夜2
ドーム状の天井から、土の欠片が舞い落ちている。パウロは仰向けに倒れたまま、うめき声を上げた。身体中が痛い。土の味がした。すごい衝撃だった。シルフールの木の根がしっかりと支えていなければ、天井が崩れ落ちていたかもしれない。
身を起こそうとして、咳き込む。肋骨が折れているのかもしれない。痛みにぐっと歯を食いしばって顔を上げる。煙るシルフールの間は、白茶けた土埃に緑の聖なる光が差し、まるで朝もやに包まれた森の中のように幻想的だ。
その空間を汚すように、闇を凝り固めたような黒が見える。部屋の中央、かつて精霊像があった場所に、サブはいた。
四肢を地に踏ん張り、背中を丸めて唸り声を上げている。その身は紫の蒸気に包まれ、背中からは黒い炎が立ち上っている。炎は今や彼の姿が霞んでしまうほどに濃く、それ自体が意思を持っているかのように、ゆらゆらと怪しく揺らいで見えた。
彼は四足歩行のまま、のそりと一歩進み出た。ざわりとパウロの毛が逆立った。殺される、そう直感したのだ。
もがくように手を動かし、大ブーメランがないのに気づいた。なんとかうつ伏せに起き上がり、それが壁の側に落ちているのを見つけた。パウロは苦しげに息を吐く。ああ、遠すぎる。
サブはもう目の前まで迫っている。荒い息と共に紫の蒸気を吐き出している。悪臭が鼻をついた。まるで死の臭いのようで、パウロは今さらながら、焦りと怖れに身体が震えるのを感じた。
どろどろと渦巻く蒸気と炎の中、今や彼の表情は読み取れない。しかしその奥で異様なほど輝く瞳が、確かな殺意を告げる。憎しみをたたえて、闇の向こうから、こちらを見つめている。
パウロは、親しんだ友人の顔を思い出し、顔を歪めた。短気で怒りっぽくて、でもいい奴だった。こんなどす黒い感情を出すやつじゃなかった。
サブはどうなってしまうんだろう。あの異形のモリカマキリのような化け物になってしまうのだろうか。もう元には戻れないのか。そうでなくても、もし自分がこのまま殺されてしまったら…。
涙が溢れた。そうなったら、サブはもう村へは帰れない。化け物として討伐されることになるだろう。あれがサブだとわかるヒトもいないかもしれない。
そんなのは嫌だ。でも、このままでは殺されてしまう。今からでも、逃げるべきなのか。
ざり、とまた一歩サブが近づく。パウロは混乱したままに立ちあがろうとして失敗し、這いつくばるように倒れ込んだ。その時、指先が何かに触れたのに気づいた。
杉婆のくれた木片だった。腰に結びつけておいたはずだが、先の衝撃で紐が千切れたのだろうか。パウロの目の前に落ちていたのだ。キース族の掌より少し大きい、平べったい杉の木のかけら。しかしパウロは、思わずそれを強く握りしめた。
ーコモルの戦士に、風の精霊の加護をー
杉婆の声が聞こえた気がした。手のひらがほのかに暖かくなる。心に風が吹き抜けた心地がして、不思議と気持ちが落ち着いた。立ち上がれそうだ。
足に力を込めると、危なげなく立ち上がることができた。木片を握りしめたまま、相手を真っ直ぐに見た。
サブが咆哮と上げて地を蹴った。突進するように距離を詰めると、両手を広げ、飛びかかってきた。
パウロは頭と左肩を鷲掴みにされ、壁に押し付けるようにして叩きつけられた。爪が食い込んだ箇所に、鋭い痛みが走る。サブが大口を開けた。喉元に喰らい付こうとしているのだ。鋭い歯が生え揃った口の奥に、チラチラと黒い炎が燃えるのが見えた。一段と強い悪臭がした。
その瞬間、パウロの心に怒りの火が散った。このまま親友を、コモルの戦士の誇りを奪われてなるものか。杉婆の木片を振り上げた。そして、自身の喉に牙が届く一瞬前に、サブの口の中に木片を突き立てたのだ。
ぐぎゃあああおおおお!
怒号とも悲鳴ともつかぬ叫びが耳をつんざいた。頭ががんがんする。腕に鋭い痛みが走る。キース族の犬歯は鋭く、奥向きに生えている。今引いたら、腕が千切れてしまうだろう。
「うおおお!」
パウロは雄叫びを上げ、力いっぱいに相手の喉の奥へ手を突っ込んだ。
ぐばあああああ!
サブが苦しげな叫びを上げた。彼は両腕を振り回して暴れ、横面を殴られたパウロは吹き飛ばされてしまった。
地面を転がって、なんとか起き上がる。目の前がチカチカする。パウロはまず、自分の腕がまだ付いていることを確認し、安堵した。サブが暴れた際に大きく口を開けたので、千切れずに済んだようだ。
次に、木片がないことに気づいた。見やると、サブはうつ伏せに地面に手を着き、苦しそうな表情を浮かべていた。木片が喉に刺さっているのだろうか、咳き込みながらえづいている。口の端から、黒いよだれがしたたっていた。
パウロはよろよろと立ち上がった。まだ終わっていない。今のうちに、なんとかして親友を捕まえなければ。
強い魔力を用いるには言の葉と、かなりの集中力を要する。かなり満身創痍だが、やるしかない。手のひらで顔を叩き、気合いを入れた。先程サブに殴られた頬がじんじんした。
その時だった。ごぼごぼとサブの口の端から黒いよだれが溢れた。苦悶の表情を浮かべ、喉が膨らむ。
直後、聞くに耐えない音と共に、サブが嘔吐した。キース族の頭ほどもある、黒い塊を吐き戻した。
「うわっ」
パウロは、思わず後ずさって顔をしかめた。すごく汚い。それに恐ろしく臭い。これが、いやな臭いの元だったのだろうか。先程より何倍も強い悪臭がした。鼻の奥がじーんとする。これは一体何だ?顔をしかめ、鼻を覆いながら見る。泥のようにも見えるが、紫の蒸気が吹き出しているせいでよくわからない。
困惑したまま数秒、黒い塊を見つめて固まっていたパウロだが、程なく、黒い塊の傍にサブが倒れているのに気付いた。
「サブ!」
思わず親友の名を呼ぶ。彼の身体からは、もう紫の蒸気も、黒い炎も上がっていない。
慎重に近付いて、そっと背中に触れてみる。息をしている。近くで見ても、再びあの禍々しいものが身体から湧き上がる様子はない。
パウロは、安堵と期待に胸が高鳴った。きっと、さっき吐いた塊が原因だったのだ。サブが助かるかもしれない。
「サブ!大丈夫か!?」
パウロはサブを抱き抱えると、引きずるようにして黒い塊から引き離した。あれが何かはわからないが、良くないものなのは確かだ。触らない方がいいだろう。
「う、う…。」
サブがうめき声を上げる。そしてゆっくりと目を開けると、パウロの顔を見た。
「パウロ?おれは…。」
思わず笑みが溢れた。彼はぼんやりとして、若干焦点の定まらない瞳をしているが、水色に光ったりはしていない。何より、名前を呼んでくれたことが嬉しかった。オイラのことがわかるんだ。
「良かった。もう大丈夫だな。良かったよ。」
パウロは涙目で頷きながら、親友に笑いかけた。サブは、何のことかわからないといった様子で、困惑気味に辺りを見回した。
「何言ってんだよ。なんで怪我してるんだ?それに、ここは…ほこらか?」
どうやら、今夜のことをよく覚えていないらしい。
「とにかく、ここから離れよう。歩きながら話すよ。立てるか?」
チラリと黒い塊を見やった。それはぶすぶすと嫌な音を立てて、紫の蒸気を吹き出し続けている。気分の悪くなる悪臭も一緒だ。
サブは、肩を貸して、やっと歩けるようだった。パウロもまた満身創痍だったが、ともかく村まで帰らなければならない。あの黒い塊の隣で休むなんて、ごめんこうむる。
少なくとも、杉婆の所まで辿り着ければ、休む場所があるのだ。あともう少しだ。
「行こう。みんなが待ってる。」
二人は、痛む身体を引きずってほこらの出口へと歩き出した。




