は倹約家です。とても優秀な倹約家でございます」
彼はそう言ってはははっと笑った。
粗野ではないが大らかな彼の空気感は、今日も間違いなく私を癒してくれたのである。
その後、アナベルを抱えた私はやや急ぎ足で自室に戻った。
今日は午後からお客様がいらっしゃるので、私もあと一時間ほどしたら支度しなくてはならないのだ。だが気心知れたお客様でもあるので、そこまでかしこまらなくてもいいだろう。
父の古い友人で、私も物心つく前から可愛がっていただいてる、日本にお住いのおじさま。
久しぶりの再会は、きっと楽しいひと時になるに違いない―――――と、はっきり言ってこの時の私は油断していたのだ。
まさかその方が、突拍子もない依頼を持ち込むなんて想像すらできずに。
※※※※※
「―――――今、なんと仰いました?」
日本では梅雨が明けるか明けないかの頃、ある7月の昼下がり、私は、数年ぶりに我が家を訪ねて来られた父の旧友から、とんでもない提案を受けていた。
「聞こえなかったかい?」
テラスでは真夏の日差しが誇らしげにグラスの氷を溶かしてくるが、そんな暑ささえも一瞬忘れてしまいそうになる。
それほどに思いもよらない内容だったのだ。
「いいえ、しっかり聞こえましたよ。聞こえましたが、あまりに突飛なお話だったものですから」
「じゃあもう一度お願いしよう。舞依ちゃん、うちの学院に来てみないかい?」
「無理です」
「なぜだい?」
即答した私に、おじさまは涼やかに問うてくる。
「それは本気で仰ってるのですか?それともそんな冗談を言うためにわざわざロンドンまでおいでになったのですか?」
思わず呆れ口調になってしまったが、おじさまはそれも気に留めたりはしない。
「もちろん本気だよ」
「念のために確認いたしますが、おじさまは私を生徒として誘ってらっしゃるのですよね?」
「そうだよ?舞依ちゃんは6月にアメリカの学校を優秀な成績で卒業して、9月からはスイスの寄宿学校に行く予定だと聞いているけれど、それを少し遅らせて、どうかな?ギャップイヤーだとでも思って」
「日本では15歳にもギャップイヤーが適応されるのですか?」
「うん?さあ、それはどうだったかな?」
曖昧に誤魔化そうとするおじさまに、私は、そもそも日本ではギャップイヤー自体がそこまでメジャーではなかったと思い出した。
いや、でも今回重要なのはその点ではなくて。
「……ですが、例えギャップイヤーがあろうがなかろうが、私がおじさまの学院に伺うのは不可能かと存じます」
「そんな事ないよ。学院長であり理事長でもある私が言ってるのだから、不可能なはずがない」
「それでしたら、失礼ですが、おじさまは気が触れておいでですか?」
「何を言うんだい。私は至って正気だよ」
失礼な物言いをした私に、おじさまは笑顔を崩さない寛容な態度で答えてくださるけれども
「いえいえいえいえ。おかしいでしょう?」
わたしは間髪入れずに否定した。
「うん?」
「だって、おじさまが理事長と学院長をされてる学校は………」
テーブルのアイスティーがカランと氷を泳がせると、それが合図だったかのように、私は叫んだのだった。
「全寮制男子校ではありませんか!」