異変2
エールはとても綺麗な場所に立っていた。
小さな石造りの真四角の部屋で、四隅に灯された水晶ランタンが、空間をほんのりと青く染めている。
部屋の中には四角い形に水路が走っていて、部屋全体にゆらゆらと水の影を映し出していた。まるで水の中の世界にいるようだ。
水路に囲まれた中央には祭壇があり、大きな水盤の上に美しい水竜の像が安置されている。水の精霊、セイレーネの像だ。
そこで、エールはセイレーネのほこらの中にいるのだと気付いた。クライブが旅立ちの日に話していたことを思い出す。彼の言っていた通り、神聖な雰囲気の漂う美しい場所だ。
石の水盤は清らかな水で満たされていた。水鏡に逆さまに映し出される精霊像の姿は幻想的で、まるで本物の水竜のようだ。今に泳ぎだすかもしれない…。
ぼうっとした気持ちで見とれていると、どこからともなく声が聞こえてきた。
「エール…。」
突然名前を呼ばれ、エールは驚いて背筋を伸ばした。
「エール…。」
銀のように澄んだその声は、しかし、どこか切実な響きを孕んでいるように感じた。
「誰なの?どこにいるの?」
声を上げ見回すが、声の主は見当たらない。
「エール…助けて…。このままでは…あなたのお兄さ…ふ…い…けて…せか……た………こ…に…。」
声が途切れがちになり、遠のいていく。
「待って!お兄さん、って…クライブに何かあったの!?」
それきり声は途絶え、静寂の中に問いかけだけが反響した。エールは磨かれた石の床に目を落とした。なんだか以前にも、こんなことがあったような気がする。どこからともなく声が聞こえてきて…。
考えていると、辺りが少し明るくなり、エールは顔を上げた。振り向くと、ほこらの入口の扉が開いている。明るい戸口に、黒い影が見えた。誰かが、入口の扉を開けたようだ。
扉を開けた人物は、ほこら内部に足を踏み入れた。ゆっくりとこちらに歩いてくる。
はじめは、人影が黒く見えるのは、外からの光が明るい為だと思っていた。だが近づくにつれ、そうでないと気が付いた。
その人物は、真っ黒なマントを羽織り、黒い革鎧に身を包み、黒鉄の兜を被っていたのだ。面甲を深く下ろし、黒い布の首巻きを口元まで引き上げている為、人相は全くわからない。そのあまりに異様な出で立ちに、エールは思わず身構えて後ずさった。
しかし、黒ずくめの人物はエールが見えていないかのように素通りすると、ゆっくりと石段を登り、セイレーネ像に向かい合って立った。
通り過ぎざま、エールは黒ずくめの人物が剣を二振り持っているのに気付いた。背中に両手持ちの長剣を背負い、腰にはエールが持つものより少しだけ長い剣を下げている。どちらも、柄と鞘は黒い布でぐるぐる巻きだ。
徹底的に黒が好きなんだな。そんなことを考えていると、その人は背中の長剣をすらりと抜いた。刀身に厚みのある、かなり重量級の剣だ。少し刃こぼれしている。その者は、大股に踏み出し、水盤に足をかける。水盤から水が溢れ、水鏡の中の精霊像がかき乱されて消えた。剣がゆらりと振り上げられ、黒の革手袋がぎしりと軋む。
ああ!この人は、セイレーネ像を壊すつもりなのだ!
「やめて!」
エールは思わず叫び、駆け出そうとした。
ゴンッ!
衝撃があった。急に目の前が明るく開けて、目を瞬く。
窓からは春のうららかな日差しが差し込み、心地よい風がカーテンを揺らしている。その窓辺の小さな鉢植えには、この春種を蒔いた数種類のハーブが芽を出していた。頭に微かな鈍痛を感じ、身じろぎしてやっと気が付いた。夢を見ていたのだ。
エールはベッドの脇に仰向けに倒れ、手を天井に向かって突き出していたのだった。
「いったぁ…。」
頭をさすり、体を起こす。
「なーんだ。夢かぁ。」
少女はほっと息を吐いたが、まだ胸はドキドキしていた。妙にリアルな夢だった。近ごろ心配ごとばかりしているから、あんな夢を見たのだろうか。
エールは自分の想像力に苦笑すると、立ち上がって、うんと伸びをした。水差しから水を飲み、濡らした手ぬぐいで顔を拭く。お陰でさっぱりしたが、どうにも気持ちが晴れないでいた。夢に見た光景が頭に残っていたのだ。
エールは首を振って、手早く着替えを済ませた。珍しく早起き出来たのだから、たまには朝の散歩も悪くないかもしれない。戸口を開けると、春の朝日が柔らく少女を包んだ。
ぶらぶらと歩いていると、向こうから髭面の大男が歩いてきた。家畜の管理をしているバーデンだ。
「おう、エール。こんな早くに会うとは珍しいな。」
彼はニッと笑った。バーデンは大柄な壮年の男で、肩幅が広く、黒い口髭はごわごわ。おまけに顎は割れている。いかにも怖そうな見た目だが、動物が大好きで、山羊には一頭ずつ名前を付けて可愛がっているらしい。
「おはよう。バーデンさんも、朝が早いね。」
エールが挨拶すると、バーデンは首をコキコキと鳴らした。
「いや、俺は夜の家畜の番をしてたのよ。今朝の当番と交代して、寝に帰るところだ。」
よく見ると、大男は目の下にくまが出来ていて、ますます人相が悪くなっていた。
「そっかぁ。お疲れ様。あれから、家畜達には何にもない?」
「ああ。だがしばらくは用心して続けようと思ってるよ。またヴォルゴスが入って来ねえとも限らねえからな。あぁ…可哀想なマリーにエレナ。毛並みの綺麗なレディだったのになぁ。」
バーデンが鼻を鳴らす。冬に襲われた二頭の山羊の名前らしい。小さな村にとって、家畜達は貴重な財産だが、彼にはそれ以上に大切な存在のようだ。
「おっと、いけねえ。また感傷にひたる所だったぜ。じゃあ、俺は帰るよ。邪魔したな。」
バーデンは一度鼻をぶんと鳴らして笑った。豪快に鼻水を掌で拭う。その手をどうするのかと見ていたら、なんとズボンでごしごしと拭いてしまった。
「ううん。私は仕事前にちょっと散歩してただけだから。おやすみ、バーデンさん。」
「お、エールは今から仕事か。見回り隊も、ここ最近は忙しいな。頑張れよ。」
今日は村周辺の林の見回りだ。少し歩いてから、そのまま仕事に出よう。バーデンと別れ、エールは東門の方へ歩き出した。
人と話したお陰で、随分と気が晴れた気がする。エールは歩きながらセイレン草を探したり、先ほどのバーデンとの会話を思い返したりしていた。ともすれば、ふいに今朝の夢が思い起こされるようで怖かったのだ。自然と足早になる。
一体、自分は何をそんなに恐れているのだろう。エールが苛立ち始めたとき、何やら二人の若者が言い合う声が聞こえて来た。東門の方だ。
「あ!エール!なあ、お前も聞いてくれよ!」
エールが近づくと、一人が興奮気味に声をかけてきた。
「シャッドの話は聞き流していいぞ。どうせこいつの勘違いだ。」
もう一人の若者が茶々を入れる。
「うるせえなマルクは!間違いなく、本当に見たんだって!」
マルクに話の腰を折られ、シャッドが鼻白んで叫んだ。
「何を見たの?」
エール苦笑して訊ねた。この二人は、いつも喧嘩ばかりしている。
「ああ、実はさ。俺、夜から早朝にかけて門番の係だったんだけどよ、もう眠くて眠くて、門の側をぐるぐる歩き回ってたんだよ。それでさあ、弟のアロクが、最近カエルが全然いないとか言ってたのを思い出した訳。でさあ…。」
「長い!さっさと話したまえ!」
マルクがまた横槍を入れる。
「話には順序ってもんがあるんだよ!黙って聞いてろ!」
再びシャッドが食ってかかった。
「それで?シャッドはカエルを探してたの?」
時々、話を戻してやらなければ、二人はお昼まで喧嘩していそうだ。呆れながらも、エールは少しホッとしていた。彼らのお陰で、気が紛れそうだ。
「ああ、そうそう。それでため池の辺りを眺めてたんだよ。カエル、いねえかなーって。で、ふと顔を上げたら、何を見たと思う?」
そこで、ラッドは勿体ぶるように一息ついてから言った。
「ため池の側に兜を被った、黒いマントの男が立っていたんだよ!」
どくんとエールの胸が鳴った。
「声をかけようと思ってさ、近づいたんだけど、見失っちまって…。絶対、怪しいやつだぜ!悪いやつだぜ!」
「そんな目立つ格好の奴を、何故見失うんだ?それに、何故男だとわかる?」
興奮気味に話すシャッドに、マルクが呆れたように腕組みをする。
「さっきから、うるせえなぁマルクは!あんな格好の奴、男に決まってるだろ!それに、夜明け前で暗かったからよ。」
「ならば、木の影か何かと見間違えたんだろう。」
「なにー!?」
二人が言い合う声を聞きながら、エールの胸は不安に高鳴り始めていた。セイレーネのほこらへと続く山道を見上げる。
シャッドが見た人物は、今朝夢に出てきた剣士ではないか?深く下ろした兜の面甲。夜を纏ったようなマント。振り上げられた剣。この目で見たかのように覚えている。あの者が、もし実在するとしたら。
「ただの夢じゃなかった、とか…。」
思わず、小さく呟く。
「ん?エール、何か言ったか?」
「ううん。何でもない。」
エールは急いで首を振った。馬鹿げた話だ。誰かに話しても、きっと笑われるだけだろう。
「マルクは門番の交代に来たんでしょ。シャッド、夜の番で疲れたんじゃない?」
笑顔を作ると、努めて明るくそう言った。
「お、そうだった。帰って寝るか。おいマルク、あれは見間違いじゃないからな! レーベルさんも、村長に報告しておくって言ってたし!」
「わかったから、早く帰って寝たまえ。」
「ちぇっ。わかってるよ!」
シャッドはまだ口を尖らせていて、ぶつぶつ言いながら帰っていった。
「シャッドは、相変わらずそそっかしいね。」
仏頂面のマルクに、そう声をかける。
「ああ。だがシャッドはあれで、剣の腕は立つ。私ほどではないがな。」
エールは小さく笑った。以前、シャッドがマルクについて同じ評価を言っていたのを思い出したのだ。
「じゃあ、私は見回りの仕事に行かなきゃ。門番、頑張ってね。」
手を振って歩き出す。前を向いたその顔は、もう笑っていなかった。エールは密かに決心していたのだ。
居ても立っても居られなかった。どうしても確かめずにいられない。セイレーネのほこらに行ってみよう。
エールは一人、泉へ向かう山道を歩き出した。




