セーラ2
リィネ村の西には、草笛峠という高い峠がある。その為に、日の入りは早い。夕陽に黄色く染まる山際の向こうから、紫の厚い雲が近づいて来ている。湿ったぬるい風が頬を撫でた。一雨来そうだ。エールは足を踏み替えると、辺りに目を巡らせた。そろそろ交代の時間だ。
エールは今、南門の番をしている。ペルーナがセーラの世話を焼くのに忙しくなり、暇になったので再び見回り隊の手伝いをするようにしたのだ。
「お疲れさん、エール。交代だ。」
交代に来たシャッドが、空を仰いで顔をしかめた。ポツリと雨粒が頬に落ちる。
「あーあ、ついてねー。降ってきやがった。」
シャッドは、ぼやきながら手に持っていた緑色のフードを羽織った。これは同じ色の短いマントと一体になっていて、村人はケロッグフードと呼んでいる。模様が独特なのは、なめし皮にケロググの皮を貼り付けて作られている為だ。防水性が高く、雨の日は便利なものである。一応リィネ村の名産でもあるが、どうしても表面がケロググの体色になってしまうので、好き嫌いは分かれる。
「異常なしだよ。門番って、地味に疲れるね。足が棒になっちゃったよ。」
エールが言うと、そうだろう、とシャッドは何故か得意げに胸を張った。エールは両手を上げ、うんと伸びをした。
「一走りして、体をほぐそうかな。急げば、暗くなるまでに村長のとこに行って帰れるかもしれないし。」
セーラが目を覚ましてから、五日が経とうとしていた。彼女の記憶は依然として戻らない。それでも、エールは毎日村長の家に通っていて、セーラと話をするのが日課になっていた。
「毎日ご苦労なこった。おれはどうも、あのセーラって女は怪しいと思うけどね。」
シャッドの言葉に、エールはむっとして返事をする。
「なんでよ?」
「だってよお、普通リィネ村を通らずにセイレーンのほこらには行けねえのに、誰も姿を見てないんだぜ。黒鎧の奴の他はな。精霊様のほこらを荒らしたのが、彼女じゃねえ証拠だってないんだ。」
それを聞いてエールは思わず声を上げた。
「セーラさんはそんなことする人じゃないよ!」
セーラは穏やかで優しい。どこか抜けた所もあって、なんだか他人とは思えない。エールは彼女がすっかり好きになっていたのだ。その剣幕に、シャッドは少したじろいだようだ。
「な、なんだよ、そんな怒らなくたっていいだろ。おれは可能性の話をしてんだ。」
なおも睨みつけるエールに、シャッドは観念したようにぽりぽりと頭を掻いた。
「まあ、鎧兜はあの人には重すぎるか。」
ポツポツと雨足が強くなって来た。風も出てきたようだ。ふと、鈴の音が聞こえた気がした。
「おっ。見ろよエール!」
シャッドが声を上げる。見ると、峠の方から小さな荷馬車がこちらに向かってくる所だった。
荷物を満載に乗せたそれを、ずんぐりとしたシルエットの生き物が引いている。生き物の背に小柄な御者が一人座っている。コモルの森に住む獣人、キース族だろう。夕焼けの赤はもう大部分を灰色の雲に覆われ、荷馬車は黒茶けた道の上に朧げな影を落としている。鈴の音はその荷馬車から聴こえてくるのだった。
「コモルの荷馬車だ!こりゃ、今夜は美味いものが食えるぜ。おーい!」
シャッドが手を振ると、キース族が手を振り返して答えた。荷馬車はガタゴト、チリンチリンとゆっくり近づいて来る。
引いているのは、キース族達がボボと呼んでいる生き物だ。背丈は小ぶりなロバほどだが、体はずんぐりとして丸い。全身に濃い緑色の毛がふさふさと生えていて、ちょっと見ると苔むした岩のようだ。鼻先からは天を突くように、艶のある焦げ茶色の大きな一本角が伸びている。その角に掛けられた鈴が、歩くたびにチリンチリンと小気味良い音を立てているのだった。太い足は体に大してずいぶんと短いが、お陰で見た目に反して小回りもきくらしい。眠そうにたるんだ瞼から覗く瞳は思いの外つぶらで、エールはこの生き物を可愛いと思うのだった。
門の前まで来るとボボは、ぶふーっと鼻から息を吐いて立ち止まった。鈴がチリリンと音を立てる。キース族の青年はひらりと飛び降りると、ロロと名乗った。
「こんちは!風が強くなってきたね。嵐になる前に着いて良かったぁ。」
ロロはニッと笑うと気味の良い挨拶をした。キース族特有のふさふさの尻尾をゆらゆらと揺らす。彼の毛色は茶色だが、鼻先と、垂れた大きな耳の毛だけが黒色だ。短い革のベストに、腰巻きという簡素な出で立ちである。
「峠超えお疲れさん。コモルの食い物は美味いからなぁ。いつも楽しみにしてんだよ。」
食い意地の張っているシャッドが快活に答える。
「おれも、リィネのごはん好きだよ!チーズとか、パンとか。」
ロロも、負けないくらい食いしん坊らしい。シャッドと二人でよだれを垂らしている。エールは呆れて笑いながら、自身もわくわくしていた。他の村からの荷馬車は、村の皆の楽しみなのだ。荷馬車の中身をを早く見たいという気持ちに駆られたが、それをぐっと押さえる。
「荷下ろしを手伝いたい所だけど、私は村長の家に行かなきゃ。遅くなっちゃう。」
エールはそう言って垣根に掛けていたケロッグフードを取り、羽織った。走り出そうとした所で、ロロに呼び止められる。
「あ、キミ村長さんとこに行くの?じゃあさ、手紙を頼んでもいいかな。」
「手紙?」
エールが振り返り訊ねると、ロロは腰巻に縛っていた筒の紐を解いて、丸めた紙を取り出した。
「うん。コモルの長老から、リィネの村長さんに預かってきたんだ。」
手紙はごわごわの厚い紙で、それをくるくる巻いて、細く裂いた木の皮で縛ってあった。
「わかった。渡しておくね。」
エールが手紙を受け取ると、ロロは再びボボの背に飛び乗った。
「ありがとう!おれ、早いとこ荷物を降ろして、ごはんにしたくってさ。」
その時、強まり始めた風に乗って遠雷の音が聞こえてきた。
「おっと、急がなきゃ。じゃあねー!手紙よろしく!」
ロロがそう言うと、ボボがゆっくりと歩き出した。いつも不思議に思うが、手綱もなしにどうやって操っているのだろう?エールは動き出した荷馬車に手を振って挨拶すると、手紙が濡れないように胸元に入れ込み、軽快に走り出した。
走っている間に雨足は急に強くなり、ほとんど土砂降りになってしまった。エールは走るのを諦め、横殴りの雨に打たれながら、風に負けないように一歩ずつ踏みしめて歩いた。
灰色に煙る土手沿いの道は短い草が水をたっぷり含んで、ブーツが踏みつける度に、ばしゃばしゃと音を立てる。エールは首をすぼめて、マントの前をしっかり手で掴んだ。空はすっかり厚い雲に覆われ、フードから覗く村の景色は、寄る夕闇に暗く沈んでゆく。
村長宅に着くと、すぐにペルーナが出迎えてくれた。
「おやおや!エール。びしょ濡れじゃないか。待っておいで。拭くものを持ってこよう。」
ペルーナがばたばたと引っ込むと、入れ替わるようにして台所からセーラが顔を出した。薄緑色のエプロンをしている。
「まあ、エールさん!今日はこんな天気だから、いらっしゃらないかと思っていました。」
セーラが嬉しそうに驚いている。エールはケロッグフードを外套掛けに置くと、手袋を外して台所に入った。かまどの火が暖かくて、ほっとする。
「セーラさん、お料理してるの?」
かまどにかけられた大きな鍋から、湯気が立ち上っている。茹でた野菜のいい香りがした。
「はい、ペルーナさんに教えて頂きながら…。でも、ちょっと失敗してしまって。」
エールは、困り顔のセーラの横から、スープの鍋を覗き込んだ。
「そうなの?美味しそうだけど。」
そう言ったエールだが、スプーンで一すくい味見すると黙り込んだ。しょっぱい。ものすごく。
「あまり、美味しくないですよね…。もっとお塩を入れるべきでしょうか?」
セーラはその長い指を、既に塩の袋に伸ばしている。エールは顔を引きつらせた。それだけは阻止しなければ。
なんと言おうか悩んでいる所に、ペルーナが戻ってきた。エールに手拭いを渡し、鍋を覗き込む。
「おや、出来たかい?どれどれ。」
ペルーナはスプーンでひとすくい飲むや、目を丸くして声を上げた。
「あらあらあら。またずいぶんと塩を入れたんだねぇ!」
ペルーナが声を上げて大笑いしたので、セーラは色白の頬を赤らめ、すっかり恐縮してしまった。塩の袋が棚に戻されたので、エールはほっと胸を撫で下ろした。
「すいません、せっかくのお野菜が…。」
セーラがおろおろと言うと、ペルーナは心外だというように眉を上げた。
「おや、無駄になんてしないよ。さあ、ミルクと小麦粉を持ってきておくれ。今夜はシチューにしましょう。」
かくして、大量のシチューが出来上がったのだった。
「エール、奥の部屋へ行ってじいさんを呼んできておくれ。」
そう言われて、エールは手紙のことを忘れかけていたのに気づいた。村長の部屋を覗くと、老人は何やら帳簿を付けている所だった。村の支出管理は村長の仕事なのだ。
「村長!夕飯が出来たよ。」
エールが声をかけると、村長は顔を上げて禿頭をつるりと撫でた。
「おお、エール。来ておったのか。もうすぐコモルからの荷馬車が来る時期なのでのぉ。売り買いする品物を確認しておった所じゃ。」
「それなら、さっき着いた所だよ。」
エールが答えると、村長はもじゃもじゃの眉を持ち上げて言った。
「それはちょうど良かった。今朝ジャムが切れてしまった所なんじゃ。」
髭をもごもごさせて笑う。村長は甘いものが大好きなのだ。今度は忘れない内にと、エールは胸元から、ごわごわの紙を取り出した。
「それで、手紙を預かって来たんだ。はいこれ。コモルの長老さんから、村長に。」
「おお、ありがとう。あいつも年だからのぅ。久しぶりに会いたいもんじゃ。」
村長は懐かしそうに目を細めた。目尻の皺が優しげに緩む。どうやらコモルの長老とは古い友人らしい。
「食事の後に、ゆっくり読むことにしよう。ばあさんに、これを片付けたらすぐに行くと伝えておくれ。」
楽しい夕飯だった。セーラも、村長夫妻との生活にすっかり馴染んでいるようだ。村長夫妻には娘がいるが、今は港町セトに嫁いでしまって、しばらく会っていない。二人とも嬉しいのだろう。
食事の後で、セーラが服を干すのを手伝ってくれた。すっかり濡れてしまったブーツに手拭いを詰め、逆さまに立てかける。ケロッグフードから滴り落ちた雫が、外套掛けの下に小さな水溜りを作っていた。
風で窓がガタガタと音を立てた。外を見ると、もう真っ暗だ。時折、稲光が暗闇に吹き荒れる雨のシルエットを浮かび上がらせる。
「こりゃ、今日はもう帰らない方がいいね。泊まっておゆき。」
ペルーナに言われるまでもなくエールはそのつもりでいて、遠慮なく泊まって行くことにしたのだった。




