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異世界転移系ファンタジー短編集【家族】

神の声は『妹』でしたっ! ~異世界は妹の箱庭シティ~

作者: 3ツ月 葵

「うっ……、うぅ~ん。」


 俺は酷い頭痛に襲われて目が覚めた。


「イタタタタタッ…! えーっと………。」


 酷い頭痛の所為か自分が何をしていたかも思い出せず、靄がかかった様な朧気な状態の頭で考えようとするがブルリと身が震えだし、寒気が先にたって思考が中断された。


「寒いな……。ここは何処なんだろう…?」


 自分が今置かれている状況も分からず、むくりと状態を起こすと両腕を組んで自らの体を擦って温めようとした。

 そうして数分が経つと頭痛は次第に治まっていき、頭の中の靄も晴れてきた。

 思考に余裕の出てきた俺は、キョロキョロと辺りを見回しながら立ち上がろうとした。


「おや? 兄ちゃん、そんな所で何をしてるんだい?」


 明らかに俺に向けられたであろうその声のする方へと俺は顔を向けて見た。


「服装からしてまだ無事なようだが……、路地裏になんか居たらおっかない連中に捕まって酷い目にあっちまうぞ。」


 そう俺に忠告してきたのは初老の男であった。


「…路地裏……?」


 何のことか分からずに、ポカーンとしながら自分が今いる場所を確認した。

 よく見ればここは明らかに治安が良いとは言えない雰囲気を醸し出しており、チョロチョロと虫の這う道は裏社会の住人が取引にでも使っていそうなほど薄暗かった。


「ヒイッ!」


 あの手の害虫と世間一般で称される虫の嫌いな俺は、視界にそれが入るや否やバタバタと慌ててその路地裏から這い出た。


「うわっ! 眩しっ……!」


 顔を上げ、暗い路地裏に慣れていた俺の目に一番に映ったのは太陽の眩しい光であった。

 目をシバシバと瞬きさせて明るさに少し慣れた頃、俺は驚きの声をあげた。


「エッ!!」


 そこにあったのは全く知らない風景であった。

 先程の初老の男にここは何処なのかと尋ねようとしたがもう既に立ち去った後であり、ただただ俺は目の前の風景を見ていた。


「オイッ! 邪魔だよおっさん。」


 ボーっと突っ立ってしまっていた俺の横を通り過ぎながら体にぶつかってきて、チッと舌打ちをして高校生ほどの少年に文句を吐かれた。


「あっ………!」


 気付けば俺の周りには多くの人間が行き交っており、文句を吐いた少年以外にも横を通り過ぎざまに俺を怪訝そうにジロジロと見ている視線が多くあった。


「警察……呼ぶ?」


「えっ? でも…、下手に関わるのは止めた方が良いんじゃない?」


 そんな声がザワザワと都会の喧騒の中に交じって聞こえてきたので俺は嫌な予感を覚え、人の少ない場所に移動しようと人と人の間を抜けながら走り出した。


「ハァ……、ハァ……、ハァ………。」


 どこに何があるかも分からぬ場所で俺は道を右へ左へとグルグルと曲がり息を切らせながら走り続け、暫くすると少し開けた人の殆ど居ない静かな公園らしき場所へと辿り着いた。


「ここでなら少し落ち着いて考えることが出来るだろう……。」


 そう思い、ブランコの向かいに設置されてあった青いベンチへと腰を下ろした。


「ハァ~……。俺は一体………。確か…、俺はリビングでお菓子を食べながらテレビを見ていて……、そうしたら大きな地震が………。ハッ! 沙織! 沙織は何処だ!?」


 このおかしな状況になる前の事を漸く思い出せた俺は地震にあい、同じリビングに居た妹の沙織が天井まである大きなディスプレイラックに下敷きになりそうだったのを助けようと動いたという記憶が蘇ったのだ。

 自分が倒れていたあの路地裏には確かに自分一人しかいなかった……、ならば沙織は………。


『う~ん……。ここをこうするとどうしても渋滞が起きちゃうなぁ………。メトロポリスまでは簡単だったのに難しいなぁ………。』


「沙織!? 沙織の声なのか? 何処に居るんだ?」


『えっ? お兄ちゃんの声? なんで………。だってお兄ちゃんは………。』


「俺はここにいるぞ!」


 姿の見えない沙織に向けて俺は叫んだ。

 すると、「お兄ちゃん!」という驚きの声とガタタッという椅子が倒れた様な音がした。


『どうしてゲームの中にお兄ちゃんがいるの!?』


「……えっ!?」


 2人して驚きの声を上げ、俺の最後の記憶から今に至るまでを話すと共に妹が驚いたわけを聞いた。


「そうか……。あの地震があった日から今は1週間が経っていて、俺は沙織を庇った時に倒れてきたディスプレイラックの下敷きになって入院。そのまま俺は昏睡状態となって、もう1週間も目を覚まさずに眠り続けているわけだな?」


『そう……。幸い地震は大したこと無かったんだけど……。』


「だが、これがゲームの中だと……。ありえない。俺にも普通に話しかけてきた人がいたし……。丸っきり“本物”だとしか思えないのだが………。」


『でも、私がゲームをしているパソコンの画面の中から声が確かにお兄ちゃんの声がしているんだよ? まさかお兄ちゃんの好きな“異世界”に飛ばされたとでも言うの? そんな、まさかだよ。いくら今こんなおかしな状況だからって、大学生にもなって何言ってるの?』


 4歳違いの沙織とは今でも仲が良く、俺がラノベやアニメ、特に異世界モノが大好きなことをよく知っていて、涙声の奥から俺にからかい半分で突っ込んできた。


「いや……、異世界と考えれば色々と合点がいくな。沙織がゲームで作った街がそのまま異世界として存在し、地球とは別次元で存在する異世界と沙織のパソコンごと繋がっているんじゃないかな?」


『まっさか~ぁ! でも……、あの日から目を覚まさなくなったお兄ちゃんと画面越しとはいえ、またお喋りができるのは嬉しいな。フフッ。』


 驚き沈んでいた様子であった沙織から少し楽しそうな笑い声が聞こえたので俺は安堵した。

 沙織は幼い頃から俺の後ろをついて回ってた“お兄ちゃん大好きっ子”だったから相当落ち込んでいたんだろう。

 でも、こんなことじゃダメだと何とはなしに沙織は自分が大好きな「街を開発するシミュレーションゲーム」を起動させた。

 するともう二度と聞くことが出来ないと思われていた兄である俺の声が聞こえたのだから、それはもう嬉しいやら驚いたやらであったんだろうな……。


『よしっ! これで良いっかな~。』


「ん? 何をしているんだ?」


『今の状況がすぐにどうにかならないならならないで、もう二度とお兄ちゃんを見失わない様にマーキングを付けているの。』


「マーキング?」


『そうだよ! このゲームはね、気になる住民キャラが居たらマーキングって言って印を付けておいていつでも検索してすぐ見つけることができる機能があるの。画面端にある街の小さな地図に印が表示されるから何処に居ても見たら一発だよ!』


「ハハハッ………。なんか監視されているみたいだな……。」


 沙織の嬉しそうな様子が聞けて俺も嬉しいのだが、妹にプライベートを細かに覗かれるんじゃないかとお年頃の男としては何とも言えない気持ちになった。


『監視だなんて……。今は偶然見つけることが出来たけども、次はお兄ちゃんを捜しても見付けることが出来ないかもしれないんだよ? 何しろこの街は人口40万人超えのメトロポリス。結構大きな大都市なんだからね!』


「ヒェッ! 東京みたいじゃん。」


『東京って言うよりもニューヨークとかパリなんかの欧米っぽい街をイメージして作ってあるんだぁ~。それでね、このマーキングを付けておけばお兄ちゃんも迷子にならなくて済むから便利だよ。』


「あ、あぁ……。そうだな…。」


 沙織の跳ねる様なうれしそうな声に、俺はモヤっとした気持ちを抑えて了承するしかなかった。

 まぁ、四六時中見ているわけじゃないのだし、何とかなるだろうと思ったのだ。


『そうだ! そういえばお兄ちゃん、これからどうするの?』


「どうするって?」


『寝泊まりとかさ……。その世界のお金を持っているわけじゃないし、食べ物だって買えないよ?』


「あっ………!」


 そう……、色々とあってうっかりとしていたが空は夕焼け色になりつつあった。

 暮れてしまう前に宿なりを見つけて寝起きする場所を確保しなければならないし、食事も……。


『え~っと………。』


 どうしたものかと俺が考えていると、沙織の声と共にカチカチというパソコンを操作する音が聞こえた。


「何してるんだ? 沙織。」


『あのね、確か……。あぁ、あった! あった!』


「ん?」


『前にゲーム内イベントで“低所得者の為の市場”っていう建物を建ててたの。その場所を探してたんだけど……、ちょうどそこから西に行った所にある通りにあるはず。ゲームの説明文から察するに、そこに行けばいくつかの食べ物はただで貰えると思うよ。あとは家ね……。』


 俺は沙織の声が聞こえてくる空をポカンと眺めながら言われた通りの場所へと歩き始めた。


『ちょっと中心部からは外れた場所になっちゃうけど……、街の外側の方にはまだ空き地があるし。お兄ちゃんの家、私が建てておいてあげるよ。ちょうどコレと同じシリーズの箱庭ピープルってゲームと互換性を持たせれる拡張パックを買ったばっかりだったからさ。箱庭ピープルで作った家をそのままこの街に建てれる様になるんだよね~。この家のシミュレーションキャラをお兄ちゃんに設定すればお兄ちゃん以外の住民は住むことができないしっ!』


 ゲームの中の俺と話をしていると段々とゲーマー魂に火でも付いたのか、次第に沙織の声はウキウキと弾んでいった。


『なんか……、こんなことになっていて不謹慎なのは分かっているんだけど……、ゲームの中だけのことだったのが、リアルにお兄ちゃんが私の作った街を歩いていて、私の作った家に住んでもらえるなんて……、すっごく楽しくなってきちゃったっ!』


「お兄ちゃんとしては、妹にそこまで喜んでもらえるだなんて光栄だよ。」


 何が起こったのかも分からず、異世界………兄が死んだかもしれないと思っていた沙織からすればゲームの中の世界に着の身着のままで放り込まれた状態となった俺が、いつまでか分からぬ時を生きていかなければならなくなったこの世界で、妹の助けを得られるだなんて喜ばしいことだ。

 沙織のことだから、本当は沙織がディスプレイラックの下敷きになって入院したであろう筈のところを俺が庇った所為で自分は助かってしまったのだと自分を責めていそうだなと、雰囲気からなんとはなしに感じ取っていた。

 だが事実は変わらなくとも、俺の体は今も入院していて昏睡状態というわけではあるが、ゲーム画面の中と外というありえない状態でも普段と同じ様に話しができることに安堵し、少しでも楽しそうにしている妹にホッとしていた。


「おーい、沙織~。」


『ん~? なぁに~? お兄ちゃん。』


「“ご来店の際は住民票をご提示ください”って入り口に書いてあるぞ~。」


 沙織の言われた通りに“低所得者の為の市場”という所に来たが……、俺にはこの世界での住民票というものは存在しない。


『あぁ~、そっかぁ……。そういうのがあるんだね。』


「沙織は知らなかったのか?」


『ゲームの中にそんな細かい“設定”があるだなんて知らなかったよ~。』


「“設定”、か……。」


 俺が今いる場所がゲームの中だと思っている沙織からすれば単なるゲーム上の設定なのだろうが、そう考えればおかしな話である。

 街を作るというシミュレーションゲームを作る上で関連性の無い、そんなどうでもいい様な細かな設定を果たしてゲーム会社は作るだろうか……。


『まだ間に合うかな……? そこから北へ行って2つ目の十字路を右に曲がって東へずーっと歩いていくと教会があるの。その教会でボランティアがホームレスへの炊き出しをしてるから、今日のところはそこへ行ってみるといいよ。』


「ホッ……ホームレス!?」


『だって仕方ないじゃん。その街ではお兄ちゃんに今は住民票は無いし、ホームレスと一緒だもん。大丈夫だって!』


「まぁそうだが……。」


 そう促され、グゥ~と情けない音を奏でるお腹をなだめる為に俺は教会へと向かった。

 教会へと着くと、敷地内には沙織に言われた通りにシスターやボランティアと思われる人たちが炊き出しを行っており、ここへと集まってきたホームレス達が行列をなしていた。


「おぉ!」


 俺もその行列へと並ぶと、「神の御加護をお祈りします…。」とシスターにニッコリと微笑みながら言われ、具沢山のスープが入った器と少し硬い小さなフランスパンの様な物を渡された。

 手に持つ器から伝わるスープの温かさに俺は実感した。


「俺は確かにここに生きている……。生きているんだ。」と………。

 俺は教会内の敷地のあちこちに置いてあるベンチの中から一つを選び、そこに座ってスープを啜った。


「美味しい……。」


 この世界で初めて口にした食べ物に今まで感じたことが無い様な感動を覚えた。

 今までは何も考えずに食べ物なんて口にしていたが、ここまで温かい食べ物をありがたいと思ったことなんてなかった。

 さして豪華というわけでもなく質素な塩味の野菜スープでしかないが、ただ温かいというだけで何でこんなにも美味しいのだろう……、何でこんなにも嬉しいのだろう……。

 先程の“低所得者の為の市場”の様に、この街での住民票が無ければ出来ない事はきっとたくさんあるんだろうから早く取得せねば……。

 そんなことを考えていると、少し遠くの方から沙織の鼻歌が聞こえてきた。


『お兄ちゃん! 家の準備できたよ~。』


 スープを食べ終わりかけた時、暫く鼻歌が聞こえていただけで何も喋りかけてこなかった沙織の声が聞こえた。

 俺が普通に「ほ~い。」と空に向かって返事をすると、周りにいた他の人たちは変な物でも見るかの様にこっちに一斉に視線を向けてきた。


「えっ?」


 何事かと狼狽える俺に向かってクスクスという幼女の笑い声が聞こえてきた。


「ママ~ぁ。あのお兄ちゃん、誰も居ないのにお空に向かってお話ししているよ~。変なの~。」


「こらっ! 見るんじゃありません。」


 母親らしき人が幼女を叱っている場景を見て、俺は理解した。

 沙織の声は俺にしか聞こえないのだということを………。

 理解してから改めて今までのことを思い返してみると、俺は傍目から見るとどう見てもとても怪しいと思われる行動をしていた。


「やっべ~!」


 俺は右手で口を押さえて下を向き、思わずそう呟いた。


『お兄ちゃん?』


 この世界での会話や細かな状況を把握できないらしき沙織は俺が何も言わなくなったのでどうしたのかともう一度呼び掛けてきた。

 とにかく……、とにかくこれ以上怪しまれない様にと、残り僅かとなっていたスープとパンを急いで口に押し込めてからシスターたちに器を返し、教会をあとにした。

 そうして俺は怪しまれずに沙織と話をする為に、さっきまで居た人気の殆どない公園へと急いで戻った。


「さ、沙織……。すまん。」


 周りに人がいないのを確認すると、急いで走った所為で息絶え絶えになりながらも沙織にまずは謝った。


『どうしたの? お兄ちゃん。何も喋らなくなったと思ったら突然公園まで走り出して……。』


 そう問いかけられ、俺は先程あった事を説明した。


『そうなんだ……。私の声ってお兄ちゃんにしか聞こえないんだ……。』


 考えてみれば至極当然のことなのかもしれない。

 この街にとって、世界の創造主たる沙織は神様も同然の存在なのだ。

 神様の声が当たり前に聞こえているなんてありえないし、俺がこの世界の住民でない異質な存在だから聞こえているだけなんだろうなと思った。


「俺にとっては“神様”じゃなくって、ただの“妹”だしな……。」


『ん? 何か言った?』


「ん~ん。なんでもない。……まぁ、だからな。他の人に怪しまれない為にも、沙織と話をするのは人気のない場所だけにしておくよ。」


『そうだね~。私と話をした所為で不審者だと思われて警察に捕まっても私も嫌だしね。』


 やっと楽しそうな雰囲気になっていた空気が沈み込み、声から沙織のテンションが低くなっているのを感じ取れた。


「まぁ、そういうことだ! ……で! 沙織、俺の家の方はどうなったんだ? 連れて行ってくれ。」


『あぁ、そうそう! お兄ちゃんの家、良い物ができたよ~! えーっとね~場所は……。』


 「私の所為で……。」と、責任を感じて落ち込みやすい沙織を元気づかせようと、俺は明るく話しかけて助けをお願いした。

 それから妹に案内されて辿り着いた俺の家は所謂ところの豪邸というものであった。


「えっ? いや……。これ、本当に俺が住んでも良いのか? 大丈夫か?」


『大丈夫! 大丈夫! ほらっ! 中も入って、見て見て。』


 そう沙織に言われるがまま中へと入ると、これまたビックリするセンスの調度品や家具類にあふれていた。


「なんか成金っぽいセンスだな…。特にこのキラキラした壁掛け時計とか。」


『アッハッハッ! いいじゃん! ゲームの中の世界だし、いっそのことこれぐらい振り切ってた方が楽しいかなと思って……。まぁ、リアルに住めって言われたら私は絶対に嫌だけどね。フフッ!』


「それなのに俺に住めというのか? 何という妹かっ! コノッ!」


 俺と沙織は笑いながらいつもの調子でじゃれる様に会話した。


『あっ…、と………。もうこんな時間。そろそろ私、お風呂入って寝るね。ディスプレイは一応スリープにするけど心配だからパソコンの電源はつけっぱなしにしておくし、何かあったら私を呼んでね。』


「おうっ! 了解。ありがとな。おやすみ。」


『おやすみ、お兄ちゃん。』


 いつもの様にそう返事を返すと、数秒後にドアがバタンと閉まる音が聞こえた。


「俺も、風呂にでも入ってくるか……。」


 今日一日あっちこっちへと歩いて埃っぽくなっていた体を、洗ってスッキリとさせようと俺は風呂場を探した。


「沙織のやつがやっているのを見たことある程度でゲームの仕様とかは詳しくは知らないが……、風呂場はまともであると良いな。」


 この家に入ってまだ玄関とリビングしか見てはいないが、いかにもな成金っぽいセンスをした物ばかりが並べられ、そのキラキラさ加減に俺はちょっと落ち着かなかった。

 風呂場らしきマークの付いたドアをドキドキしながら開けると……。


「ホッ……。なんだ……、割と普通じゃん。普通でいいんだよ普通で…。」


 物心ついた時から馴染んでた家の風呂場よりかは少し広めではあるが、心配していた様な物は見当たらなかった。


「振り切って…とかさっき言ってたから、リビングと同じ様な感じで金ピカのライオンが口からお湯を吐き出してるのとかもしかしたらあるんじゃないかとちょっと怖かったけど……安心したわ。これならリラックスできそうだな。」


 俺は胸をなでおろし、既に浴槽にはお湯が溜められていてモクモクとあがる湯気の中、すぐさま入ろうと脱衣所で服を脱いだ。


「あっ! そうだ……。脱衣所に洗濯機はあるけど、タオルと着替えはどうしよう……。」


 と思ったのもつかの間、どこかにあるかなと洗面台と洗濯機の間にあるキャビネットの扉を開けるとそこには白いバスタオルが数枚と白いバスローブが2つ置いてあった。


「沙織が置いておいてくれたのかな? 気が利くじゃん。これで問題なく風呂に入れるな。」


 俺は脱いだ服を洗濯機に放り込み、スイッチを入れると風呂場に移動した。

 シャワーを浴びて今日の汚れを落とすと、ザブンと湯につかる。


「ふぃ~……。一人だから何の気兼ねもせずに入れるって良いなぁ~。浴槽に湯は既に溜められていてタオルもあるし、ボディーソープやシャンプーもある。今の所困ること何もないな……。」


 一時はどうなる事かと思ったが……、温かい風呂に浸かれて布団で寝れる家もあるという事はとても落ち着いた気持ちになれる。


「どこで取得できるのか分からないが、たぶん市役所みたいなものがあるはずだ。明日はそこでまずは住民票をもらわないとな……。そして生活費を早急に稼がねばっ! 今はこの街のお金を一銭も持っていないから日払いですぐに働ける所を探さないとだし……、明日は忙しくなるなぁ…。」


 そこでふと思い出した。

 教会で行っていた“ホームレスの為の炊き出し”には幼い子供を連れた親子や家族らしき団体がちらほらと居たということに……。


「いくらなんでも家族総出でホームレスとかありえないと思うし……。何か訳ありなんだろうか……。明日はそういう疑問も含めてちょっと調べてみるかな。」


 俺は風呂からあがるとふわふわのバスタオルで体を拭き、バスローブを着て寝室を探した。


「寝室……。寝室は、と……。それにしても、この家は部屋の数が多いな……。」


 風呂場とトイレは分かり易い場所にあり、割と早くに見るけることが出来たがたくさんあるドアの中から寝室を探すのは大変だった。

 ガチャっとドアをいくつ開けても寝室はなかなか見つからない……。

 フィットネスマシンの並んだトレーニングルーム、壁一面の本棚にびっちりと本が詰まった書斎、ガラス張りの天井に大きな望遠鏡を設えた天体観測ドーム、大きなスクリーンにスピーカーが目立ったシアタールーム、等々………。


「さすが沙織設計の豪邸だな……。プッ! アッハッハッハッハッ! 金持ちの家にありそうって思えるものを全部詰め込みやがって…、面白いことをしやがる。でも俺は庶民だし、使わないと思うがなぁ。」


 そうして寝室を探してドアを何度目か開けた時、漸く主寝室を見付けて眠りにつくことが出来た。


「ハァ……。今日は疲れ、た………。」


 翌朝日が昇り、窓からベッドにまで差し込む陽光と小鳥の鳴き声に自然と目が開き、久しぶりに心地良く目覚めることが出来た。


「ウゥ~ン……。ふわ~ぁ……。よく眠れたな………。」


 俺は体を起こすと目を瞬かせ、ボーっと焦点の定まらぬままキョロキョロと周りを見渡した。


「あぁ、そうだった……。俺は………。」


 寝起きの頭に飛び込んできた見慣れぬ景色に昨日のことを思い出し、理解した。


「とりあえず顔でも洗ってから昨日できなかったこの家の中の確認をして、後はその辺でも散策して情報収集でもする事にするか……。」


 ベッドの脇にあるナイトテーブルに置いてある目覚まし時計を見てみれば、まだ朝の8時であった。


「街の動く時間が元居た世界と同じだと仮定すると、まだ何をするにも少し早いしな。」


 俺はベッドから出ると昨夜の脱衣所へと行き、放り込んでおいて乾燥まで終わった服を洗濯機から出して着替えて身支度を整えた。


「さて……、ちょっくら探検でもしてみますか。」


 昨夜とは違って明るい陽光の差し込む家の中を改めてみると色々と発見があった。


「あぁ、昨日は気が付かなかったがリビングには暖炉があったんだな。」


 全体的に現代的というか近未来感を思わせるテイストの家にアンティークな匂いのするデザインの暖炉が部屋の中に溶け込み、なかなか良い味を醸し出していた。


「ダブルベッドが2台置かれた部屋が1・2・3部屋……。これは客室かな?」


 同居人も、この街には知り合いだって居ないのに客室が3部屋とは……、何とも豪華である。

 続いてキッチンへと行き、この部屋にある扉と引き出しを全て開けてみたが……何も出てこなかった。


「泡だて器にフライ返し、お玉にターナー、ポテトマッシャー、ザル、ボウル、ハンドミキサー………、調理器具はいくらでも出てくるんだがなぁ……。やっぱり肝心の食べ物や飲み物は出てこない、か……。」


 しかし、壁際に備え付けられた俺の腰ほどの高さのキッチンカウンターの上にずらずらと並べられているいくつもの最新式の調理家電を弄っていると思わぬ発見があった。


「おっ!?」


 スチームオーブンに電子レンジ、ホットプレートやフードプロセッサーにトースター……。

 色々と置いてあったが、中でも一番エスプレッソマシンに驚いた。


「豆も水も何も入れていないのにスイッチ一つでコーヒーが出てきた……。凄いな…。さすがゲームの世界といった所か……。」


 食器棚から俺はカップを出してマシンからエスプレッソを注いで飲んでみた。


「うん。苦いけど美味いな……。甘いものが食べたくなる味だな。フッ……。」


 飲み終わると対の壁際にあるシンクでコップを洗い、キッチン以外の部屋へも更に調べに向かった。


「地下室にワインセラーがあったのは驚かなかったが、その横に“災害時の避難室”とドアに書かれた見るからに頑丈そうな部屋があったのは流石にちょっと驚いたな……! こんな世界にどこかからか核でも降ってくるとでもいうのか?」


 あんな部屋が用意されているというのだから、何かしらの脅威というものは存在しているのだろうが……、怖いな。


「まぁ、何かあったら沙織に聞けば分かるだろうし、今は目の前の問題を片づけることにするか……。」


 俺は家の中を残らず探検し終え、沙織が用意してくれたこれから長い事住むであろう自分の家についてを把握した。


「さて、と……。9時過ぎか……。」


 リビングの壁掛け時計にチラリと目をやり、程よい時間になったのを確認すると俺は家を出た。


「街も起きて動き出した時間だ! 道に迷ってでもいいから、街の中心部を目指して聞き込みをしながら行ってみるかっ。」


 都会とはいえ、俺の良く知る世界とは別で、朝の空気は清々しく気持ちの良いものであった。


「これならいくらでも歩けそうだなっ。」


 そう俺に思わせてくれるほど天気も良く、空腹も忘れるほどに足取りは軽かった。

 怪しまれない様にと、道に迷ったふりをしては何度か道行く人に中心部までの道を尋ね、1時間ほど南西へと歩いていくと漸くこの街の中心部だと思われる大きな駅の有る場所へと着いた。

 駅前には立て看板の様にして俺の身長の3倍以上はある大きな地図が設置されており、そこに書き込まれていた案内図から今日行くべき場所をやっとハッキリと認識することが出来た。


「よしっ! “サオリシティー・住民中央管理センター”……ここだな。」


 街の名前が妹の名前そのままという事に、少し口の端が綻んだ。


「それにしても捻りがないよなぁ。自分の名前をそのまま街の名前に付けるだなんて……。ゲームなんだから沙織ももうちょっとカッコいい名前にすれば良いのにな……。フフッ…。」


 そんな事を考えながらすぐ傍にある“サオリシティー・住民管理センター”という所まで歩き、朝一番で開庁されたばかりの人の少ない建物の中へと入った。


「イラッシャイマセ。オ客様、本日ハ ドノ様ナ ゴ用件デショウカ?」


「うわっ!」


 キョロキョロと目指すべき窓口を探していた俺は、突然自分に話しかけられた声に驚いて尻餅をついてしまった。


「オ客様?」


 自分に投げかけられた声の主は目の前に移動し、それは俺の背丈の半分ほどの大きさのロボットであった。


「案内用ロボット、か……。凄いな。未来感半端ないな……。現実では未だに“番号札を取ってお並びください”だもんな~ぁ。しかも役所の中は複雑で、用事も済むまでにかなり時間かかるし……。」


「オ客様? ゴ用件ヲドウゾ。」


「おぉっと! 用件、な……。住民票が欲しいんだ。案内してくれ。」


「承知シマシタ。ゴ案内イタシマス。」


 ロボットは俺の言葉に返答すると、スゥーっと俺を導く様に動き出した。

 俺はロボットに案内された窓口まで行き、“この街に昨日引っ越してきた”という事にして受付のお姉さんに話をし、いくつかの質問に答えた後に本日の最大ミッションである住民票を発行してもらった。


「では、こちらが住民票の映しとなる“住民登録カード”です。銀行口座とも紐づけしていて、給与振込・買い物をした時の決済などに使えます。大事な物なので大切にして絶対に無くさない様にしてくださいね。」


「はい。ありがとうございます。」


 このお姉さんの説明によると、このカードは単なる身分証明書というだけでなく、いわゆる電子マネーカードとしても使えるという事らしい。

 どうやらこの世界には紙幣や硬貨といったリアルなお金は存在せず、全てがこの“住民登録カード”を通して使える電子マネーで動かされているらしいのだ。


「住民票を作りに行くと同時に自分専用の銀行口座も開設できるのか……。便利だけどちょっと怖いな……。この街の治安はそれほどまでに安全だと思っていいのかな……?」


 そこまで考えたところでハッとした。

 昨日、路地裏に居た時に初老の男に「そんな所に居たらおっかない連中に捕まって酷い目にあうぞ」と言われたことを思い出した。


「いや、都会であればあるほど人間は多くなって犯罪率も高くなるからな……。気を緩めることなく気を付けねばな。」


 と、首をブルブルと振って身を引き締めた。


「さて、あとは仕事だな……。元の世界でも短期でちょっとしたバイトをしたことがあるぐらいなのに大丈夫かなぁ……。仕事らしい仕事ってしたことないんだよな~ぁ……。」


 そんなことをブツブツと呟きながら、仕事を探そうと住民中央管理センターを後にして街を歩いていると、パッと視界の端からバイト募集の張り紙が飛び込んできた。


「ん? この店か?」


 張り紙に近づき、その上を見ると偽物の大きな立体的なドーナツを冠した看板が掲げられてあった。


「ドーナツ屋か……。日給も……なかなかに良いし、ここは人通りの多そうな場所だし、客も多そうだ。……すいませ~ん!」


 ガチャリとドアを開けると、外観と同じ様にまるでシルバニアファミリーの様な内装であった。

 表の張り紙を見たというとこの店の店長が出てきて、そのまま面接となってトントン拍子にバイトが決まった。


「じゃあ明日からということで……。よろしく頼むわね。」


「は、はいっ! ありがとうございます。ではまた明日に……。」


「また明日ね~。」


 まさかである……。

 こんなにもアッサリと決まってしまっていいのだろうかとちょっと信じられないでいた。


「タブレット端末みたいな機械にピッと通して“住民登録カード”をお店に登録しなきゃならないの以外は普通のと同じだったな……。しかも画面に住民中央管理センターで登録した個人情報が一切隠されることなく出てくるし……。ビビったのは結婚・離婚歴や子供の有無、犯罪歴や体のサイズまで出てくるところだな。」


 カード一枚であらゆる個人情報が包み隠さず知られてしまう事に少し身震いを覚えた。

 「プライバシー侵害が……。」と個人情報を開示させる事が犯罪になったり、保護を訴える運動が盛んだったりしていたのが当たり前だった世界に生まれ育った俺には衝撃と戸惑いしかなかった。


「便利になるという事と個人情報が守られるという事は相対することなのか……。ともあれ、今日中にしなければならない本日の最大ミッションが2つとも済んだことだし、昨日沙織に教えてもらった“低所得者の為の市場”って所に寄ってから帰るか……。空腹が限界なことだしな。」


 と、俺はドーナツ屋の店長に土産として持たされたドーナツが2つ入った紙袋を持って買い物に行くことにした。

 昨日とは違い、“住民登録カード”を持った俺は“低所得者の為の市場”の中へと入ることが許された。

 ここでは“住民登録カード”に記載された所得に応じた買い物ができるというシステムらしい。

 勿論自由に何でもというわけではなく、店側に決められた品物のみという事になるのだが、収入が0やほぼ0に近い者だとタダで食料が手に入るのだ。

 その他にも所得の段階に応じて買える物は増えていくがいずれも安く、運営は大手の食品会社による寄付や税金で賄っているという……。

 俺は勿論まだ収入は0なのだが、仕事先が決まっているという事でお祝いにとソーセージの缶詰を渡され、「頑張ってね。」と俺の対応をしてくれたこの店の店員に励まされた。


「この街の通貨はサオリオン…。この街はけっこうな都会だから物価もそれなりに高くて……、一か月の食費が……、でも雑費も含めて生活費はだいたい14万もあれば暮らしていけるって言ってたな。一か月で20日以上働いてはいけないって条例があるらしいから…、だいたい週に5日か……。ドーナツ屋の日給が7千サオリオンだから……。うん。なんとかなりそうだな。」


 今日得られた情報から一か月の生活費を指を折って計算しつつ、家路へと着いた。

 家に着いてからはエスプレッソを入れてドーナツを食べつつ、“サオリシティー・住民管理センター”で貰って来た「これからサオリシティーで暮らす皆様へ」という冊子を読んだ。


「へ~ぇ。なるほど……。昨日の炊き出しで見た家族連れは、近隣の街からあの日に引っ越してきたばかりの人ってことなのか……。この街に来たばかりだから家も仕事もなく炊き出しに並んでたんだな……ほぅほぅ。この街は働ける場所も多くあって、仕事を探して移住してくる人が多いと……。おぉ! 税金もそれなりに取られるがある一定のラインから下の所得からは取らず、“低所得者の為の市場”を始めとして福祉もしっかりしてるな。」


 そして最後のページには市長からの挨拶が近影と共に載っていたのだが……。


「なんだこりゃ?」


 そこには“サオリ”という名前と金髪碧眼の美少女キャラクターの絵が描かれてあった。


「そういえば市長になって街を作って発展させていくゲームだって沙織が言っていたな……。それで沙織の名前があるのは分かるが、これは……ちょっと……ないな。プッ!」


 ゲームの最初に沙織が設定したキャラクターなのだろうが……まさかの絵に笑いが止まらなかった。


「ハ~ァ……。笑い過ぎて腹が痛いな……。ふぅ………。」


 俺は落ち着く為にもう一杯飲もうと、エスプレッソのおかわりを入れてリビングへと戻ってきた。


「しかし、この世界に俺、いつまで居ればいいんだろうな……。飛ばされたのが魔法がある様な世界なら巷にあるラノベやアニメよろしく戻れそうな気も湧いてくるんだが……。いたって普通の街だ。戻る為にはどうすれば良いのか、手がかりさえ手に入りそうな見込みもなく、さっぱりどうしたらいいものなのかも分からない……。」


 今、俺がいるこの世界は元の世界よりは未来的で便利な街……、ただそれだけだった。

 平凡なただの大学生だった俺がこの世界で働いて生きてゆかねばならないのは不安だ……。

 運が良ければ、いつの日か戻れるその日まで………。

 だが、ひょっとしたらもう二度とあの場所へは戻れないかもしれない。

 昏睡状態で入院中ではあるが元の世界でまだ俺は生きているし、ここに俺は確かに存在しているから幽霊にでもなっているわけではない。


「現状、俺はもう死んだとも、まだ死んでないとも言えない状況ってことだ……。今は沙織ともゲーム画面を通してではあっても会話ができているが、いつの日かそれもできなくなってしまうかもしれないし……。こんなおかしな状況に巻き込まれたんだ。シャボン玉が弾ける様に突然俺が完全に消滅してしまうっていう可能性だってあるんだよなぁ~。」


 でも考えたところで何かできるわけでもないと半ば諦めるしかなく、元の世界に帰れる方法を探してどうにかしようと足掻いては見るみるつもりだが……、この先どう転ぶのかはまだ分からない。


「帰れるという希望は失いたくないが……、やがて妹と話せなくなったとしても、完全に帰れる見込みが無くなったとしてもこの世界に生きていることに絶望を抱きたくはないな。その為にも精一杯やれるだけのことをやっていこう!」


 こうして決意を固めた俺は歩きまわった疲れもあり、今日は早めに夕飯を食べて早く寝ることにした。

 次の日の朝も気持ちよく目覚めることが出来た。

 身支度を整えて朝食を作り、食べ終えると昨日決まったドーナツ屋へと向かった。

 初出勤にドキドキしたが、一緒に働く仲間も客も優しい人が多くてすぐに慣れることができた。


「ありがとうございました~。」


「君、こういう仕事は初めてって言ってたけど……、向いているんじゃない?」


「そうですかね? 店長。」


「教えたことはすぐに覚えるし、手際も良い! 笑顔も素晴らしいね。」


 そう言って店長はニカッと俺に笑いかけ、褒められたことに照れてしまった俺は頬をポリポリと人差し指で掻いた。

 そうこうしている内に退勤時間となり、夕暮れ時の街を背に家へと帰ろうとした。


「お疲れ様でした。」


「お疲れ様。あっ! そういえば君。昨日と一緒なのが気になったんだけど……、服はそれ以外は持っていないの?」


「あぁ……。引っ越したてなのと、ちょっと諸事情があって持っていないんですよね………。」


 俯き加減に俺が言いにくそうに答えると、察してくれたのか特に理由は突っ込まないでくれた。


「そっか、そっか……。ならさぁ、この後時間あるならバザーに寄って帰りなよ。水曜日の今日ならちょうど夕方のバザーが開かれているからさっ。今、地図描いて渡すねっ!」


「バザー……ですか?」


「そう! 教会が主催で低所得者とか恵まれない人を対象に、格安で衣料品や生活雑貨を売ってたりするのよ。君は所持金が0みたいだし……本当は給料日は週に一回でいつも金曜日に渡しているんだけど、特別に今日の分の給料、7千サオリオンを渡しておくよ。それでもそこ以外で服を買ったりするのは無理でしょ? 流石に飲食店で毎日同じ服ってのは衛生的に考えてよくないからねぇ。」


「ですよね~。教えて頂いてありがとうございます。何着か買って明日は違う服を着てきますね。」


「うん。じゃあまた明日ね~。」


「また明日に~。」


 俺は店長に言われた通り教えられたバザーへと寄り、激安で売られていた服を上下3着ずつ買って帰った。


「着まわせばこれで十分だろう。」


 買ってきた服をクローゼットの中へとしまい、風呂へと入った。


「ふぅ……。……そういえば、あれから沙織の声がしないな。」


 元の世界とこの世界では時間の流れが違うのか、それとも何かあったのだろうか……、こちらから沙織の様子を窺い知ることはできないのがもどかしかった。


「もし万が一、時間の流れる速さが違うって事で、まだあっちの世界では真夜中ってだけの事なら沙織を起こしたくはないしなぁ……。もうちょっと様子を見て見るか……。」


 そうして俺は沙織が話しかけてくるのを待って過ごしていると、一週間が経とうとしていた。


「音沙汰もなくこれだけ時間が経つと、時間の流れる速さが違うってのが確定かなぁ……。まぁ、まだ分からないけど。」


 そして更に何日も時は過ぎてゆき、一か月が経った頃には沙織に見られているかもしれないという緊張感がほぼ消えてきていた。


「俺も男だ……。男だから何もせずとも常に賢者モードになどなれはしないのだ! 今までは沙織に見られてしまうかもと我慢していたが、この俺の若い肉体はそろそろ限界だ……。この世界にも慣れて、お金も少しだが貯まった! ちょっとエッチなお店に行くぐらいはいいだろう……。仲良くなった常連客にもリサーチ済みだ!」


 俺は息を巻きながらよくドーナツを買いに来る中年男性に教えてもらった夜のお店へと繰り出した。


「え~っと……。ここだな。」


 その店は夜の繁華街の中で存在感を示す様に店全体がピカピカとピンク色のネオンで光っており、俺みたいな肉体を持て余した男たちがフラフラと街灯に群がる虫の如く集まってきていた。

 受付を済ませた俺は待合室でソワソワとしながら待っていると、5歳か6歳程は年上と思われるキレイな女の人が目の前へとやってきた。


「いらっしゃいませ、お客様。どうぞこちらへ……。」


 そう促されて店の一番奥になる個室へと通されると、俺のドキドキワクワクする時間が始まった。


「この時間を、満足ゆくまで楽しんでいってくださいね。」


「お姉さん………。あっ……。」


 しなやかに俺の体をスルスルと這うお姉さんの指先は、あっという間に俺を緊張から解きほぐし、硬く強張らせていた俺を天国へと導いていく。


「お姉さん、だなんて……。可愛らしいお客さんね。フフッ。」


 蠱惑的な眼差しと笑い声に、俺はゴクリと唾を飲む。

 タマネギの皮を剥く様に服を脱がされ、お姉さんの息が間近に肌に当たると何とも言えない高揚感から体が熱くなっていくのを感じる。

 プニッとした豊かな厚みをもって赤みを帯びたその唇が俺の肌に触れ、中心部からは柔らかく湿った舌が顔を出す。

 さぁ! いよいよお待ちかねのラスボス。

 最終地点へのサービス開始という瞬間………。


『お兄ちゃん? 今はなにしてるのかな~?』


「さ、沙織!?」


「お客さん? どうされました?」


 突然体をビクリとさせて思わず妹の名前を叫んでしまい、キョロキョロと目を動かして挙動不審になった俺を不思議そうにお姉さんは尋ねてきた。


『居た! ………お兄ちゃん!? ……何をしてるのかな?』


「あっ……。えっと……。ちょっと急用を思い出したので帰ります! ごめんなさい!」


「は、はぁ……?」


 直前まですっかりと緩み切ってリラックスしていた俺のピシっとした態度への変貌に呆気にとられ、お姉さんはポカンとしたまま返事をした。

 俺はすぐさま服を着て出入口まで戻ると、受け付けて支払いを済ませて外へと出た。


『お・に・い・ちゃ・ん?』


 人気のない場所まで来ると沙織からまた呼びかけられた。


『何をしていたのかな?』


「えっと……。ナニをナニして………。」


『お兄ちゃんは今のこの状況をちゃんと分かっているの? そんな事をしている場合じゃないんだよ?』


「分かってるさ。分かってるけど……、兄ちゃんも男なんだ。たまにあーやって発散しないと苦しいんだよ。特に今みたいに不安が募っていたり、ストレスが溜まっていると……。」


『………。』


 沙織は黙ったままだった。

 沙織はまだ女子高生だし、大好きな兄のあんな姿を見てショックだったのかもしれない。


『私は……。』


 10分以上が経った頃、長い沈黙の中から沙織が重い口を開いた。

『私はお兄ちゃんに帰ってきてほしいし、早く目覚めてほしいの! だのにお兄ちゃんはこっちの事なんか忘れて楽しんでるみたいだし……。嫌だよ……。狡いよ……。』

 怒っていたはずなのに段々と悲し気になっていく沙織の声に、俺の胸に苦い物が溜まっていくのを感じる。

 悪いことをしていたわけではないし、俺は決して妹や元の世界でのことを忘れたわけではない。

 ましてや元の世界に戻りたくないだなんて1mmも思ったことは無いし、帰れる方法が無いものかと真剣に考えてはいる。

 だが、張り詰めた緊張から一時の安らぎを得ようとした行為は、その部分だけを見てしまった妹には置いてけぼりにされた様な寂しさを感じるものだったのだろう。


「ごめんな、沙織……。お兄ちゃん、沙織の事を忘れたわけじゃないから……。元の世界に帰りたいって、今でも強く願っているんだよ。」


『お兄ちゃん……。』


 涙声で俺を呼ぶ妹の頭を撫でてやることもできないもどかしさから、イライラを振り払おうと拳を力強くギュッと握り締めた。

 元の世界から俺が完全に切り離され、この世界で一生を過ごさなければならないかもしれない。

 もしかしたら戻れないだけじゃなく、沙織や両親、更に俺と関わってきた全ての人の記憶の中からも俺という存在が完全に消滅してしまうことさえもあるかもしれない……。

 そういういう可能性がある為に沙織に頼ったばかりもいられないし、例え忘れられたとしても沙織の兄として誇れる様にしっかりとした生活基盤を気付いてしゃんと生きて行こうと決めた!

 元の世界に戻れるとか戻れないとか関係なく今のこの状況に居る自分自身に向き合って、この世界に根を下ろしてしっかりと生きていける様にしなければっ!

 そして、やがてはこの世界で俺の家族を作って生きた証を遺したい………。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 不思議な箱庭感と兄妹関係が楽しい作品でした。 目が覚めたら都市経営シミュレーション内というのは、一風変わっていながらもどこかメタ要素もありお話にすんなり馴染めました。そんな世界を通した兄妹…
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