プロローグ
真っ白な斜面を、一台のソリが雪ロバに引かれていく。急な勾配を避け、高い山を回り込むようにして緩やかな曲線を描き、麓を目指して進むソリは、純白の雪原に二本の傷跡を残し、ゆっくりと降りてくる。
ほどなくソリは山の影を抜け、だだっ広く、緩い傾斜の雪原に出た。いっぱいに降り注ぐ日差しの中、小さなソリは銀の光に包まれているようだ。手綱を握っているのは色黒の壮年の男で、眩しそうに目を細めている。だが、その口元は嬉しそうに綻んでいた。長い冬が明け、久方ぶりに外の世界へと出て行くのである。
ソリの荷台には、木箱が一杯に積まれている。中身は冬の間にせっせと内職した工芸品、寄木細工の可愛らしい小箱や、丈夫な草で編んだ軽いブーツ、それから特産品の布などだ。それらをレンデの町で売り、代わりに鉄や塩など、村で手に入りにくい物品を買い付けて帰るのだ。
それらの荷の隙間に挟まるようにして、青年が一人と、獣人族の少女がこじんまりと座っていた。どちらも暖かそうなフード付きの毛皮のマントを羽織っている。青年はマントの下に簡素な皮の鎧を着て、腰に剣を下げている。少女は寒がりなのか、マントの前をぴったり合わせて留めていた。彼女の傍には長い木の棒が立て掛けられていた。持ち手には赤い布が巻かれている。
背中を丸めて座っていた少女だが、しばらくすると、思いの外日差しが暖かいことに気付いたように、丸めていた身体をほどき、軽く伸びをした。フードを取ると、ミーア族らしい長い耳がぴょこんと顔を出す。両耳に緑色の大きな輪っかのピアスをしている。毛色は濃い黄色で、赤茶色のぶち模様がある。アーモンド型の大きな目に、紫の瞳がきれいだ。腰に巻かれた緑色の布には、コモルの戦士の証である紋章が描かれていた。
寒さが和らいだことで機嫌を良くしたのか、少女は朗らかな口調で隣の青年に話しかけた。
「今、どの辺かな?こう白一色だと、来る時に通った道も、もうわかんないね。」
景色を眺めてぼんやりしていた青年は、反応が少し遅れたが、すぐに微笑んで短く返事をした。
「そうだな。」
そして座り直すと、少女と同じくフードを外した。黒髪で、精悍な顔立ちをした青年だった。下げた剣の柄にはリィネの紋章が描かれている。
「クライブの寄り道には慣れたつもりだったけど、次からもうちょい考えて行動して欲しいな。冬の間シバの村から出られないなんて、聞いてなかったし。」
少女は小言を言いながらも、ケラケラと楽しそうに笑っている。
「悪かったよ、ティナ。もう、寄り道は最後だから。」
ティナと呼ばれた少女は、アハハと声を上げて笑うと、ニコニコして言った。
「いよいよこの旅も大詰めだよねー。真実の滝、どんな所なんだろ?楽しみだねっ!」
クライブは微笑むことでそれに答えると、首を伸ばしてソリの進む先を見やった。麓までは、まだまだ距離がありそうだ。
シバの村は、エスト島の北端に位置する。白刃山と呼ばれる、島で一番高い山の中腹にある。真冬の間は吹雪と深い雪に閉ざされ、寒さに強い雪ロバのソリでさえ山越えは困難だ。村人達は、春に町へ売りにゆく細工や布を編みつつ、秋の蓄えを食べて冬を耐えるのである。
精霊のほこらを巡る旅の途中で、クライブは幾度も寄り道をした。立ち寄った村や町で、少しの間働かせて貰いながら、人と話したり、時には観光をしてみたり。
リィネ村の外の人達の暮らしや価値観を少しでも多く知ること。巡礼と並んで、それは彼にとっての大きな旅の目的だった。
滞在は数日間だけのこともあったが、時にはひと月もの間滞在することもあった。そして、今回のシバの村が最長記録だ。もっとも、雪の為に山を降りられなかった為というのが大きな理由なのだが、この村の人々の素朴ながら力強い暮らしぶりが、クライブはすっかり気に入ったのである。
先日、ずっと降り続いていた雪がようやく止み、ようやく旅立つこととなった。村人達に名残を惜しみながら、レンデへ行くというソリに乗せて貰い、村を出たのである。
雪ロバが力強くギュッギュッと雪を踏みしめる音が響く。白刃山は、その名の通り天に向けて掲げた剣のように高く、険しい山で、ソリが真っ直ぐに降りることは難しい。なだらかな部分を探して下ったり、登ったりしながら、少しずつ麓を目指すのだ。
迷わないように、道の途中、まばらに生えている木に赤い布が巻き付けられていて、草笛峠を思い出させる。色褪せてボロボロになっている所も同じだ。あの峠を越えたのもずいぶん前のような気がする。リィネ村の皆は元気だろうか。
と、急にソリの速度が緩やかになったかと思うと、止まってしまった。雪ロバがぶるるんと不満気に鼻息を吐いた。
「おおい、兄ちゃん。すまねえが手伝ってくれねえか。」
御者が振り返って声を上げた。登り坂で雪ロバが立ち止まってしまったらしい。こうなると、なかなか動き出せないので、押してやらないといけない。
クライブと御者はソリを降りて、後ろから力一杯押した。ティナはというと、荷台からロバの首を優しく叩いて応援している。
長く縮れた白毛に覆われたこのロバは、足が太く蹄も平たく、寒さに強い。雪山での暮らしには心強い家畜で、シバの村で多く飼われているのだ。雪ロバはもじゃもじゃの毛の下、つぶらな黒い目をぱちぱちさせ、鼻から白い息を蒸気のように吐いた。
ゆっくりと、再びソリが動き出した。御者の男は急いでソリに飛び乗ると、今度は立ち止まらないように、励ます声をかけながら手綱を取った。クライブは、ロバに悪い気がして、この登り坂が終わるまで押して歩くことにした。
ソリを押しながら、彼は楽しそうに笑っていた。いち早く荷台に戻っていたティナが、そんな彼を見て面白そうに茶化す。
「ねえ、何で笑ってるの?」
「旅の目的地に着くのが楽しみなんだよ。」
それは事実だったが、彼は今この時を楽しんでいた。この旅は、またとない経験をさせてくれた。
「うんうん、楽しいのはいいことだよね。全てを楽しむのが長生きの秘訣だって、おばあちゃんも言ってたし!」
ティナは楽しそうにそう言うと、木箱の上に寝っ転がってしまった。縞模様の長い尻尾を揺らし、鼻歌を歌いながらのんびり空を眺めている。クライブは、なんとも自由な旅の従者に苦笑しつつ、歩くのを楽しんだ。
平原に降りたら、レンデへゆくこのソリと別れて、遺跡平野に入る。いよいよ巡礼の旅の目的地である、真実の滝を目指して進むのだ。そこまでは、もう村も町もない。
真実の滝へ行った後は、帰るまでの間、もう寄り道はしない。巡礼の旅を終えたら、リィネ村へ帰るつもりだ。ただ…。
歩いていると暑くなってきて、クライブは首巻きを少し緩めた。白い息を吐き、一歩ずつ雪を踏みしめる。
その先は、わからない。外の世界は広くて、色んな可能性に満ちていた。彼が思っていたより、ずっと。
リィネ村の中では、魔力を持たない自分は珍しい存在だった。それならば剣の腕を磨こうと、鍛錬を続けてきたのだが、彼が強くなるほどに、大人達は余計に彼が魔力を持たないことを残念がったものだ。
旅の途中、何人かの魔力を持たない人と会った。クライブは驚いたのだが、エスト島全体では別に珍しくもないらしい。彼らは、普通に人々の中で働き暮らしていた。平和なこの島では、周りも、本人も魔力がどうと気にすることの方がまれなのだという。
港町セトでは、島の外から来たと言う船乗りの話を聞いた。エスト島の外にも世界があって、色んな人がいるのだ。それを見てみたい。クライブは、旅をする間にそんな願いを持つようになっていた。
世界はこんなに広いのに、リィネの村人達は、これからも山奥の小さな村で、精霊のほこらを守り、巡礼のしきたりを後世に伝えながら生きていくのか。何のために?
そこまで考えて、クライブはふっと息を着いた。彼はリィネ村を愛していた。それは今も、きっとこれからも変わらないだろう。幼い頃から聞かされてきた勇者リィネの伝説。その子孫であることを誇りに思っている。先祖達が代々伝え、守ってきたしきたりも、村の皆のことも大切に思っている。
それでも。
もしかしたら、自分はリィネ村を、エスト島を出てゆくのかもしれない。旅の空の下、クライブは一人そう思った。




