友2
コモルの森は、歳を経た木々の多い歴史ある森だが、中でも南東の森はとりわけ古い森だ。その植生は豊かだが、土地の起伏が激しく、絡まりあった茂みに埋もれて崖になっているような危険な場所も多い。ヒトが立ち入ることは少なく、草木が所狭しと生い茂っている。
その森の川辺で、一人の老婆が月を眺めていた。大きな柳の木の根本に腰掛け、長いパイプから煙をくゆらせている。足元をゆったりと流れる黒い水面に、月明かりがたゆたうように映し出されていた。
老婆といっても、背も耳もピンと立っており、痩せて皺の寄った頬と、白髪がちで薄くなった体毛だけが老いを感じさせる。
月明かりを映して光る瞳は、右目が金色、左目が青色をしている。ミーア族でこの瞳を持つ者は、魔法や占いの技に長けると言われており、老婆もまた、占い師らしい薄紫のローブを身につけていた。
彼女はぷかりと煙を吐くと、長い尻尾を器用に使って柳の枝を引き寄せ、葉を一枚手に取った。それを品定めするように指で弄んでから、そっと水面に落とす。柳の葉は水面を滑るように流れ始めたが、比較的流れの緩やかな場所でゆるゆると回った後、沈んで見えなくなってしまった。
その様子を考え込むように見つめていた老婆だが、ふと耳をピンと立てると、振り返った。そして旧知の人物を見つけ、嬉しそうに笑った。
「おや、シロ坊じゃないか。今夜はいい満月だねえ。」
「その、シロ坊ってのやめてくれよ。こんなおっさんに向かってさ。」
苦笑しながら肩をすくめたのは、白毛のキース族の戦士だ。右目に包帯を巻き、背中にはブーメランを背負っている。耳に赤い羽飾りをつけていた。
「そうかい。あたしにしたら、まだ若造に見えるがねぇ。」
老婆はカラカラと愉快そうに笑い、手をパタパタと振った。痩せた手首で、木のビーズを繋げた腕輪がしゃらりと鳴った。
「ライカ婆さんにとっちゃ、大抵のやつは若造だろ。」
「アハハ違いないね!まあ、座りなよ。」
ライカと呼ばれた老婆は、また笑い声を上げる。キッツは招かれるままにその隣に腰掛けると、傍の木を見上げた。
それは立派な柳で、ねじ曲がった幹は太く、こぶだらけだ。半ばには大きなうろがぽっかりと空いている。一見いびつに見えるが、月明かりの中で灰色に輝くその木は不思議と美しくも感じた。柳は何本もの枝を川辺に垂らしていて、そのカーテンの下の暗がりに二人は座っているのだった。
「柳爺さんの調子はどうだい?」
キッツが問うと、ざわり。と枝垂れた枝が騒いだ。
ーわしの調子だと。そのようなことを訊ねに、わざわざ来たというのか。他にすることがあるだろうが。馬鹿者め。
ざわざわと苛立たしそうな、低くしわがれた声が響き、キッツは再び苦笑して頭をかいた。その隣で、ライカ婆さんはのんびりと煙をくゆらせている。
「どうも、良くなさそうだねぇ。近頃、あちこちで草木が痩せ、枯れていってる。風の止んだ日からは特にね。昔から、ここら一帯の植物は強すぎて、あたし達獣人族ですら切り開くのを諦めたってのに。」
ライカがふうと息を吐いた。煙が柳の枝の間を通り抜け、夜空へと消えてゆく。キッツはその行方を目で追いながら、一つ息をついた。
「この辺が落ち着いて見えるのは、柳爺さんのおかげか。杉婆といい、森の守護者たる老木達には頭が下がる。でも、無理はすんなよ。」
その言葉に、柳の枝が抗議するようにざわざわとかしいだ。
ーならば、早くなんとかするが良い、キース族の戦士よ。風はいつ戻るのだ。
「おや、柳爺さんずいぶん怒ってるね。なんて言ってるんだい?」
ライカが金の右目を大きく開けて言った。その口調は、どことなく楽しんでいるようにも聞こえる。本人に言わせると、全てを楽しむことが長生きの秘訣なのだそうだ。
キース族とミーア族は、太古の昔、共に森で暮らす同じ種族であったらしい。ある時、ミーア族の祖達は森を出て、荒野を旅する流浪の民となったのだという。
ミーア族の中にも、まれに森の声が聞こえる者がいる。しかし森で長く暮らし、魔法の技に長けるライカでさえ、はっきりと聞き取ることは難しい。
今では森に定住しているミーア族も多いが、太古より森の民であり続けたキース族だけが、真に木々の声を聞くことが出来るのだ。ただ、長き平和の間に、その能力も少しずつ薄れつつあるらしい。
「早くなんとかしろってさ。まったく、無茶言うぜ。」
キッツがぼやくと、再び柳爺さんがざわざわと悪態を吐いた。枝の先が水面を打ち、ぴちゃぴちゃと音を立てる。
ー何を呑気なことを。いくら数千年を生きたわしの気が長いといえども、此度ばかりはそう長く持つまいぞ。
「ああ。なんとかする…と言いたいけどな。どうやら、今回の異変はこの森だけの問題じゃないらしい。」
ーわかりきったことを。川の水が淀んでいる。リィネ村で何かあったのは明白だろう。
そう言われて、キッツは水面に目をやった。水の精霊の泉を源流とし、あらゆる命に恵みを運び流れるこの川は、彼の目には今も濁りないように見える。だが柳爺さんには何かが感じられたのだろう。
ー以前は、多くのコモルの戦士がわしの元を訪れ、助言を乞うたものよ。それがどうだ。今やこの声すら聞こえぬ者ばかり。なんと軟弱なことか!
柳爺さんは、我慢ならないといった様子で枝を振り回し、悪態を吐き続けている。その下ではライカが、こりゃ怒ってるねと笑い声を上げて火に油を注いでいる。キッツは呆れて、ため息をついた。子供みたいな年寄り達だ。
彼は少しの間それを静観していたが、ふと思い出したように言った。
「そうだ、今日パウロのやつが杉婆の声を聞いた。ほら、おれの息子だよ。」
「おお、それはめでたいねぇ!こないだ産まれたばかりと思ってたけど、早いもんだね。」
老婆は興味深そうに身を乗り出すと、金と青の瞳を少女のように輝かせた。そして、彼女もまた思い出したように指を立てて言った。
「そういや、昼間に来た黒い戦士の坊やも見込みがありそうだったよ。柳爺さんの声は聞こえなかったようだけどね。あたしに、この森の未来について占ってくれと言いに来たのさ。」
キッツはへえ、と頷いた。恐らくサブのことだろう。昨日のことを気にかけているのか。真面目なあいつらしい。
ーあの黒い小僧は駄目だ。柔軟性が足りん。怒ってばかりで周りが見えとらん。
被せるようにして、柳爺さんがざわざわと駄目出しをする。キッツは、お前が言うなよ、と思ったが言わないでおくことにした。また怒らせては面倒だ。代わりに、ライカに話の続きを促す。
「それで、占ってやったのか?」
「まあね。でも、あたしは未来なんて大それたことを占いやしないよ。」
ライカはパイプを咥えて大きく息を吸うと、水面に向かってふーっと長く煙を吐いた。吐ききってから、川の方へ腕を突き出し、手のひらをくるくると回す。すると不思議なことに、煙は水面の上を辿るようにして渦を巻き始めた。
「夜の足音が迫っている。まだ遠いけど、確実にね。それは、どこからやってくると思う?そう聞き返してやった。そしたらあの子、神妙な顔をして帰って行ったよ。」
ライカが手を広げて腕を振ると、渦巻いていた煙は広がり、立ち上っていった。それが薄れて見えなくなるまで、二人は黙って闇夜を見つめていた。静かな夜にさらさらと流れる水音だけが響く。
「あの坊や、気をつけてやった方がいい。光に照らされたものの裏には、影が落ちるのがこの世の理だからね。」
「わかった。」
曖昧な言い方だったが、キッツはただ頷き、立ち上がった。ライカが、占いの結果をこのように話すのはいつものことだ。詳しく聞いたところで、具体的な答えが帰ってきた試しがない。
「おやすみ、シロ坊。」
そのまま夜の中へと歩き出す戦士の背中に、ライカ婆さんが声をかける。
「おやすみ、婆さん。また来るよ。」
去り際に、彼は小さな包みを投げて寄越した。開けてみると、パンが二つと、ビスケットが少し入っている。一陣の風が吹き抜けた。老婆が顔を上げた時、白い戦士はもうそこにいなかった。
彼女は笑みを浮かべ、パイプを傾けると、湿った土の上に灰を落とした。貰った包みを大事に抱え、柳爺さんのうろの中によじ登る。柳の枝に遮られた影の中の、さらにうろの中はもう真っ暗闇だ。その闇に身を預けて目を閉じると、水音がだんだんと遠くなるように感じた。そうして、ライカは心地よい夜の中に沈み込むようにしてまどろみ、眠りに落ちていったのだった。
一方その頃、パウロは夜の森を走っていた。巨木の森の、高い木々の下の暗闇を、何度も蹴つまずきながら進む。空気はじっとりと重たく、まとわりつくようだ。
また一段と、風のない夜だった。月明かりも届かない夜の森は、風と匂いが頼りなのに。思い切り走れないのがもどかしい。松明でも持って来ればよかった。
闇の向こうへと、サブの臭いが続いている。やはり、風のほこらへ向かっているようだ。一体、どういうつもりなんだ。闇の中で最大限急いで進みながら、パウロは苛立ちを覚えていた。明日、一緒に行こうって約束したのに。不安と焦りと失望が入り混じり、パウロはつい泣きそうになって立ち止まった。
その時、ふわりと微かな風が吹いた。顔を上げると、頭上のはるか高みで、葉の隙間に星々がきらめいているのが見える。サラサラと優しい音が、パウロの心を慰めた。
いつの間にか、杉婆の所まで来ていた。その幹に触れると暖かくて、不思議と勇気づけられるように感じる。
ーあの子を助けに行くんだね。
葉擦れの音が、優しい響きとなってパウロの胸に届く。少年は肩で息をしながら、高い梢を見上げた。
「杉婆、サブがどっか行っちゃったんだよ。あいつ…、あいつは助けが必要なのか?オイラに助けてあげられる?」
切実な思いをはらんだ少年の問いは、夜の中に、思いの外大きく響いた。
ーあの子に起こっていることは、森の異変と無関係ではないよ。ただ、あたしにも、あの子や森がこれからどうなるかはわからないのさ。助けられるのかどうかも。
パウロは鼻をすすって、手のひらを握りしめた。サブと、森の異変が無関係じゃないだって?やっぱり、長老や誰かの助けを借りるべきだったのだろうか。
彼は重ねて杉婆に質問しようとして、思いついた。そうだ、すぐそこに父の小屋があるじゃないか。とうちゃんに話そう。
しかし、小屋を覗いても父はいなかった。今日はあれから戻っていないようだ。臭いが薄い。パウロは、がっかりして肩を落とした。こんな夜中に、どこへ行ったのだろう。
彼はそのまま、しばらく簡素な小屋の入り口に立ち尽くしていた。そして、ふうと息を吐くと、落ち込む心を奮い立たせるように、ぱんぱんと自分の太ももを叩いた。
サブに何かがあったのは間違いない。そして、助けが必要なことも。だったら、今やることは一つだ。パウロは杉婆の元に戻ると、その幹に触れて言った。
「杉婆、サブは風のほこらに行ったんだと思う。オイラ、追いかけるよ。とうちゃんが戻ってきたら、そう伝えてくれないか?」
すると、返事の代わりに、少年の足元にポトリと何かが落ちてきた。拾い上げたそれは、手の平に収まる程の木片だった。すべすべしていて、硬い。
ーお守りに持ってお行き。これくらいしか出来なくて、すまないね。あたしの皮を使って、ひもにすると良いよ。
パウロは頷くと、言われた通りに木の皮を細く剥がして、木片を腰に結びつけた。
ー優しいあんたに、良い風が吹きますように。
「杉婆にもね。…ありがとう。」
パウロは少し笑みを浮かべ、風のほこらへと続く暗闇へと向き直った。杉婆に貰ったお守りを強く握りしめる。行かなければ。オイラの友達を助ける為に。彼は、一つ深呼吸すると、顔を上げ、再び闇夜へと飛び込んで行った。
ー精霊様、どうか風の子らにご加護を…
気づかうような葉擦れのささやきが、若い戦士の背中を送り出した。




