夜4
それから少しの間、二人は口をつぐんで歩いた。ひたひたと土を踏む自分達の足音がやけに大きく感じる。時折、何かの気配がしないかと振り返っては、暗闇に耳を澄ませた。冷たい通路はしんとして、物音一つしない。しかしサブには、何者かが後をつけてきているような、そんな予感がどうしても拭えないのだった。
シルフールの間で見た、あの、黒いどろっとした塊。サブは誰しも嫌悪したくなるような、あの物体を思い返し、静かに長い息を吐いた。不安と苛立ちに心がざわついている。
サブは、初めてシルフールの間に来た時のことを思い出していた。あの時、蒸せ返る花の匂いに混じって、あれと似た悪臭を感じた。それは、神聖なるシルフールの間において、あろうことか精霊像の足元から湧き上がってきていた…。
不安な気持ちでちらりと振り返った時、壁の彫刻が目に入った。暗闇の中を歩く内、だんだんと目が慣れてきたようだ。ポケットの夜光石の灯りは微かではあったが、なんとか描かれている紋様が見て取れた。
この石造りの通路には、大昔の伝説が掘り込まれている。入り口の方から始まり、闇の到来からその封印まで順を追って描かれているはずだ。
今、傍の壁にあるのは、ちょうど三精霊が魔の山に闇を封印するくだりのようだ。魔の山を中心に、三体の精霊が描かれている。右手には水竜の姿をした水の精霊セイレーネ。上にいる火の精霊イルフリートは角のある獅子の姿をしている。左はコモルを守る風の精霊シルフールだ。翼を広げた大きな鳥の姿をしている。
サブは祈るようにその姿を見つめた。精霊様、どうか我らをお守り下さい。そう祈ってから、砕かれた精霊像を思い返し、胸がぎゅっとなるのだった。
次に、彼は壁の中に剣を掲げた勇者リィネを見つけた。これは見覚えがある。長老の家のタペストリーと同じ絵だ。天から剣を授けられた所だろう。
勇者リィネの傍には、一人のキース族が描かれている。彼が誉高き、勇者の従者だろう。他のキース族よりも背が高く、とんがり帽子を被っている。
彼は勇者と共に闇を封印した後、コモル村を拓いたとされている。精霊のほこらの最初の守り人で、コモルの戦士の祖でもある。その伝説に憧れて、自分は戦士になったのだ。
色々な問題が落ち着いたら、長老に解説してもらいながらこの道を歩きたいものだ。話したがりの長老は、喜んで付き合ってくれるだろう。サブはそう思った。
程なく、道の先に光が見え始めた。白銀の柱のような、細長い光だ。入り口の扉が少し開けたままになっているのだろう。その光は暗闇を通ってきた目に、やけに眩しく感じた。
ひょっとすると、夜明けが近いのかもしれない。そう思って、サブは少しほっとした気持ちになった。隣のパウロも、安堵するように息を吐いているのが聞こえた。
「良かった。もうすぐ外だ。」
パウロがそう言って、サブも頷いた。まだ村までは遠いが、この暗がりを出られたら一旦は安心する気がした。
その時だった。生温い空気がサブの首の後ろを撫でた。
思わず、身体中の毛が逆立つ。暗い通路の奥で、何かがうごめく気配がした。何かが、後ろから来ている!
隣を見ると、パウロもまた身体を硬らせていた。目を開き、顔をひきつらせている。自分も同じような表情をしているのだろう。
ぞろりぞろり。
再び、今度はもっと確かに背後に気配を感じた。気のせいではない。何か近づいてきている!
次の瞬間、二人は走り出していた。痛む身体もいとわず、長い通路の先、白銀の柱を目指して。
一体、何が追いかけてきているのか検討もつかない。ただ、それがよくないものなのは確かだと本能が告げていた。
背後の気配に追い立てられ、彼らは暗い通路を突風のように駆けた。若い戦士の中でも俊足が自慢の二人だが、今日は記録を更新したかもしれない。ずいぶん遠く感じた外の光が、もう目の前にあった。
その、なんと眩しく輝いていることだろう。サブは力一杯に地を蹴り、光の中へ走り出た。勢い余って扉の縁にぶち当たり、草の上に転がり込む。外の空間の眩さに、一瞬視界が真っ白になった。
サブは、安堵する間もなく、もんどりうって起き上がりながら叫んだ。
「パウロ!門を閉めるぞ!」
急いで鉄の扉に取りつく。あの悪いものを、森へ出してはいけない。サブは本能的にそう感じていた。それはキース族の持つ野生的な直感力のようなものだった。
あれは、ここに閉じ込めなければ。力を込めて扉を押そうとして、はっとした。
「パウロ!?」
パウロがいない。
「パウロ!おい、どこだ!?」
顔を回して親友の姿を探すが、見当たらない。一瞬前まで、隣を走っていたはずだ。たった今、扉を出る直前まで。まさか、まだ中にいるのか?どうして?
サブは一瞬迷ったが、扉に手をかけ、闇の中へと踏み入れた。
「パウロ!」
一歩踏み込むと、もう真っ暗で、何も見えなかった。空気が重たく澱んでいる。サブは、焦りと共に暗闇に呼びかけた。早く外に出て、ここを閉じなければいけないのに。あれが、どこまで迫っているかわからないのだ。
そう、得体の知れない、あれ。おれは、あれを知っている気がする。ちりちりと頭の奥が痛む。彼は、そら寒い戦慄を感じながら、思い出していた。
あれと会ったことがある。おそらく、初めて風のほこらを訪れたその時に。
会った、というのは少し違うかもしれない。それは生き物の体をなしていなかったから。それでも、シルフールの間で、あれはおれに話しかけてきたのだ…。
「サブ」
すぐ近くで声がして、びくりとした。パウロの声だ。それでサブは我に帰った。そうだ、考えるのは後だ。とにかく、友人と一緒にここを出なければ。
「パウロ!何やってんだよ!」
呼びかけながら、サブは友人の声の調子に不安を覚えていた。やけに落ち着いた、暗い調子の声じゃないか。
「早く外へ!」
声のした方へ歩み寄り、目を凝らすと、すぐ近くに白毛の友人が立っているのがぼんやりとわかった。
「サブ、先へ行ってくれ。」
押し殺したように低い声で、友人が答えた。その表情は見えないが、サブにはパウロが何かに耐えている様に感じた。
「何言ってんだよ!早くこっちに来いって!」
嫌な予感がして、泣きそうになりながら叫んだ。駄目だ。駄目だ。
「サブ、オイラは…」
そう言って、声が途切れた。はあはあと苦しげな息遣いが聞こえる。
「パウロ?おい、どうしたよ…」
サブは、自分の声が震えているのを感じた。がむしゃらに伸ばした手が、友人の腕に触れる。もう、このまま引っ張って連れて行こう。そう思って、パウロの腕を引き寄せようとした。
しかし次の瞬間、パウロはサブの手をふりほどくと、乱暴に肩を掴んできた。
「うあっ!」
サブは思わず叫んだ。痛い。爪が食い込み、骨がみしりと音を立てる。すごい力だ。
「うう、ぐるるう」
パウロは唸り声を上げた。怒りを押し殺すような、苦しげな声だ。
嫌な臭いがした。目の前に、黒い炎が見えた。暗闇よりも黒く、闇を凝り固めたような何かが立ち上る。闇の中で、その姿がやけにはっきりと見えた。
おれは、あれを知っている。この臭いも、黒い炎も。サブは頭を殴られたような衝撃と共に、思い出した。闇の中でひりつくような怒りを。あの時、シルフールの間で自分を呼んだ声を。
あの時、あれは、おれの義憤に共感し、励まし、鼓舞するようにして…取り憑いたのだ。
「パウロ!頑張れ!負けんな!怒っちゃ駄目だ!」
サブは声を上げて親友に呼びかけた。今、あいつに何が起こっているかわかる。あの時のおれと同じだ。今度はパウロの所へ取り憑こうとしているのだ。
黒い炎に照らされ、パウロの顔が苦悶に歪んでいる。その食いしばった歯の間から、苦しげに息が漏れた。一体、何と声をかければ彼を救えるのか。わからないまま、わめくように叫んだ。
「パウロ!頼む、負けないでくれ!おれは、おれ達はコモルの戦士だろう!」
ふいに、風が吹いたような気がした。ヒト一人分ほど開いた扉の隙間から、微かではあるが、風が吹き込み、澱んだ空気を押しやるのを感じた。コモルの森の匂いがした。
うめき声を上げていたパウロが、ふっと短く強く息を吐いた。そして突然、パウロがサブの身体を持ち上げた。そして、もがく彼を力いっぱい、扉の外に放り出した。
サブは白銀の聖なる光の中に投げ出され、石畳に叩きつけられるように落下した。
「うぐっ」
サブは身体を強く打ち、転がりながら呻いた。何が起こったのかと、くらくらしながら起き上がり、扉の奥の暗がりを見やった。
「サブ!門を閉じろ!」
闇の奥から、パウロのまくしたてるような声が響いた。
「何言ってんだ!おまえもこっちへ!」
混乱したサブは、半狂乱になって手を差し出そうとした。
「駄目だ!」
びくりとした。パウロは闇の中から扉に手をかけ、光の蓋に覗いている。苦しげな表情をした彼のその身に、黒い炎が巻き付いているのを見た。いや、あれは炎なのだろうか。サブは、木を絞め殺すヤドリギの蔦を思い出した。
「わかるだろう!」
パウロは胸元を握りしめ、苦悶の表情で叫んでいる。何かを必死に抑え込んでいるように。
ああ、おれにはわかる。この闇を、出してはいけない。サブは泣きながら、石の扉に掌を押し当てた。それを閉じるために。
ふいに、長老の家に掛かっていたタペストリーの絵柄を思い出した。そこには希望が描かれていたはずだ。かつて、闇を切り裂きこの世を救った勇者。
「伝えてくれ!みんなに…」
パウロが祈るように叫んだ。
「リィネの一族に!」
サブは答える代わりに、門にぶつかるようにして力を込めた。
ゴォンと重たい音と共に、冷たい石の扉が閉じられた。




