クライブの旅立ち1
剣術大会の日から早くも十日ほどが過ぎた。秋の収穫もすっかり終わり、木々が色づき始めている。
まだ雄鶏も鳴き出さない静かさの中、まだ雄鶏も鳴き出さない静かさの中にクライブはいた。彼は腰に剣を下げ、旅装束をして村の東門で、村長と向かい合って立っていた。巡礼の旅に出る日が来たのである。
夜明け前のひんやりとした光が、水辺に煙る朝もやを薄青く染めている。
「精霊様にそそうのないようにの。」
村長がクライブにほこらの鍵を渡しながら言った。
「巡礼の証は持ったかの?ほこらに入ったら、精霊様の像があるのでな。祭壇に巡礼の証を捧げて祈るのじゃ。帰るときには巡礼の証は忘れずに持ってくるように!」
「うん、わかってるよ、村長。」
もう何十回目かと思われる説明に、クライブは苦笑しながら答えた。
と、背後から騒がしい足音が聞こえてきて振り返る。駆け寄って来る妹を見つけ、彼は片手を上げた。アスカも一緒だ。
「もう、なんで起こしてくれなかったのー!」
やって来るなり、エールは抗議の声を上げた。
「水のほこらを訪ねた後は、一旦帰ってくるんだから、挨拶はその時でもいいだろ。それに、よだれ垂らして気持ちよさそうに寝てたからさ。」
エールはクライブを小突こうとしたが、ひょいと避けられてしまった。
「それでも、旅の始まりなんだから、ちゃんとしたかったの!」
「じゃあ、ちゃんと自分で起きろよな。」
村長が兄妹のやり取りにフガフガと笑った。追いついてきたアスカも呆れながら笑っている。
「本当、こんな日にまで寝坊なんて…って、剣術大会のときも言った気がするわ。いい加減直さなきゃね、エール。」
「もう、アスカまで…。」
クライブは笑って、またむくれ始めた妹の頭をくしゃくしゃと撫でた。
「でも嬉しいよ。ありがとな。アスカ、エールを呼んできてくれたんだろ?ありがとう。」
「ううん。…水のほこらから帰ったら、そのまま旅に出るのよね?」
「ああ、今日の内に西の山小屋までは行きたいんだ。」
そう言うと、クライブは門越しに東の空を振り仰いだ。水のほこらは村の東側、精霊の山にある。村からさほど遠くない為、往復しても半日ほどだ。
次に向かう風のほこらは、西のコモルの森にある。必然的に、一度村に戻ってくる必要があるのだ。ただし、そこから先は長い旅になる。
「じゃあ、そろそろ行こうかな。みんな、見送りありがとう。」
「気をつけてね。」
「いってらっしゃい!」
エールとアスカが声を揃えて手を振る。
「精霊様にそそうのないようにの。」
村長が、もう何度目かの台詞を言った。クライブは歩き出しながら軽く右手を上げて返事をした。
泉に向かう山道には濃淡のある霧がゆっくりと流れており、クライブはまるで波打つ青いヴェールの向こうに歩いて行くようだった。
「さて、仕事仕事!」
クライブの姿がすっかり見えなくなると、アスカが背伸びをして言った。
「戻ってくるのは早くてもお昼になるだろうし、それまで一仕事しなくちゃ!じゃあ、エール、また後でね。村長、失礼します。」
「うむ。精が出るのお。」
村長が頷き、エールも手を振って挨拶をした。
村長と二人になったエールは、いい機会だと、剣術大会の日以来気になっていたことを村長に訊ねることにした。
「村長、村長も昔巡礼の旅に出たんだよね。」
「うむ。思い出すのお。あの時わしは十九での。というのも十八の年にはちょうどズガンゴートと取っ組み合いをした怪我で出立できなかったからじゃ。当時、手のつけられない暴れズガンゴートがおっての…。」
本題に入る前に村長の長話が始まりそうになり、エールは慌てて口を挟んだ。
「それで、十九で旅した村長は、巡礼の旅に出て、どんな答えを出したの?」
エールの問いに、村長はもじゃもじゃの白い眉を持ち上げた。
「旅の最後って、真実の滝で旅の答えを出すんでしょ?答えって何?みんな、行けばわかるって言うけど…」
村長の眉はどんどん持ち上がり、いつも半分隠れてしまっている目が今はすっかり見えている。
「旅に目的があるのなら、ちゃんと知っておきたいよ。」
村長は、しばらく少女にじっと目を注いでいたが、やがて諦めたように一つため息をついた。
「やれやれ、巡礼に出ていない者には、話さないようになっておるんじゃがのう…」
「それも、しきたり?」
「いいや。だが、長い間この風習が続くうちに、そうなったのじゃ。大昔は、全ての村人が巡礼の旅をしておったと聞く。しかし、今や巡礼に出る者の方が少ない。それを嘆く者もおるが、力なきもの、望まぬ者に旅立たせることは酷であり、無意味じゃ。」
そこで、村長は一旦息を切り、少し辺りを伺うようにした。
「ここから先は、わしから聞いたと触れ回るんじゃないぞ。…行けばわかる。と巡礼の旅の経験者は必ず言うじゃろう。それはこう言うしかないからなのじゃよ。旅の最後にお主が何を見るのか。それはわしにもわからん。真実の滝が巡礼者に見せるものは、その者によって違うからなのじゃ。」
エールは驚き、思わず反芻した。
「その者によって、違う?」
「そうじゃ。」
村長はエールに顔を近づけ、声を潜めた。
「わしはな、実を言うと、若い頃は巡礼の旅の風習を続けることに疑問だったのじゃ。」
エールは村長を見た。その目は再び半分が眉に隠れてしまっているが、真剣な光を湛えていた。
「巡礼の旅に意味を見出せなかったならば、わしが村長になった後、この風習をなくそうとも考えておった。わしは巡礼の旅に出た。旅の最後に、長年の疑問の答えを見た。そして…考えを変えたのよ。」
村長はふーっと長いため息をついた。
「一つだけ言えるのは、巡礼の旅に出た者は皆、大なり小なり変わって帰ってくるということじゃ。」
エールはセイレーネの泉に続く道に目をやった。
「クライブも、変わっちゃうの?」
「そうさのう…。」
村長を髭をさすりながら少し上を向いた。
「程度はわからんが、変わりはするじゃろう。が、どうあってもあれはお前の兄じゃよ。どうやら、わしの話で心配させ過ぎてしまったようじゃのう。いや、すまんすまん。歳を取ると大袈裟に語りたがるものでなあ。」
村長はひょうきんに笑いながら、禿げ上がった頭をつるりと撫でた。
「長話し過ぎたわい。体が冷えてきてしもうた。どれ、帰って暖かい飲み物でも飲もうかのぉ。エールも来なさい。コモル村から仕入れたジャムもあるぞ。」
村長は先ほどの真剣な語り口が嘘のように朗らかに笑っている。
「村長、お話ありがとう。」
エールがペコリと頭を下げると、老人は念を押すように目を光らせた。
「誰にも言うでないぞ!」
「うん、わかってる。」
いつの間にか朝日が顔を出し、辺りは明るくなってきていた。朝露に濡れた草がきらきらと光り、宝石のようだ。
ちょうど朝食の準備をしていたペルーナは、エールの顔を見てとても喜んだ。夫人がいそいそと美味しいパンとチーズを出してきて、三人で食卓を囲む。
エールはパンにチーズを乗せ、その上にジャムをたっぷり塗って食べるのが気に入って、大きなパンを三片も平らげてしまった。
エールが幼い頃は、クライブと共に村長夫妻と食事を取ることがよくあったものだ。ペルーナがとても嬉しそうなので、エールも嬉しくなった。
ひと時楽しい時間を過ごし、村長宅を出る頃には、すっかり霧は晴れ、東の空は明け渡っていた。
エールはぶらぶらと歩き、自宅に戻った。玄関の脇には、クライブの旅荷物が纏められて置いてある。
朝は急いでいたので、顔も洗わずに出てきてしまっていた。脱ぎ捨てたままの寝巻きと、毛布を手に取って丁寧に畳む。
ふと、エールは寝台の側に立て掛けたままの剣に目を止めた。リィネの剣。アスカが打った、剣術大会の優勝の品。
しばらくの間、エールはじっと剣を見つめ、今朝の村長の言葉を思い返していた。
唐突に、エールは決心した。皮の胸当てとブーツを手早く身につけると、剣をベルトにしっかり挟み込む。そしてリィネの紋章入りの青い布を肩にかけると、踵を返して外に出た。東の門をくぐり、目指すはセイレーネの泉だ。
クライブは変わってしまうのかもしれない。それならば、今一緒にいられる時間を大切にしなくちゃ!