セーラ1
今日のリィネ村は随分と暖かい。日向にいると、うっすら汗ばむくらいだ。村はずれの川辺にはセイレン草がいく本も花をつけ、昼下がりのうららかな日差しの中、楽しげに揺れている。その脇の短い草の上に、エールはあぐらをかいて座っていた。
いつも肩に掛けている布を、今は頭に巻いて目隠しをしている。結び目の下で、栗色の髪がぴょこんと跳ねていた。少女は静かに呼吸を繰り返す。視界を塞ぐと、川のせせらぎがこんなにも大きく聞こえる…。
唐突に、少女が動いた。草を蹴り、横っ跳びに飛び出した直後、今まで座っていた場所に豪雨のように水球が降り注ぐ。水球は草の上で弾け、束の間の輝きを作った。
「はいそこまで!」
ぱんと手を打つ音がして、エールはふーっと息をつき、目隠しを外した。開いた目に日差しが眩しくて、目を細める。セイレーネの泉で魔物と戦ってから、三日が過ぎていた。エールはペルーナの元で修行を行なっている。
「今のはとびきり静かにやったのよ。魔力の感知は、すっかりできてるみたいねぇ。」
ペルーナが弟子を褒めることは少ない。嬉しくなって、エールは頬を紅潮させ顔を上げた。
「それなのに、精霊様の気配はどうしてわからないんだろうね。」
喜んだのもつかの間、ペルーナのため息を聞いて、今度はしおしおと下を向く。
ペルーナが言うには、精霊様の気配を感じる為には、魔力の流れを読めるようになるのが一番の近道なのだそうだ。依然として弱まったままだというその気配を、エールは全く感じられないでいた。ペルーナには言えないでいるが、実は事件以降、大気中の魔力が強くなったようにも感じているのだ…。
「では、今から瞑想を始めるよ。」
ぴしゃりと言われて、エールは呻き声を上げそうになるのを堪えた。じっとしているのは苦手だ。こんなぽかぽかな陽気の日は特に、うっかりすると寝てしまいそうになる。そうなったら、どんな厳しい叱責が飛んでくるか知れない。
「エール!ペルーナさん!」
突然呼びかけられた。振り向くと、アスカが土手を下ってくる所だった。
「アスカ!おはよう。どうしたの?」
そういえば、アスカに会うのも三日ぶりだ。エールは幼馴染に笑いかけながら、瞑想が後回しにならないかと、密かに期待した。
「修行お疲れ様。村長に言われて、呼びに来たの。」
小走りに駆け寄るアスカの表情を見て、エールの頭に閃くものがあった。村長が呼んでいるということは、もしかしたら。
「村長さんの所で看病していた女の人が、目を覚ましたわよ。」
ペルーナがおやまぁと声を上げた。やはりそうだ。エールは胸がどきどきするのを感じた。 この三日間、宙ぶらりんにされたような、もどかしい気持ちでいた。彼女に聞きたいことがたくさんあって、目覚めるのを心待ちにしていたのだ。
「良かった!ずっと起きないから心配してたんだ。アスカはもう会ったの?具合はどんなだった?お話できるかな?」
興奮気味に詰め寄るエールに、アスカは眉を持ち上げ、叱るような表情を作る。
「エールったら。先に言っておくけど、病み上がりの人にそんな風に質問責めしちゃダメだからね!」
嗜められ、エールは首をすくめて頬をかいた。
「私も、まだちゃんとお話はしてないの。あの人、セーラさんっていうんだって。思ったより元気そうね。でも…。」
なんだか、煮え切らない言い方だ。アスカは言い淀んで、首を振った。
「ううん。ここで長話しても仕方ないわね。とにかく、一緒に戻りましょ。」
歩みの遅いペルーナから先に行くように言われて、エールはアスカと共に駆け足に戻ることにした。
村長宅の扉を開けると、ふわりと甘い香りが漂った。テーブルにはジャムの瓶と、カップが二つ。ひとつは空になり、もう一つには半分ほどお茶が残っている。
「おお、エール。戻ったか。」
村長が朗らかに言った。その向かいに、青い髪の女性が座っている。女性はエールを見ると立ち上がり、軽くお辞儀をした。長い髪がふわりと揺れる。
「初めまして。私はセーラといいます。」
釣られて、エールもぺこりと頭を下げた。ちょっと照れる。
「あ…。初めまして。私はエール。よろしくね。」
初めて見る女性の瞳は、その髪の色と同じく深い青色をしている。エールは澄んだ泉の水面を思い浮かべた。
「貴女がエールさんなのですね。危ない所を助けて頂いたそうで…。どうもありがとうございます。」
そう言って、セーラはまた深々と頭を下げる。なんだか恥ずかしくなって、エールは顔の前でぶんぶんと手を振った。
「い、いや!私も必死だったし。」
そんなエールに、女性は青い瞳を細める。なんだかドキドキする。美人だ。すっごく。
その時、後から戻ってきたペルーナがエールの後ろから顔を出した。
「まあまあ、よく目が覚めたねえ。皆心配していたんだよ。気分はどうだい?起きて大丈夫かね?ああ、私はペルーナ。そこにいる村長じいさんの妻だよ。」
ペルーナはセーラの手を取ると、嬉しそうに自己紹介を始めた。ペルーナは誰よりも彼女の心配していたのだ。エールもほっとしていた。実を言うと、このまま目を覚まさないのではと心配していた。
「ほれ、落ち着かんか。セーラさんが困ってるだろうが。全く、ばあさんの悪い癖じゃ。」
なおも喋り続けそうな夫人を村長がとりなす。ペルーナは、あらまぁごめんなさいねと口に手を当て、あっけらかんと笑った。
「まあ皆、まずは座りなさい。」
皆を席につかせると、村長は自分のカップを持ち上げ、口元に持っていってから空であることに気づいたようだ。ことりとテーブルに置き、禿頭をつるりと撫でる。
「まずは、これを伝えておかねば。」
そう言って村長は一つ咳払いをした。
「実はのぅ、こちらのセーラさんは記憶を失くしておるようなのじゃ。」
エールは思わずセーラの顔を見た。彼女は遠慮がちに頷く。
「はい…。名前以外には、何も…。自分がどうしてあの場所にいたのかも思い出せないのです。」
そう言ってセーラは目を伏せ、再び頭を下げた。
「申し訳ありません。」
アスカは既に聞いていたのだろう、黙ってセーラを見つめている。すぐさま明るい調子で声をかけるのはペルーナだ。
「それは辛かったねぇ。あんたのせいじゃないんだから、謝らなくっていいんだよ。きっとあの魔物に襲われたとか、恐ろしい目にあったんだろう。ゆっくり休んで、元気になったら思い出すさ。この家なら、いつまでだっていてくれていいからね。」
その言葉に嘘はないだろう。ペルーナは人の世話を焼くのが何より好きなのだ。
「そんな、ご迷惑を…。」
セーラの言葉をさえぎるように手を振り、村長夫人はにっこりと笑う。
「いいんだよ、迷惑なんて!それより三日も食べてないんだ。何かお腹に優しいものを作ろうかねぇ。それまで、少し休んでいた方がいいんじゃないかい?ほらアスカ、セーラさんを寝室に連れてっておやり。エールは料理を手伝っておくれ。」
ペルーナは生き生きとして二人に指示を出し始めた。本人はもう腕まくりをして、エプロンを身に付けている。
アスカに伴われて二階へ上がるセーラが、戸惑いがちに一度振り向いた。目があったエールが手を振ると、微かに微笑んで返す。
村長は張り切る夫人に苦笑いをしながら自分の禿頭をさすっていたが、邪魔になると思ったのか、宿屋のヘムオスと話してくると逃げるように出掛けて行った。
それからエールは薪を取りに行ったり、野菜の皮を剥いたりと働いた。忙しさがありがたかった。実を言うと、少し気落ちしていた。彼女が目覚めれば、謎がすべて解けるような気でいたのだ。
「うん、いいわね。美味しい料理が作れるのも、精霊様のおかげさね。」
スープの味見をしたペルーナが微笑む。すっかり上機嫌だ。
「さぁ、大勢いたらセーラさんが落ち着かないだろうから、あんた達は今日はお帰り。」
スープを乗せたお盆を抱えたペルーナがばたばたと二階へと上がっていき、エールとアスカは一旦帰ることになった。
村長宅を出る頃には、もう陽が傾いていた。エールは笑ってアスカに話しかける。
「ペルーナさん、絶好調だね。」
なんて慌ただしいのだろう。アスカも肩を竦めて笑う。
「すごい術師なのにね。張り切りすぎて周りが見えなくなるの、母さんと一緒だわ。」
エールは思わず吹き出した。そういえば、テルナも負けずと世話好きだった。
エールとアスカは並んで歩き出す。西の空が赤く色づき、草笛峠には桃色に染まった雲が薄くかかっている。今日の夕焼けはきれいだ。
「それにしても…記憶を無くしているなんてね。」
アスカがポツリと言った。セーラのことは、アスカもショックだったようだ。
「うん…。でもセーラさん、思ったより元気そうで安心したよ。仲良くなれたらいいなぁ。」
エールは前向きに言う。あまり気落ちしてはセーラに悪いと思ったのだ。返事がなくて、ちらりと幼馴染の顔を見る。なんだか、今日のアスカは黙りがちな気がする。
「そうだ。ねえアスカ、私の剣っていつ直るの?」
急に思いついて、訊ねてみる。アスカはぼんやりしていたのか、驚いたように返事をした。
「あっ、ごめんごめん。もうすぐ出来るから待ってて。」
焦ったような様子のアスカに、エールは半眼を作り口を尖らせた。
「アスカ、忘れてたでしょ?」
そんなエールの顔を見て、アスカは可笑しそうに笑った。
「忘れてないよ。最近は依頼の品を作るのに忙しかったの。前使ってた剣もあるし、少しくらい遅れたっていいでしょ?」
確かに、別に急いで直してほしい理由はない。エールはまあね、と言って頭の後ろで手を組んだ。そのまましばらく無言で歩いた。
「セーラさんの記憶が早く戻ればな。色々、わかるかもしれないのに…。」
つい、言葉が漏れる。言ってしまってから、何も思い出せないと言うセーラの悲しそうな顔を思い出して胸が痛んだ。エールとて、こんなことを言っても仕方ないのはわかっているのだ。
「そうね…。」
アスカが呟き、エールは、意外そうに幼馴染の顔を見た。てっきり、たしなめられるかと思ったのだ。
「ねえ、クライブはどうしてるかな?」
突然アスカに問われて、エールはきょとんとした。
「ほら、クライブは魔力を持たないでしょ。もし、旅の途中に魔物と出会ったら、大丈夫かなって…気になってたの。あの魔物がどこから現れたのか、セーラさんなら知ってるのかと思ってたんだけど…。」
言われて初めて、エールは、他にも魔物が出現するかもしれないという可能性に気付いた。確かに、魔力を持たない者が、魔物と戦えるのだろうか。アスカは、ずっとそれを心配していたのだろう。
「大丈夫だよ。きっと。クライブは強いもん。」
エールとて、兄のことが気にならない訳ではない。だが努めて明るく言ってみせた。
「うん。そうだね…。」
まだ浮かない顔をしているアスカに、畳み掛けるように励ます。
「リィネの剣もあるし、アスカのお守りだってあるでしょ。だから絶対大丈夫だって!」
そう言って、エールは拳を掲げた。その大げさなポーズに、アスカは思わず声を上げて笑った。
「ありがとう、エール。…そうね。それに精霊様も守ってくださるわ。きっと。」
沈む夕陽の最後の光の矢が、アスカの金髪をまるで赤金のように照らした。東の空には、もう星が見え始めている。二人の少女はどちらからともなく、空を仰いだ。そして今どこにいるか知れない、巡礼者の旅の無事を祈った。




