エピローグ
エールは少しの間、座り込んで呼吸を整えていた。まだドキドキしている。魔法剣を打った時に感じた、水の迸るような感覚が手に残っているようだ。ふと目を落とし、水呼の剣を抜き身のまま持っていたことに気づいた。闘いの後でもその刃は曇り一つなく、表面は水気を帯びたように艶やかだ。
つい、手入れが楽そうだな、なんて考えてしまい、ふっと笑った。こんなこと言ったらアスカに怒られるだろうな。
この剣には助けられた。今度会ったら、アスカにお礼を言わないと。エールはそっと確かめるように水呼の剣の表面を撫でると、鞘に収めた。
火照った頬を、冷たい空気が優しく撫でる。少し風が出てきたようだ。ひゅうひゅうと草笛のような音が聞こえてきた。この辺りの岩は形が変わっていて、風が通る時に草笛のような音を立てる。草笛峠という名前の由来だ。
空を仰ぐと、青い空に薄くかかった雲が、たなびくようにして形を変えながら流れて行くのが見えた。そこで気がついた。霧が晴れているのだ。
少女は眩しそうに目を細めた。むせ返るような霧の灰色の中を歩いたのはほんの半日だけだったのだが、久しぶりに青空を見たかのような気がする。
にわかに元気が出てきて、エールは立ち上がった。休んでいる間に体が冷えてしまった。そろそろ歩いて暖まりたい。
少女は周りを見渡そうと目線を道へと戻し、ぎくりとした。目の前に、けむくじゃらの棒状のものが転がっているのを見つけたのだ。先の戦いで切り落としたヤヌーの前足だった。それは太く硬く、ゴワゴワした茶色い毛に覆われていて、二つに割れた蹄は鉄のようだ。しかし、霧の中で見た時より小さく思えた。
つい先程まで対峙していた、あの大きな獣を思い返す。瞳のない落ち窪んだ目と、怒りと憎しみを伴った殺意。エールはそれに泉の魔物と同じものを感じたのだった。
村長が言っていたことを思い出す。魔物は、闇の世界から来たとも、魔が生き物に取り憑き、異形の姿になったとも言われていると。
あのヤヌーも、魔に取り憑かれてしまったのだろうか。もしかすると、放っておいたら異形の姿になっていたのかもしれない。泉の魔物のように…。
エールは考えを振り払うように首を振って、立ち上がった。ともかく、今は一刻も早くコモルの村へ辿りつかなくては。顔を上げると、道の先にはためく目印の赤い旗が、少女の心を励ました。エールはケロッグフードを脱いで、ぐるぐる丸めて荷物袋に突っ込むと、元気良く歩き出したのだった。
峠の道は傾斜は緩やかだが、植物はほとんどなく、見えるものはごつごつした岩ばかりだ。湿った峠の地面を陽の光が暖め、岩肌はうっすらと湯気に揺らいでいる。
硬い地面からは所々岩が露出しており、濡れて滑りやすくなっていた。エールは転ばないようにしっかり足を踏みしめながら、息を弾ませ歩いた。湿った体を柔らかな日差しがじんわりと温める。こんな道を、ボボはどうやって荷馬車を引いていくのだろう?
少し歩いた頃、旗の棒の部分に、九号目と記してあるのを見つけ、エールはまた嬉しくなった。霧の中の行軍でも思ったより進んでいたらしい。なんとか陽のある内に峠を越せそうだ。少女は足を早めた。夜を迎えてもう一度ヤヌーに遭遇するなど、考えたくもない。
それから短い吊り橋を三つほど渡り、少し歩くと、ごつごつした大岩に行き当たった。それはボボより少し大きいかと思うほどの岩で、その上に古びた赤い旗が鉄の杭で打ち付けられている。道中のものと違い、棒の部分も鉄で作られているようだ。その岩をぐるりと向こう側へ回り込むと、西へと下る道が伸びていた。山頂に着いたのだ。
エールは大きく息をつき、再び空を見上げた。先の霧は嘘だったかのよに消え失せ、晴れ渡る空を遮るものはない。少しだけ、眺めを楽しんで行こう。岩の上に登れば、ちょうど良い見晴台になりそうだった。
エールは岩に手をついて、地面を蹴ると軽快に駆け上がった。登り切ってから旗の棒を掴んだが、思ったよりぐらぐらしていて慌てて手を離した。見ると、土台まで錆だらけになっている。そろそろ取り替えた方が良さそうだ。
膝の泥を払い、東へと目をやる。エールは感嘆のため息をついた。こんな高い場所からの景色は初めてだ。標高としてはセイレーンの山の方が高いのだが、あちらは年中木々が繁っているので、遠くまで見渡すことは出来ないのだ。
はるか眼下にはリィネ川が銀の糸のように流れている。それを辿った先にリィネ村が小さく見えた。小石を並べたような畑の縁の石垣。開けた草地にはヤギ達が遊んでいるはずだが、ここから見てとることは出来なかった。
エールは以前、レンデからの行商人が来たときに見せてもらった箱庭を思い出した。子供の頃は、木細工に色を塗ったあの箱が宝石箱のように思えたものだ。今、リィネの村は同じくらい可愛らしく見える。
村の家々の中に自宅を探してみる。程なく、エールは家々の中の一つの点に検討をつけた。赤い丸い屋根の我が家は、宝石の粒の一つようだ。目線を上げると、リィネ村の向こうにセイレーンの山が青く霞んで見える。
一通り楽しんだ後、そろそろ降りようと足元を見て、後ろに岩を荒く削って作った階段があるのに気付いた。この大岩は、そもそも見晴らし台であったらしい。エールはぺろりと舌を出した。わざわざ反対側からよじ登ってしまった。
エールは今一度リィネ村に目を向けた。つい昨日まであの場所で寝起きしていたというのに、不思議な感じがする。箱庭と違い、あの村は今いるこの場所と繋がっているのだ。そして、それはこの先の道へもずっと。
再び歩き出せば、しばらくリィネ村を見ることはないだろう。エールは剣の柄に手をやり、ぎゅっと握りしめた。やるべき事をやって、私は必ずあの場所に帰ろう。
踵を返し、西へと下る道へ入る。もう振り返らない。今ならば、水の精霊セイレーネの呼び声も聞こえるような気がした。たとえリィネの地を離れたとしても。世界はどこでも魔力に満ちているのだから。水呼の剣が、少女の心を映したかのようにキラリと輝いた。
草笛峠の西側は、東側と違って土は柔らかく、草木も多い。芽吹いたばかりの新緑の林を、夕陽が黄色く染めている。
木々の間の細い道を、栗毛の少女が足早に歩いてきた。峠越えをしてきたのだろう。剣を携え、肩に青い布をかけた彼女は、足を止めることなく森の方へと歩いてゆく。程なく少女は、コモルの森へ、暗い木立の下へと入って行った。その様子を見ている人物がいた。
その者は漆黒のマントに身を包んでいた。背中には長剣を背負っている。黒鉄の兜を被り、深く下ろした面甲の奥では瞳がらんらんと輝いていた。その視線は、栗毛の少女が消えた森の入り口へと注がれている。
西風が吹いた。分厚いマントがはためく。腰に下げた片手剣の、その柄を黒い革の手袋がぎりりと強く握りしめている。
間も無く夕陽は世界の淵の彼方へと没し、剣士の長く伸びる影が、夕闇に溶けるように薄れていく。夜がやってくるのだ。
その者はマントを翻して踵を返した。街道を外れ、暗がりの中へと歩き出す。黒い首巻きを引き上げ、黒の剣士がぽつりと呟いた。
「夜の足音は、まだ聞こえない…。」




