旅立ち3
太陽が草笛峠の背に入り、周辺一帯に大きく影を落とした。崖谷の間の道は暗く冷ややかだが、足元は思いの外平らで、岩肌からはちょろちょろと澄んだ水が流れ出ている。それは小さな流れとなって道の傍を流れていた。見上げると夕暮れの空は狭く、オレンジと桃色のまだらに染まった帯のように見えた。
谷間の道はそう長くは続かなかったが、開けた場所に出る頃には夕陽の名残も消え失せ、すっかり暗くなってしまっていた。山小屋まで、もう少し歩かなければならない。
相変わらず辺りの景色は岩がちだ。この辺りの土地は痩せているのか、植物といえば硬い草木がまばらに生えているだけだった。あるいは土が固すぎるのかもしれない。緑豊かなリィネ村からそう離れていないのに、不思議なものだとエールは思った。精霊の加護の恩恵は思ったよりも大きいのかもしれない。
エールは荷物袋から小さなリンゴを取り出すと、かじりながら歩いた。冬の貯蓄の残りで、少ししわが寄っているが、味は濃くて美味しい。峠から吹き下ろす風は日暮れと共に冷たくなってきたが、歩き続けて汗ばんだ体には心地良いくらいだ。
そうとすればまだ夜は更けて居らず、東の空にさしのぼる満月が明るく道を照らし出している。おかげで山小屋を見過ごす心配はなさそうだ。そういえば、クライブが出発した日も満月だったっけ。兄は今どこにいるのだろう?もしかしたら、彼もリィネ村を目指していて、途中で落ち合いはしないだろうか…。
エールは黙々と歩いた。崖谷からの流れはいつの間にかリィネ川に合流し、道は石の多い浅瀬の流れる河原に沿って通っている。岩を洗うせせらぎの音が心地よく響き、その黒い水面に月明かりが散り散りに映し出されていた。それらを道連れにしばらく歩き、月が真上に登る頃にやっと山小屋にたどり着いたのだった。
小さな木造りの小屋は月明かりに照らされ、夜道に青く浮かび上がって見える。エールはふうと息をついた。今日の旅はここまでだ。
古い木の戸はガタ付いていて、開くのに少し手間取った。のぞいて見ると、中央に囲炉裏と、木製の幅広のベンチがあるだけの簡素な小屋だ。囲炉裏には旅人が使う用に鉄の小さな鍋が吊るされていて、壁際に薪が積まれている。
エールは戸口に立ったままポケットから水晶ランタンを取り出すと、月明かりをたよりに水筒から水を注いだ。それを両手ですっぽりと包み込むと、手のひらに魔力を集める。すると、指の隙間から青白い光が漏れ始めた。水晶ランタンに魔法の灯りが灯ったのだ。そっと手を開くと、その光が思いの外明るくて、目を細めた。
「きれい…。」
エールは思わず呟いた。その月明かりにも似た神秘的な輝きを両手に捧げ持ち、うっとりと眺めた。
一度魔力を込めれば、半日ほどは輝きを失わないはずだ。小屋の戸を閉めても、荷物の整理をするのに十分な明るさだった。
エールは部屋の中央に水晶ランタンを置くと、ベンチに腰掛けた。ベンチは厚みのある木の板で作られていて、ベッドとしても使えるよう幅と長さをもたせてある。床板はなく、足元は固められた土のままだ。
エールは一息つくと、荷物袋の中身を改めることにした。急いで準備をしたので、適当にものを放り込んできてしまった。何故かロープなんて持ってきてしまっている。そんなものより、ナイフを持って来れば良かった。
そんなことを考えながら一通り道具を確認し終えると、ペルーナに貰った袋からパンとチーズを取り出して食べた。
ちらりと囲炉裏に置かれた鍋を見やったが、お茶を作るのは明日の朝にすることにして、水筒の水を飲み干した。寝坊しないように、今日は早めに寝よう。
寝るには少し明る過ぎるので、水晶ランタンから水を半分ほど零した。するとランタンの光量が落ち、おんぼろの山小屋はまるで月明かりに照らされた泉の水底にいるかのような、心地良い空間となった。
荷物袋を枕に横になると、古い木材は思いの外冷たく感じられた。エールは寝袋マントを広げて毛布のように被り、改めてセーラに感謝をしたのだった。
淡い青色に満たされた室内を眺めながら、エールは、水のほこらの中を思い返していた。といっても、夢で見ただけで、実際に足を踏み入れたことはないのだが。あの光景が本当ならば、ほこらには大きな水晶ランタンが四つもあったはずだ。あれは無事だったのだろうか。兄の言っていた美しい光景をもう見られないとしたら、残念なことだ。
もし三つのほこらが全て壊されたらどうなってしまうのだろう。三精霊によって封印されている闇が復活してしまうのだろうか。そもそも、遠い祖先である勇者が封印したそれは、何なのだろうか?
少女は水晶ランタンの灯りを眺めながら物思いにふけり、いつのまにかうつらうつらと浅い眠りへと入っていった。
エールは浅い眠りを繰り返していた。寝台がわりの古い木のベンチはささくれが多く、布団代わりにしているマントがよく引っかかる。寝返りを打つと、その度に軋んだ音を立てた。
幾度めか目が覚めた後、なかなか寝付けなくて、天井の木目の影の明暗をぼんやりと眺めた。すっかり光量の落ちた水晶ランタンは微かに明滅し、古ぼけた部屋のあちこちに群青色の濃淡を作り出している。
エールはしばらくそうしていたが、ついに夜が過ぎ去らないうちに起き出してしまった。お湯を沸かそう。そう決めて、囲炉裏に吊るされた鍋を手に取る。そして、水を汲みに行こうと扉を開けたところで立ち止まった。
一瞬、雲の中にでも出たのかと思った。いつの間にか山小屋は深い霧に包まれていたのだ。
灰色の霧は夜の上に重くのしかかっているようにも思える。月は見えず、本来ならすぐそこに見えているはずの川も、今はせせらぎの音が届くばかりだ。
外へ踏み出すと、ひんやりと冷たい霧が頬に触れた。エールは慎重に川岸へと足を運んだ。こんな夜中に川に落っこちたくはない。やっと鍋に水を汲んで振り返ると、山小屋は霞んだ陰としか見えなかった。これでは、陽のあるうちに峠を越せるかわからない。
暗い気持ちで山小屋に戻り、囲炉裏に鍋を吊るす。そこからすっかり光量の落ちた水晶ランタンに水をすくうと、再び魔法の灯りを灯した。
薪を何本か囲炉裏に放ってベンチに腰掛ける。荷物袋から鉄の瓶を取り出し、中の赤黒い粉を少しだけ薪に振りかけると、火かき棒の先でつつくようにして軽く魔力を流した。
ぱっと火の粉が舞い、ついで炎が上がる。
これはレンデ周辺で採れる炎熱石と鉄粉を混ぜたもので、魔力に反応し発火させることができるのだ。火の魔法を使えなくても簡単に火をつけることが出来、旅人には重宝されている。魔力の濃い場所では勝手に発火する危険がある為、鉄瓶に入れて持ち歩くのが一般的だ。
薪が燃え始めると小さな小屋はすぐに暖かくなり、少女はほっとした気持ちになった。少し歩いただけで、体が湿ってしまっていた。出発の時はケロッグフードを着て行こう。これを忘れてこなくて本当に良かった。エールは鍋がしゅうしゅうと温められる音を聞きながらそう思った。
荷物袋をかき回し、今度はお茶葉の入った木の筒を取り出す。窓辺で育てているハーブを乾燥させて、自分で作ったものだ。何種類かの葉をブレンドしてあって、なかなか美味しい。売り出してもいいくらいだと思っている。小さな布袋にお茶葉を少し取って鍋に放り込むと、いい香りが漂い始めた。
持ってきた金属のカップは持ち手まで熱くなってしまうので、皮の手袋をつけて飲むことにした。出発前に、水筒にもお茶を入れておかなければ。
エールはしばらく薪が燃えるのを見つめていた。水晶ランタンの灯りも気に入ったが、炎の色は見ているだけでも暖かく、いつまでも眺めていられそうだ。でも、そろそろ行かなくては。
荷物の準備が終わると、わずかな期待と共に戸を開け、外を確認してみる。しかし外には相変わらず青ざめた霧が立ち込めていて、木立の影がぼんやりと見えるばかりだ。それでも先ほどよりもかすかに明るく、冷え冷えとした夜明けが間近であることを告げる。西の空を仰ぐと、草笛峠が霧の中におぼろに浮かび上がって見えた。
エールは嘆息して室内に戻ると、ケロッグフードを羽織った。その上からベルトをかけて装備を整える。水晶ランタンの水を灰にかけると、じゅうと音がして蒸気が上がった。
少女は戸口に立つと、一度振り返り小屋の中を確認した。
それから覚悟を決めて灰色に煙る世界に向き直ると、フードを目深に被り、濃い霧の中へ足を踏み入れて行った。




