異変4
気がつくと、エールはベッドの上にいた。大きな窓から春の日差しが差し込み、梁が剥き出しの天井に暖かい光を投げかけている。
階下から、誰かの話し声が聞こえる。ぼんやりとした気持ちでそれを聞いている内に、フカフカの布団が心地良くて、再び眠り込んでしまった。
次に目を覚ました時、階下の話し声は止んでいた。ゆっくりと身を起こす。ここはどこだろう?その時、コンコンと控えめなノックの音がして、扉が開いた。
顔を出したのはアスカだった。水差しの乗ったお盆を持っている。彼女は、エールが起きているのを見て、ぱっと顔が明るくなった。
「あ!エール、起きたのね!」
幼馴染は小走りにベッドに駆け寄ると、怒り顔になった。
「心配したんだから!レーガンさん達が見つけていなかったら、どうなっていたか…。」
今度は泣きそうになっている。そこで、エールはようやく思い出してきた。
「そうだ!大変なのアスカ!セイレーネの泉に怪物が出たんだよ!あと、女の人が倒れてて…!」
エールが勢いよく布団を跳ね除けたので、布団の縫い目から細かい羽毛が数枚、舞い出た。
「そのおなごなら、向こうの部屋に寝かせておるよ。まだ目は覚めぬが、怪我はなさそうじゃのぉ。」
いつの間にか、部屋の入り口に村長が立っていた。ゆっくりとベッドの脇に歩み寄る。
「それから、あの怪物は、煙になって消えてしまった。レーベルがそう話しておったわい。」
そう言うと、村長は難しい顔をして黙りこんだ。顔の皺がいつもより深く刻み込まれて見える。
「村長、怪物が消えたって…?」
エールは耐えきれずに訊ねた。促された村長は、髭をさすりさすり低い声で答えた。
「怪物は、レーガン達が到着した時には、既に巨大なカエルの形をした炭のようになっていたそうじゃ。それは彼らの見ておる前で、紫の煙を上げながら小さくなり、地面に薪を燃やしたような黒い跡だけが残ったという話じゃ。にわかには信じ難いが…何人も見ておるのでなあ。」
今度はエールが黙り込む番だった。怪物の突進に吹き飛ばされたのを覚えている。あれほどの質量の生き物が、消えただって?そんなことがあり得るのだろうか。
「お主からも色々と聞きたい所じゃ。もう歩けるかの?」
「あ、はい。」
エールがこくんと頷くと、村長は満足そうに頷いた。
「よろしい。では、詳しい話は下で聞こう。落ち着いたら、降りてきなさい。」
そう言って村長が出て行った後、エールはゆっくり立ち上がってみた。頭がずきずきする。だが、問題なく歩けそうだ。伸びをするエールに、アスカが上着を取ってくれた。
「さっきまで、お父さん達が村長と話してたの。私はお店の番をしてて、詳しく聞いてないんだけど…。怪物を倒したのって、やっぱりエールだったのね。」
アスカはそう言って、ベッドの脇に置いてあった剣を鞘から抜いた。
「うわ。」
エールは思わず声を上げた。剣は大きく刃こぼれし、柄はぐらぐらになってしまっていたのだ。所々黒ずんでいるのは、考えたくないが怪物の血だろうか。
「これが、怪物の身体から出てきたって、レーガンさんが言ってた。私は怪物を見てないけど、鋼の剣が一回の戦闘でこんなになるなんて…。」
アスカはそう言って剣を置くと、妹のように可愛がっている幼馴染をぎゅっと抱きしめた。
「本当に、あなたが無事で良かったわ。」
柔らかい金髪が顔にかかる。暖かい。エールは恥ずかしいのと、今さら恐ろしさが込み上げたのとで、早口に喋り出した。
「夢中で、よくわからないまま戦ったんだ。レーベルさん達が見つけてくれたって言ってたけど、どうして泉に来たのかな?あっ!ほこらの中はどうなって…」
そこでアスカは手を上げると、宥めるように優しく笑った。
「下に降りてから話しましょ。村長からも説明があると思うから。」
階下に降りると、テーブルで村長が手招きをした。早速口を開こうとするエールを手で制する。
「まあ、まずは座りなさい。ばあさんがお茶の準備をしているからの。」
村長は、いつも通りの柔和な表情になっていた。ペルーナがカップを四つ出してきて、熱いお茶を注いでくれる。さらに、いそいそと戸棚から大きな丸い瓶を取り出してきた。
「コモルから仕入れた蜂蜜よ。溶かして飲むといいわ。元気が出るから。」
言われるままに、琥珀色の蜜を木のスプーンでたっぷりすくってお茶に溶かす。一口飲んで、エールはその甘さに目を開いた。確かに元気が出てくるような気がする。
村長夫人はにっこりして、自分もテーブルについた。全員のカップに蜂蜜が溶けると、村長は穏やかに切り出した。
「では、話してくれるか。エールよ、おぬしは何故泉に行ったのか?」
エールは話した。不吉な夢を見たこと。居ても立っても居られなくて泉に行き、割れた扉と、倒れている女性を見つけたこと。そこに突然現れた怪物と戦ったこと。
村長は髭をさすりながら聞いていたが、話し終わると何か言いたげに夫人の方を見た。ペルーナは頷くと、夫の変わりに答えた。
「私もね、今朝はなんだか胸騒ぎがして、早起きしたの。ほこらがある山の方を見ると、何かが光ったように見えてねぇ。嫌な予感がすると言ってたのよ。ねえ、あなた。」
村長がふむと頷いて、あとを引き継いだ。
「ばあさんの感はよく当たるからのぉ。気になっておった所に、門番から怪しい者を見たと報告があったので、見廻り隊の者に祠の様子を見に行かせたのじゃよ。そこで、倒れておるお主と怪物、青い服のおなごを見つけたという訳じゃ。」
村長はそこで息を吐き、一口お茶を飲んだ。
「そしてエールよ、お主の話を聞いて確信した。泉の怪物は魔物と呼ばれるものではないかと思う。」
「魔物…?」
聞きなれない言葉に、エールは眉を寄せて反芻した。
「うむ。わしも、昔話でしか聞いたことはないがのお。紫色の瘴気を纏った、異形の獣。それは魔力を持ち、並々ならぬ憎しみと殺意を持って人を襲ったという。」
確かに、それはエールが出会った怪物のようだ。村長が続ける。
「それは、闇の世界から来たとも、魔が生き物に取り憑き、異形の姿になったとも言われておる。勇者リィネの伝説の中にある話じゃ。勇者により闇が封じられて以来、魔物が出ることはなかったというが…。」
村長は息をつき、頭をつるりと撫でた。
「もしあれが魔物であるならば、ほこらが荒らされたことと何か関係があるかもしれぬ。この地が平和であるのは、精霊様の守りの賜物じゃから。」
村長の言葉に、エールはハッとした。
「村長、じゃあほこらは…」
「うむ。お主が夢に見た光景は、実際にあったことなのじゃろう。精霊様の像が叩き割られておったよ。まるで、重量のある大剣を力任せに振り下ろしたようにのぉ。」
それを聞いて、エールだけでなく、アスカも息を飲んだ。
「そんな!村長、では精霊様はどうなったのですか?」
色めき立つ二人を、村長は手を上げて制した。
「まあ落ち着きなさい。精霊様は、その身は精霊界にいらっしゃる。セイレーネの泉を通して我々の世界を見守って下さっておるのじゃ。この世界にいらっしゃる時は、水をまとった水竜のお姿を取られるという。わしもお会いしたことはないが…あの像はそれをかたどって我らの祖先が作ったもの。じゃから、あれが壊されたとて精霊様のお力がなくなる訳ではないはずじゃ。じゃが…。」
そこで村長はモゴモゴと口ごもった。何やら迷っているようだ。エールがやきもきし始めた時、ペルーナが口を開いた。
「あなた。エールが夢を見たのは、きっと精霊様のお導きに違いないわ。アスカはテンガンの娘だし、今は一番エールに近しい家族のようなもの。二人は知っておくべきよ。ねえ?」
そして優しくも厳しい目を少女達に向けた。エールはドキドキした。
「うむ…。そうじゃの。」
村長は髭をさする手を止めると、座り直して二人を見た。
「エール、アスカ。今から言うことは一部の者を除いて村の者達も知らぬこと。どうか内密にして欲しい。不安と混乱を招いてはならぬからの。」
二人は一瞬顔を見合わせたが、すぐに声を揃えて返事をした。
「わかりました。」
村長は満足そうに頷くと、話し始めた。
「かつて、勇者リィネが闇を封じたのち、三精霊の力を借りこの地を清め、平和をもたらした。そこまではお前達も知っておろう。」
二人が揃って頷く。子供の頃から何度も聞かされた昔話だ。
「実は伝説には続きがあるのじゃ。闇は、封印されたとて消えてはおらぬ。三精霊は、今でもかの者を封じ続けておられるという。水、風、火の三つのほこら。エスト島の中で特に魔力の集まる三つの場所から、陣を貼り続けていらっしゃるのじゃ。ほこらは、その封印の助けになるよう、当時の人々が作ったものなのじゃ。」
少女達は黙って聞いていた。初めて聞く話だ。昔話では、勇者と精霊達が闇を封印してめでたしめでたしだったのだから。
「そのほこらが壊されたことで、もしや封印が弱まってしまったのではと思う。のお、ばあさん。」
話を振られたペルーナは、先ほどと変わらぬ瞳でエールを見つめている。
「私は少しだけど、精霊様の気配がわかるのよ。精霊様のお力は完全になくなった訳ではないけれど、とても弱くなっている。エールには感じるんじゃないかしら?」
呼びかけられて、エールはドキっとした。精霊様の気配なんて、今まで意識したことがなかった。
「うーん…わかんない。精霊様の気配ってどう読むの?」
先ほどから色んな話を聞いて、ドキドキしたり焦ったりしているのだ。違和感があったとしても気付けそうにない。困った顔をするエールに、ペルーナが微笑みかけた。
「明日からしばらく、ここにいらっしゃい。私から教えられることは教えましょう。見回りの仕事は休んでいいわ。レーベルには話しておくから。」
どうやら、師匠は修行をつけるつもりのようだ。エールは、はいと返事をしながら首をすくめた。ペルーナは普段優しいが、魔法の特訓のときは厳しい。
村長が咳払いをしてお茶を飲み干した。白い髭に濃いお茶が茶色いしみを残す。
「ふう。話しに夢中で飲むのを忘れておったわい。ぬるくなっても美味いお茶じゃのう。ほれ、お前達も飲みなさい。」
そう言って硬い表情の少女達を和ませるように笑った。
「あとは、あのおなごの目が覚めたら話を聞いてみよう。何か知っているかもしれん。わしは、もう少し古い文献をあたってみようと思う。エールよ、今日は帰って休みなさい。アスカも、ご苦労じゃったの。」
二人は挨拶をして村長宅を後にした。
戸口を出ると、春の暖かい空気が生じて達を包む。小川きらきらと流れ、草木は新芽の明るい黄緑色だ。ここはいつも通り、のどかなリィネ村だ。異変が起こっているなんてとても信じられない。
急に色々な話をされて、そのどれもが実感を帯びないような気がしていた。色んなことを知るたびに、わからないことばかりが増えていく。
隣を見ると、アスカも険しい顔をしている。目が合うと、ふいに緊張が解けて笑い合った。
「アスカ、変な顔。お腹が痛い時みたい。」
アスカが吹き出した。
「エールも、眉間にしわが寄ってるよ。そうね、釣り糸が解けない時のクライブに似てる気がするわ。」
少女達は二人で笑った。自分達がどれだけ難しい顔をしても、わからないことがわかる訳ではないのだ。今日はごはんを食べて寝よう。
「ふう!なんか色んな話があって疲れたね。」
アスカが伸びをして言った。エールも真似をして両手を伸ばす。背中がポキンと鳴った。
「うん。あと、クライブに貰った剣があんなになってショック。帰ってきたら、怒られちゃうなあ。」
それを聞いたアスカがふんわりと笑う。
「打ち直してあげるわ。もう夕方だし、今日はうちにおいでよ。母さんも喜ぶわ。」
そう言われて、エールは西の山際が赤く染まり始めているのに気付いた。そもそも起きたのが昼過ぎだったのだ。
二人は並んで歩き出した。先程の不穏な話は、お互いなんとなく触れないようにしているようだった。出来るだけ明るく、楽しい話をするように努めた。
少しずつ伸びていく影がリィネ川にかかる。水辺に咲くセイレン草の花が、二人を見送るように揺れていた。




