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LAST LORD  作者: トミ
第一章 旅立ち
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旅立ち4

 峠の道には所々、赤い布が結び付けられた木の杭が道しるべに立てられている。エールはそれを見つける度に安堵しては、時折通り過ぎる亡霊のような木立や岩の影にどきりとした。

 標高の低い内は、足を踏み外すような場所はないはずだ。高く登る頃には、もう昼だ。きっとこの霧も晴れるだろう。少女はそれでも慎重に足を運んだ。峠越えは初めてなのだ。道を外れることだけは避けなければならない。

 だが期待とは裏腹に、登るにつれ霧はどんどん濃くなっていくようだった。この辺りまで来ると、道が崖の上になっている場所もある。足元を確かめながらゆっくりと進まねばならず、エールは苛立ちを覚えた。おまけに、振り返ってもどれくらい進んだかわからないのだ。

 ケロッグフードのお陰で全身びしょ濡れは免れていたが、それでも膝から下は湿ってしまっていた。フードの淵から覗く栗色の髪はすっかり濡れてしまい、ぽたぽたと落ちる雫がうっとうしい。エールは柄にもなくため息をついた。視界の悪い山道がこんなに疲れるとは知らなかった。そんな折、道の脇に腰を下せそうな岩を見つけたので、休憩を取ることにした。

 エールは岩に腰掛け、乳白色の空を見上げた。今太陽はどの辺りにあるのだろう。ずいぶん長く歩いた気がするが、じき山頂だろうか。それとも、まだ中腹にも達していないのか。霧のせいで時刻と場所がはっきりしないのがもどかしい。

 濡れた髪が頬にまとわりついて邪魔なので、麻の紐を取り出して後ろに縛った。エールは軽い癖毛で、襟足の部分がぴょこんと跳ねっかえっている。結ぶとヤギの尻尾みたいになってしまうのが嫌で、普段は滅多に髪を結ばないのだ。

 水筒を取り出してお茶を飲むと、すっかり冷めてしまっていた。お腹も空いてきているし、もう昼近いのだろう。エールは食事を取ることにして、食料の袋から適当な包みを取った。開くと中身は干した果物で、表面に砂糖がまぶしてあった。口に入れ、その甘さに目を開く。ほのかな酸味と相まって、とても美味しい。夢中でかぶりついて、あっという間に一包み平らげてしまった。体が温まり、元気が出てきたような気がする。

 顔を上げると、相変わらず白の世界が広がっていた。風はほとんどなく、まとわりつくような霧はわずかな濃淡をつけながらゆっくりと流れていく。じっとしていると、まるで世界にたった一人取り残されたようにも思えた。

 ここに来て霧の濃さはいや増し、もはや数歩先も見えないほどになっていた。旅人は困り果ててしまった。この霧で先へ進むのは危険すぎる。かといって、このまま待っていて霧が晴れるだろうか?夜を迎えてなお霧が晴れなかったら?今のうちに引き返すべきだろうか…。

 どの選択肢も、はっきり言って好ましくなかった。だが決断しなければならない。エールはうな垂れたまま、しばらくの間考え込んでいた。

 空の包みの上に、顎を伝った水滴がぽたりと落ちた。手の甲で顔を拭い、その腕を前に突き出してみる。エールは今、自分の指先が霞んで見えるほどの濃い霧の中にいるのだ。

 山小屋まで引き返そう。不本意ながらそう決めて、腰を浮かしかけたその時だった。聞いたことのない音が聞こえてきたのだ。

 すとんっ…すとんっ…と、断続的に聞こえるその音は、だんだん近付いてくるようだ。エールは体を強張らせ、耳をすませた。どうやら音の主は、峠の上の方から道を通って来るようだった。エールはそっと立ち上がると、手探りで道の端まで移動した。ひょっとすると、村長に聞いたヤヌーの足音ではないかと思ったのだ。

 音がだんだんと近づき、大きくなってきた。今や、どすんっどすんっと地面から振動を感じるほどだ。姿勢を低くして息を潜める。その音がいよいよ近くなったとき、エールはそこに何か大きな生き物がいることに気付いた。霧に阻まれてはっきりと見えないが、エールの丈よりずっと大きな何かが、目の前にいる。

 もう間違いないだろう。これはヤヌーだ。話に聞くだけで見たことはなかったが、これほど大きいのか。皆が鉢合わせるのを恐れるのも頷けると思った。村長に聞いた話が確かならば、毛の長い大きな雄鹿のような姿をしているはずだ。

 だが人を襲う動物ではないと聞くし、それにこの霧だ。静かにしていれば気づかれもしないだろう。それでも、もう少し道の脇に寄ろうと後ずさった時、踏み出した足元が崩れた。知らず知らずに崖際に来てしまっていたらしい。慌てて足を引き戻して地面にしがみつき、済んでのところで落ちずに踏みとどまることができた。背後では、踏み抜いた石がガラガラと音を立てて落ちていく。

 必死で平らな所までよじ登り、立ち上がる。背後の崖下で、落ちた小石の最後の一つが音を立て、静かになった。エールはほっと息をついたが、それもつかの間、今度はどきりとした。ヤヌーの足音が止まっている。


ぶふぉうぅっ!


 エールは心臓が飛び出るかと思った。頭の真上で荒い息の音が聞こえたのだ。顔に生温い空気がかかる。手で触れるくらいの距離まで、ヤヌーが迫っていた。霧に阻まれてなお、確かな質量を感じる。ふと、頭上の呼吸が遠のいた感覚がした。霧の中の影が、塔のようにゆらりと持ち上がる。

 首の後ろがざわりとした。びゅんと空気を切る音が聞こえ、直感で地を蹴る。ほぼ転ぶようにして前に飛び出した直後、ズドンと音がして、すぐ後ろで湿った土が飛び散るのを感じた。ヤヌーが、その前足を槌のように振り下ろしたのだ。

 手をついた拍子に、何かに頭をぶつけた。見ると、エールの頭ほどもある太さの、毛むくじゃらの柱があった。下には鹿のような蹄がついている。ヤヌーの後ろ足だ。エールはたった今、巨大な獣の体の下にうつ伏せているのだった。少女は戦慄した。この蹄で踏み抜かれたら、命はないだろう。

 ざりり、と地面を擦る音がした。茶色い剛毛の下の筋肉に力が入り、蹄が濡れた地面に食い込む。エールは慌てて横に転がった。再び空気を裂く音がして、硬いものが後ろ髪を掠めていく。髪を結んでいた紐が解け、濡れた髪と泥とが頬に貼りついた。それを拭う間も無く、もがくように立ち上がる。掠っただけなのに、頭がじいんとする。当たらなくて本当によかった。

 聞いた話と違うと、エールは思わず村長を責めたくなった。霧が出ているとはいえ今は真昼だし、どう考えてもこのヤヌーは積極的に襲ってきている。だが、まずはこの場から生還しなくては。

 エールは先ほど落ちそうになった崖と反対の方へじりじりと移動し、距離を取った。少し離れただけでも、獣の姿は霧の中に沈み、はっきりと見えなくなってしまう。

 この霧に紛れて逃げることも考えたが、どこに崖があるかわからないこの状況では、現実的ではないと思えた。

 エールは決心して手を掲げると、ヤヌーの方へ見当をつけてサパを放った。水球が弾ける音が響く。しかし獣の影はわずかによろめいただけで、全く効いていないように見える。ただサパを打っただけではダメージにならなそうだ。

 サプワルを使って怯ませることも考えたが、あの技は打つ場所がはっきり見えていないと失敗することが多く、難しい。そうでなくても集中力を必要とする技なのだ。当てずっぽうに連発するのは命取りと思えた。

 荒い呼吸と、足を踏みかえているような音が聞こえる。こちらに向き直ったのだろうか、確かな視線を感じた。どうやら、逃してはくれないようだ。

 エールはもう一度、今度はもう少し強くサパを放とうと集中した。だがその刹那、ヤヌーがその平たく枝分かれした角を斜めに振り上げたのに気付き、慌てて後ろに跳んだ。済んでのところで身をかわしたが、ぶうんと重い風圧に押されるようにして数歩後ずさる。エールは目を見開き、はあはあと口で息をした。思わずジャンプして避けたが、背後が崖でなくて本当に良かった。あまり跳び回るのは危険だ。

 巨体から繰り出される一撃は大振りだが、それ故にリーチは長く、咄嗟に避けるのもギリギリだ。うっかり当たれば致命傷になるだろう。エールはなんとも攻めあぐねていた。霧の中で、相手の動きが見えにくいのがなんとも恐ろしい。だが、このまま防戦を続けても、やがて踏み潰されるか崖から落ちてしまうだろう。

 霧の中、巨体の影が再びゆらりと動いた。ヤヌーはぶふー、ぶふーと荒い息を上げている。ガリガリと響いているのは、前足で地面を掻いている音だろうか。あまり考えたくはないことだが、ズガンゴートが突進の前によくしている行動である。

 打開策を思いつかないまま剣を抜いたその時、ドドッと重く地面を蹴る音が聞こえた。

エールは咄嗟に剣を構え、目の前に水球を作り出した。

 ごうっと音がした。ヤヌーが角を低く下げ、突っ込んで来たのだ。それに対し、水球を斜めにぶつける。突進の勢いは殺しきれなかったが、僅かに逸らすことは出来たようで、角の付いた頭が持ち上がった。その首元に向けて、エールはすれ違いざまに剣を水平に振り抜いた。


「っ!!」


 狙いは良かったのだが、獣に傷を負わせることは出来はなかった。霧に濡れた厚い毛皮で、刃が滑ったのだ。

 飛び散った水滴が、少女と獣とに降り注ぐ。背後でドドッという音がした。ついで、荒く息を吐きながら足をふみ鳴らす音がする。エールは顔を歪ませた。またとないチャンスだったのに、しくじってしまった。あのまま崖に落ちてくれることも期待していたのだが、そううまくはいかないようだ。

 ヤヌーがいる方向へ剣を構えながら、エールは息を整えた。次の攻撃に備えなければ。さっきは角に当たらなくて良かった。枝分かれし広がった角の先は鋭くて、皮の装備など簡単に裂けてしまいそうだ…。

 その時、ふとエールの頭に閃くものがあった。ヤヌーの巨体は霧に沈み、ここからは頭上にある角など見て取ることは出来ない。それなのに、突進の前の攻撃を自分は何故避けれたのだろう?あの時はヤヌーが角を振りあげた瞬間、その全容がはっきり見えたような気がした。その後も、突進の際にサパを放とうと集中した時に…。

 エールは全身に電撃が走ったような衝撃を感じた。何故気づかなかったのだろう?幼少の頃から、今日までずっと鍛錬を積んできたことだったのに。いつも、周囲の水の魔素に呼びかけ、魔法の力としてきた。そして自然界はどこでも、魔力に満ち満ちているのだ!

 ヤヌーがドッドッと地面を踏む音が響く。エールは目を閉じた。それぞれの属性の魔素は、どんな場所にも入り混じって存在している。ましてや、ここはリィネの地。深い霧の中である。水の魔素に満ちていない訳がないのだ。魔力の流れに意識を向け集中すると、目の前でヤヌーが足を踏ん張り、胸を反らせている様が脳裏に浮かんだ。そのまま角を振り下ろすつもりらしい。エールは横っ跳びに跳んだ。


どおん!


 凄まじい衝撃と共に獣は頭を振り下ろし、角にえぐられた土がエールの半身を打つ。だが彼女はひるまなかった。すぐにヤヌーへ向き直ると、水呼の剣を掲げる。閃きによる興奮で頭が沸騰しそうだ。だが、心は澄んでいて、やるべきことがはっきりと見える気がした。


水の精霊セイレーンの名の下に命ずる…水の魔素よ、かの物を捉え、打ち砕け!


 獣が頭を起こそうとした瞬間、その首元に水球がいくつも現れて弾けた。その衝撃に巨体がよろめき、前足の膝をつく。

 少女は剣を上段に構えた。栗色の髪がフワリと広がる。これから使おうとしている技を、エールは一度も試したことはないのだが、不思議と自信があった。剣も魔法も、自分の一部だと考えるんだ。


水の魔素よ、来たりて我が剣となれ。刃となり、かの者を切り裂け!


 呼び声に応えるように、大気から水の魔力が剣へと集まる。剣を最上段に構え、ぴたりと止まる。水呼の剣は今、迸るような水気で白銀の輝きを放っていた。

 ヤヌーが立ち上がりこちらを向く。エールは、その目を見た。落ち窪んで瞳がなく、ぼんやりと水色に光っているのをはっきりと見た。獣までの距離は、剣の間合いの数倍は離れている。


「やあぁっ!!」


 エールは気合と共に剣を振り下ろした。水呼の剣から、ヤヌーへ向け三日月のような透明の輝きが放たれる。薄く鋭い輝きが、前足の付け根に吸い込まれて消えたかに見えた。直後、獣はがくんと胸から地面へ崩れ落ちる。柱のように太い足が、根元からスッパリと切れてしまっていた。

 リィネ村に伝わる魔法剣・水の奥義。水の魔力を集めた斬撃を飛ばし、離れた相手を斬ることができる技だ。その切れ味は鋼の剣の比ではない。


ぶああああ!


 一瞬遅れて傷口から血が吹き出し、獣は苦痛に吠えた。頭をもたげ、怒りに満ちた目で少女を睨め付ける。その燃えたぎるような憎悪に、エールは覚えがあった。

 ヤヌーは残された足でよろめきながら立ち上がると、再び角を振り上げた。その後方には、先ほどエールが落ちそうになった崖がある。エールは剣を持ったまま獣に向かって両手をかざした。そしてありったけの水の魔力を集め、放った。


ドォン!


 巨大な水球がぶち当たり、巨体が吹き飛ばされる。獣は崖際で踏み止まろうとしたが、自身の体重を支え切れず、横向きに転倒した。その衝撃で地面が割れ、大地と切り離された土と岩とが、ヤヌーを道連れに崖下へと崩れ落ちていく。


ぶおおおおん!


 怒りに満ちた断末魔が、急速に遠ざかっていく。直後、はるか崖下で何かが砕けるような音がして、それきり吠え声は聞こえてこなかった。

 エールはしばらく、剣を構えたまま目を閉じ、じっとしていた。小石の落ちる音の余韻も収まった頃、少女はやっと目を開けて呟いた。


「ごめんね。私は先へ行かないと行けないの。」


 そして自身が殺めた獣の為に、つかの間祈りを捧げた。

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