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フン

作者: つぶやきクロー

フムフムフンフン

心にとって味方というものはない。なぜなら心は味方というものを必要としない。敵であるというのは、自分が挑むところにとってのただ障害であって、必要に拠って各々が敵対しているのではない。


音楽に意味は無い。意味が音楽を手に取るだけである。


静かなものほど動いて、大人しくしている。


形あるものにとらわれないと言うことは、無形のものを信仰することではない。観念の生成過程を形式ではなく、形式的に突き放しつつ、現実を可能性として意識が遊ぶ、最低限の責務についてである。


観念や表象を表わそうと創意を利用してはならない。表わすものの内容は、観念や表象ではない実際として当人に既に信じられていて、実践されているものに限られる。だから、それが形に落ち着く地点について、一般的であることが理性にとって、感性が信仰の対象であるような不快に感じられることがある。


孤独とは他人に対する恐れである。しかし他人に対する恐れがなくなればただの独断である。恐れとは、尊敬の神性さと関係している。


年をとって不安になることは、無自覚な肉体に関することである。またそれを保つための経済についてである。不死は、肉体と関係ない。知覚と関係ない。不死ならば、それはまるですべてのことであるから。死んでいるものでさえ、このような意志に関わっているほかない。


ポップスを聴いて、何か音楽や感情の無条件に快感を享受しながら、つまり欲望を感じていながら、どこか批判したいような気に駆られることは虚しいことだ。自分の考えが自律的でない状態の露呈であり、また自分というものが相対的なものとして意見されるからである。ポップスに何処か冷めている、のだろうか。確かにポップスには、現実を軽快に超えて行く感覚がある。しかしまた現実はポップスのように克服されつつある障害として曖昧にもされる。ポップスは手段としてあり、目的は夢の存続である。また、偶像は一切の他人を空想に引きずりこんでしまう。それが最大の魅力であり、偶像が空想なのではなく、空想へと誘うものが偶像なのである。例えば恋愛は、まったく個人的なことであるが、その対象が他人に向けているものを自分に限らない一般的なものとして自ら受動的に認識するのである。だからそれは恋愛が、感情の衰滅を励まし高揚させるのではなく、存在しないものが感覚に訴え得るということの慰めと、その固執を邁進させるに過ぎない。それは資本と似ている。常に恋していなければならず、また恋できるように稼いでいなければならない。もっともそれは流行や、知覚作用に関する熟達した・・・ところで私こそ、何を守ろうとしているのだろうか。いや、手放すために。


快楽を求め、またそのことのために生きているのではない。感覚的な快楽のために行うのではない。何かある真理のために、感覚的快楽を利用するのでもない。人を幸福にさせるために行うのではない。自らが自由かつ幸福であるために生き、行い、それが信念なのである。恐れるな。快感の群れを離れて、世界に住まう人の心の知らない、自分の貫徹すべき意志を、自然の為すがままに妥協せず、努めてこだわるな。歌うのではなく、奏でるのではなく、そのような無駄な自覚なく、直接に無言で話しているように開かれていろ。そんなものはやめてしまえ。


大きな墓、小さな墓、墓のない魂、墓を知らない人。どれも印ではない。

大きな声、小さな声、

大きな国、小さな国、

大きな富、小さな宝、

多くの嘘、ひとつの嘘、

多くの人、一人の人、

多くの命、ひとりの命、

多くの真実、ひとつの忘れ物、


歌うに足る言葉を、まず持っていないと、歌えない。持つことができるものは、決して自分のものではない。そのためにまず、生きることが先である。それが言葉から生まれただけではなく、人の必然のために生まれたもの、最初の信仰として、例えば仏陀のように、まるで音楽と正反対の、守られたまま死刑台へ向かうもの、その自由によって同等である法が、後にも先にも、あるのかも知れない。


始めに言葉があった。最後に言葉があった。真ん中に言葉があった。言葉は頼るものではなく、頼られるものでもなく、器と水のような関係の肌理である。


幸せは、報いであるから、想定しえるものではない。


ものごとのあり方を静かに見つめて

大切なことを思っていて

奪い合ったり傷つけることなく

ひとつのことを守る

風が木の実を揺らすように

幻を纏わない

光の屈折した

憂鬱を振って落とした

ある方向からの恋の叫びや

この心情からの夢の稼ぎを

確かにそうだとうなずきながら

ものごとのあり方を静かに見つめて

大切なことを思っていて

奪い合ったり傷つけることなく

ひとつのことを守る

風が木の実を揺らすように

幻を纏わない

光の屈折した

憂鬱を振って落とした

ある方向からの恋の叫びや

この心情からの夢の稼ぎを

確かにそうだとうなずきながら

ものごとのあり方を静かに見つめて

大切なことを思っていて

奪い合ったり傷つけることなく

ひとつのことを守る


平和はあなたに懸かっている。

なぜなら、あなたのことではないのだから。


見えないもので繋がる事はできない。繋がりが、見えないものだから。だから繋がりを見ることが、繋がりである。

信仰の対象は神ではなく、気がついて見れば何時でも人間である。


稼ぐために演じるな。演じることがあるために稼げ。演じなくても生きろ。生きることに少しでも演じるな。息をしろ。演じることを意識するな。形になって消えるな。仲介するな。行いは直接的でなければ、社交的、他律的な行いに過ぎない。社会は、信仰が演じているように見えるものである。ほっておけ。短い。


音楽と和解すること。

音楽(音声の快感)が、純粋に人を喜ばせるものであるように制作、吟味すること。

音声を採ってから、言葉を充てる方法。音声の流れが快楽であるように。

音声が言葉になるために、音声に言葉が偽られないように。

この問題は、多様性によって解決される。

多様なものを可能にする言葉を忘れず、手放さないこと。

さあ、試みよう。


この世が人の喜びでありますよう。

人の喜びは、生きているうちでありますよう。

そのように、彼方から見守られている、亡き人の生きている証し。

この世界の。


私は、音楽的快楽を目的には置かない。しかしだからこそ、純粋に感覚的に簡潔に遊ぶことができはしないだろうか。そして目的とするものは、だからといって思弁的なものにこだわる必要はない。実践的なものを、感覚にも、理論にも委ねることなく、純粋に今日のこととして、過去と未来として永劫反省できるよう貫徹すること。社会を当てにせず、社会が自由である可能性を、社会や自由とは無関係に生きることは、如何にして可能か。


もっと追い詰められなければならない。

何を歌うことなのかが、わかっていないのだから。


酔っているときに気の利いたことを話すよりも、形を意識し、それに従いながら覚束ないことのほうが必然的である。


完全な球体は実在しないが、それを思うことはできる。そしてそれは別に実在しなくていいし、できない。ただ、現実には到達することのない形として、それは確かにころころころがっていれば、誰も知らないけれど弾んでいるのかもしれない。


私の脳裏の歴史などどうでもいい。歴史が可能となっていることに気をつけて。


夢を形にするのではない。形のあるものに夢を見るのである。そして形にするものは、夢ではなくて、兎に角は形を見ているのである。


形を信じるとはどういうことか。他律的な形は信じることはできない。それは信じることなく現在するのだから。存在しない形を思い得るとはどういうことか。


一般的なものを批判したとして、パンツを履いている。パンツは、せめて習おう。パンツは、無意識な形である。


人と話すときに、その話を受け取ることは、その地点の話なので、もしも自分がそこにそもそもいないのであれば、聞く必要はないから、鼓膜ではなく、耳を鳴らしているだけでいい。そして多くは、そのようなものであるゆえに、そこに何かあるように話されるように感覚の無自覚によって工夫されている。


思い出など、完全に個人的なものであって、どうでもいいものである。ただし経験に直結されたそれが客観的に反省される場合、その小さな歴史が、その直接性に訴えて敗訴されつつも、なお何かに直結していると信仰されることが、もし無欲のように正当なとき、それは思い出などではなく、実際にただの血と肉と骨と心の人間である。


感覚と欲望が、私の幸せな考えを、貶める。超感覚と、超欲望が、自由に考えられてもいいのかもしれない。


少しくらいうたがうまいからといって、それにこだわることは鏡を見る豚のようなものだ。

その技術が何に生かされるかが要点であって、つまり意志の問題だ。それが貫徹できていないのに、うわべのうまさに引き摺られるように、まるでその趣味に特別な信念が宿っているかのような表現には、自分でもいちいちそう信じるほかないような、必然な自信のなさが身に沁みて後ろめたいものである。こう言ってみたところで、それなら生きることの切なる真理を外聞したものから、あるいは自分の心のうちから、自然天然に、修行遍歴の最中に実践することを志せばよいものの、話は何故そう簡単ではないのだろうか。それは、真実や本当や現実といったものが、簡単ではないからである。簡単なものは、優れている。大切なものや、決定的なものは簡単であるのがいい。無駄なものや、虚偽がないことがいい。しかし偽りではない飾りとは何か。それは例えば見世物になる以前の土着的な祭りの、生き死にが近しい当事者たちの信仰の形そのものであったかもしれない。外から見れば、退屈なものであり、単に儀礼の道具に過ぎないなるほどでしかない。墓石のような有難さである。意味と表現が分離しているのではなく、簡単なほうが良いから、意味は意味であればよく、表現がどうであってもそうあることが直接に意味である。意味以上に表現に関してくどくどしく説明する必要はない。また同じように、簡単なほうが良いから、表現は演じられていればよく、表現と演技は違う、演技のない表現がすなわち芸術であるといったような素晴らしい話は脇に置いておくとして、意味がどうこう言われるよりも表わされているものがすべてである。そして簡単なほうが良いから、意味を考えるよりも、表現を見聞きしているほうがいい。また簡単なほうが良いから、見聞きする必要もなく、普段の生活の中に浸透してくる経済的な実勢に淘汰された、一般的な他人とともにある一生を、冷たい石の儀礼よりも実感するのが、演技のない人間だ。ただし、人生は知らない。人生は、表現できない、意味がわからない、自分のことでありながら、まったく会ったことのない人のことでもあり、勝手なことだ。この勝手にも、意味や形があるのだろう。あきらめることだ。意味も形も、あきらめて、意味もなく、形もなく、そこから最後まではじめてみることが、意味や形に、勝手になるほうが、簡単なことであり、いいんじゃないか。


神様のことはあきらめ

仏様もまたあきらめ

永遠概念あきらめ

哲学きらきらあきらめ


あきらめられないものが

どれほどのことだろうか

あきらめるということが

思いつかない必然が

人間をふと思わせて

世界で一番遠くて近い国


まだまだもっとあきらめ

一生懸命あきらめ

自覚意識してあきらめ

幸も不幸もあきらめ

明るく愉快にあきらめ


あきらめられないものが

どれほどのことだろうか

あきらめるということが

思いつかない必然が

人間をふと思わせて

世界で一番遠くて近い国


150歳をあきらめ

ものがたりよりもあきらめ

万物の自然よりあきらめ

地獄に落ちてもあきらめ


夢を形にするのではない。形のあるものに夢を見るのである。そして形にするものは、夢ではなくて、兎に角は形を見ているのである。


一体何に慰められるというのか。恐らくそのものにこそ最も苦しめられていることを感じているにも関わらず、しかし、その苦しみの種についつい慰安を求めてしまうことの矛盾には、何の不思議もない。むしろ気がかりなのは、それが何にとっての救いであるかではなく、救いや慰めといったものを必要とする社会が、当然のように自らをそう規定して順繰りしていることである。そしてその一層の推進が、社会的だと信じられていることだ。


救いを模倣することはできない。なぜなら救いは一時の自分に足りないものであって、別にずっと必要なものではないからだ。そしてずっと必要なものは真似ることのできない、たった一人しかいない自分でしかない。しかもそのように見た自分でしかない。しかし救いというものがもしもこの世にあるのならば、それはただのたった一人の自分ということのほかにないではないか。他人とは、自分のことだよ。


現行の社会生活を制度的なものと捉え、それを行いながらも自由であろうとすることは、思弁的なものでしかあり得ないだろうか。全くそんなことはない。むしろそこへ至る困難こそ実践的であって、程度に差こそあれ予定調和的な広義の体制のなかで流浪することは、自由を主張することであって、自由ではない。注意すべきは、自由が思弁的なものとして保留されることである。それは自由ではなく、自由の可能性でしかない。


死ぬよりも、安心して狂ったほうがましだ。


私はそのようにして、身を終えるだろう。


世界の小さなことを、明日また、はい。みんなで大きくしましょう。自分勝手にね。


街に住むことはできない。住んでいると思っているところが街の場所さ。

もう二度と、迷わなくていい。他人に見たり聞いた他人に、迷わされなくていい。


人に対する関係に、純粋な直接的なものがあるとすれば、それは人間が人間であるということを意識するといったような矛盾である。しかしこの矛盾は、また矛盾である。それは意識自体が矛盾であるようなものである。意識は矛盾だ。しかし無意識を意識化する可能性が可能であるように、概念的には必ずしも説得された人間である必要はなく、しかし自分が人間である以上、人間的に考える他なく、なぜなら、自己の意識がある以上、それが可能なものがあることを生きているように、同じ条件と必然を担っているものに依存しているからである。誰も人間でないことはできない。人間を探求したとしても、誰かであることではできない。


数学を理想とすることも、理論を理想とすることもできない。それには個人的な障害しかない。それが最も筋が通って万人に受け入れられることが使命である。ただ、理想、理念は直感的なものを根拠としない。直感的なものは目的である以前に、その根拠としてあることしかできない。直観が、は、目的であるというのはおかしい。いちいち目的という必要はない。この場合目的とは、それを通して(通さざる得ないのだが)生きていることである。手段が一切存在しない場合、目的が浮かぶことがあるだろうか。


疑念のないこと。これが行いである。疑念のあること。これが反省である。


人間は人間を愛していない。人間というものを信仰するからである。


仕事が忙しくて、何かができないとき、その何かとはなんだろうか。例えば完成すべきパズルの全体像が予め与えられていない状態で、しかし遂行されるべき条件だけが約束されている場合、まず少なくとも約束の条件を満たすことが暫時の目的とされ、そのための具体的方法と解決の進捗が仕事となる。国家の平和というものが曖昧な概念でありながら、しかし戦争が起これば実際の兵役が目下となるような率直さで、任務というものは自分に関わっていて、また他を許さないものである。他が関わりえるのは、目的に近づく貢献の直接的な結果においてであり、それ以外の貢献的な外からの主張はすべて私的な意見を摺り合わせてくるだけでしかない、任務にとっては無駄である以上に、しかし余裕として扱わざるえない手間である。船のモーターを直そうとしているのに、塗装が剥げていることを直してほしいと言うことのために、美観について広義に語りえると自負するものの暢気さである。ただしそれも補助的に役に立つことがあるから許容されている範囲ではあるのだが。また任務が、如何なる形態の任務であるかと、その意味や内容についてを吟味することの間には、公私の微妙な問題がある。特攻隊が、その死が馬鹿げていると考えて任務を放棄することと、自らの考えを放棄し、奉仕ということ自体を信仰することの、この視差を見なくてはならない。


生きることを望んでいたとしても死ぬことがある。

生まれることが望まれていても生まれないものがある。

生まれることを望んでいなくても生まれることがある。

幸福が望まれていても、それが幸福ではないことがある。

幸福とは主観の理想であって、客観的な理想が幸福であるわけではない。

境遇が道理ではなく、道理が境遇を意識する。

他人を思いやることは、他人の思いに応えることではない。

他人の思いを知ることはできないが、自分の思念を同じ働きとして反省し、

他人の思いに反したとしても、それが他人を思うことに起因し、

論理的であると同時に、言葉を仮のものとし、

自分というものがなかったとしてもあったであろうような、

繋がりについて考え、実際に生きていることは、

すなわちみんなが生きていることである。


生きることを望んでいたとしても死ぬことがある。

生まれることが望まれていても生まれないものがある。

生まれることを望んでいなくても生まれることがある。

幸福が望まれていても、それが幸福ではないことがある。

幸福とは主観の理想であって、客観的な理想が幸福であるわけではない。

境遇が道理ではなく、道理が境遇を慮って意識する。

他人を思いやることは、他人の思いに応えることではない。

他人の思いを知ることはできないが、自分の思念を同じ働きとして反省し、他人の思いに反したとしても、それが他人を思うことに起因し、論理的であると同時に、言葉を仮のものとし、自分というものがなかったとしてもあったであろうような、繋がりについて考え、しかし実際に生きていることは、

すなわちみんなが生きていることからくる現実である。

現実は生まれることもなく、死ぬこともない。

現実は自分が見るものであり、生きるものではない。

現実を生きるということは、必要のない約束に過ぎない。

自分が夢を見ていようが何をしようが、それらすべてが言って見ればつまらない現実であるのだから、そんなことは考えなくていい。しかし恥があるか。恥は知っていても、これは意味ではなくて実感のことで、知らせるものが恥知らずではなく、恥を蓄えている。現実とは、それ以外を考えなくていいものだ。考えなくていいように考えることだ。すべての人が生死を超えて同等であることの事実である夢を、星を突っつくこともまた、それはそれで考えに頼らない現実であって、ただそれ以外が約束のようなものだ。約束は守るのでも破るのでもなく、されている。


私が何かを言っているようじゃいけない。何かが原理的であるように私が存在することが私であれ。


場所というものは常に開かれていなくては、檻である。


才能を、技術的に洗練し、完成させていく賢さに反して、何に迷う?才能ではない。技術的に必要ではないもの?泣き声?笑い声?声?どう聞こえる?


このままではダメだ

つまらないものをつまらないとはっきり思い

仕事であれば、つまらないものにもその意味があると考え、

それに忠実であろうとしてつまらなくなるよりも

それが誠実であると自分を反省しつつ、

言い聞かせ、仏陀の言葉などを聴き、

至らなくとも指針のように感じ、

心のうちに一時にしか馴染まず、

それでも自分に迷うからといって、

心に窒息するよりも

私の考えなどは微塵に砕いて

そんなものありはしないと

もっとかけがえのないものを

はっきりと見て

少なくともなにやら命がかけられた

この世間の温もりと、冷徹な世界の潮流のなかにあって

讚美するあり方を恥ずかしく

しかし後悔せず

生活に直な力として関わり得るものが

意志の素直さであり

内心の心情であるとか、

自分はこう感じるとか、

心的なものは世の中のあり方とは別に、

心の中での心のあり方にあるとか、

それは念じているだけで、

それはそれで風が吹いているような処世であって

切なくも確かな感情の言い分だ

全方向に働く無法者のように

風を追い抜いてかけて行くのだ

ぶつかるように

自分だけの光や闇にまどろむことなく

一度だけの世界

そういったものに

ぶつかるように

もうきれいな

衝撃は

いらない

なのに

うまくいかないのは

名前や形のせいだとしても

失うことはない

やれ

やってください

狂ったように

信じることの

ないように

自然に

石が落ちたように

愛したように

余計な正しさを

大袈裟にせず

日や月や宇宙があって

歴史が聞いた誰かに

近づくために書いたとしても

何度でも忘れるようにして

保っていてください

運んでください

訪れるよりも先に

何も残さず

話してください

どんなことでも

そうであるように

鉢巻


考えたことが言葉になるのではなく、言葉によって考えたことが自分なのでもない。言葉によって表わされたことが、そのように表わされた言葉であって、それ以上の意味はない。それを超えた意味を言葉に見るのは、逆さまである。論理にしても同じことだ。死者の心臓を確かめることはできない。


言葉はみんなが使う道具であって、それが大切なわけではない。それは微妙に明らかに生えてくる。ただ、それが言葉ではないものを聞かせるとき、もはや道具ではなくそれ自体が法のように感じる。あたかも肉体がそうであるように。また肉体が言葉に屈するならば、それは魂と呼ばれる。


自分も他人もいないことが、みんながいることだ。


私の歌は、執着でないならば何であるのか。自由といっても、その概念に囚われるようであれば、それはただ思弁に過ぎない、欲望ではないのか。こんな風に言うこと自体、ある姿勢を弄んでいる、呑気ではないのか。台風だというのに。そんなら防災は、歌に可能なのか。それは災いの跡ではないのか。その跡が広く及ぶ、そんな想像じゃないか。


私の歌は、執着でないならば何であるのか。私の歌と言えば私のだから執着だろう。しかし歌は自由か?自由といっても、その概念に囚われるようであれば、それはただ思弁に過ぎない欲望ではないのか。こんな風に言うこと自体、ある姿勢を弄んでいる呑気ではないのか。台風だというのに。じゃあ詩は形だ。

詩という形だ。

内容などない、形だ。

形が内容であるかのように見えるのだ。


何かを考えているという以上、概念が浮かんでいる。その必要がないときは、自分が概念によって浮かんでいる。


予期せず死ぬということ。

予期して生きるということ。

予期せず生きるということ。

予期して死ぬということ。

これらの違いは予期ではない。

おとぎばなし。心が塞ぐようなとき、これらはおとぎばなしなのだ。もっとも、自分の痛いところを全体的に俯瞰するような、奇妙な物語ではあるが。この甘ったるい自己愛による麻痺の感覚は、しかしありふれた処世の術のようなものではなく、何処かこの世のものでないものを内心に隠しているようで、不思議とこのほうが空虚な感がない。ないともいえないが、開き直ったような冷たく薄明るい切なさがきっぱりとして、要するにおとぎなのだろう。夜の暇をつぶすだけでなく、暗闇は至るところに神出鬼没なので、ああ、ところでそんな話を、一体誰がしてくれるのだろうか。してくれたのだろうか。筋は、それでいいのだろうか。云々。


御伽噺が白い目で見られるとき、それはその話が権威を持つような、持とうとするときだ。退屈だからではない。自らの退屈が御伽なのである。だからそれは徹底的に、積極的に離れて御伽である必要がある。その裏に利害や哲学や個人の思惑や、道徳でさえも見え隠れしては欠点である。つまり無が似ている。


御伽噺のクセに、本当っぽく魅せることが矛盾している。俺は、ひとりの御伽噺さ。それがどうせ本当なのだ。本当のことは退屈だから、それを御伽にするのは理に適っている。

想像の領域なんて、そんなもんだろ。俺は御伽の国の住人だ、と言ってしまえ。

私は御伽です。国民ではありません。


自分の空虚や退屈を、俯瞰することは可能か。親が子供を見るように。


音楽や歌で、人を感動させようなんて思っちゃいけない。本当の感動はそんなところにない。自分をそんな甘い夢から引き離して、ひとりで歌えるようにならなくてはいけない。ひとりで音楽を聞けるようにならなくちゃいけない。


ニーチェは仏陀を生理学者としている。ナイーブで、一切に反応することに潔癖を貫いた人。真理はその結果であって、予め想定されているものではない。だから真理といっても、それはある機能の恒常的な状態に過ぎない。それを精神や道徳、その他に規範とされるべきものの形として見ることは安易だ。


反応と無反応は違う。反応は原因と結果の直接的な形であり、それが自然であるゆえに反応を無視することが可能である。無反応は単に、それに対して反応することを知らないことが任意である自然である。


道徳や社会が人を殺す場合、それが宗教や現実と呼ばれる。独りで生きるというのは、生存のことではない。物体的にそんな奴はいない。生存ならどんな類でも本能である。それは絶え間ない反省であると同時にその抹消であり、神経衰弱と同時に執着の手を対象から取ろうとする自由な有り様である。不倫ではなく倫理である。倫理があるから自由が可能になる。


人の尊厳のために。

人の尊厳のために生きることに決めたのだ。そう堅苦しくなく。


頭に何かが浮かんでいると、実際のものが見えない。頭に浮かんでいるものを通して見ているからだ。


頭に何かが浮かぶのは、知覚されたものによる。知覚されて、かつそれが感覚的な領域を出ない快感であるとき、快感は自己の喪失でもある。むしろ自己を自然一般に溶かしてしまうことが、安住、快感である。つまり表象とは獣的である。


無視とは、反応しないことではなく、ただ純粋に論理的であることだ。


見ることだけであれ。目から何かをいれるな。ありもしない内など見たように浮かべるな。


真理とは、自らの愚かさの必然性に関する、関係ではなく直接である。


空に形が無いのではない。すべての形が空に重なっているようにみる視点が形ではないだけだ。空は、ある。


決着を求め続けることで、闘技場が霧散する、時と空。


血の巡りと、切り抜ける想像。


人の尊厳のために。

人の尊厳のために生きることに決めたのだ。そう堅苦しくなく。

頭に何かが浮かんでいると、実際のものが見えない。頭に浮かんでいるものを通して見ているからだ。

頭に何かが浮かぶのは、知覚されたものによる。知覚されて、かつそれが感覚的な領域を出ない快感であるとき、快感は自己の喪失でもある。むしろ自己を自然一般に溶かしてしまうことが、安住、快感である。つまり表象とは獣的である。

射ろ。殺さずに。

それはまったく透き通っている。

無視とは、反応しないことではなく、ただ純粋に論理的であることだ。

見ることだけであれ。目から何かをいれるな。ありもしない内など見たように浮かべるな。

真理とは、自らの愚かさの必然性に関する、関係ではなく直接である。

空に形が無いのではない。すべての形が空に重なっているようにみる視点が形ではないだけだ。空は、ある。

決着を求め続けることで、闘技場が霧散する、時と空。

血の巡りと、切り抜ける想像。

学ぼう。


他人の目は、自分の目を見る勇気の無さである。


制度自体に意味はなく、制度があるということが意味を持ち出してくる。それは論理ではなく、時勢の理論である。


美観に関して何かひとつでも白い目で見るのなら、美観それ自体をまるごと白眼視する方が論理的である。美に固有性は存在しない。一般的には、個性の手段であるように考えられているがまったくの空想である。別に、どうでもいいことだが。


思うに、固有なものを言うのであれば、普遍的なものに耐え得なければならないのだが、美は、脆く儚くあるのがその本性であるために、普遍的なものを弱体化する威力として正反対の、だからそれは感覚なのだ。別に、それでいいことだが。


焼き鳥のように。

食いたい時はそういうこともあると思って、拘らず面倒でなければ食い、売買は自然だから勘定に入れず、己は串に貫かれて、焦げることのために。


ないものを捨て去ることはできない。

あってはじめてだ。あるとかないとかは、それは頭の中の話で、全部あるか、全部ないか、

ハッキリさせようとしてずっとそれからであり、それっきりだ。

区別なく、一番最後にある区別が先に知らせるような初め。


自分を遊ぶということは、誰と遊んでいるのか。誰に怒られているのか。自分である。他者のためにいちいち吟味されるものなどない。他者は自分を含めて、すべての者だから、必然的に、自分があるようなことが単に可能である他ないことなのだ。


道徳が、勝敗を基準にするのは利己的で安全かつ空虚な、明日に忘れるギャンブルである。


勝敗にはそれ以外がない。しかし勝敗があるものはそれ以外がない。


ただ生きているのに余計に教えられたなら、それを聞くのは、それはただでは生きていけない人の生存のようである。ただでさえ、終わっているのに。


いつ死んでもいいように生きることだ。


金にならないものは、自分ひとりである。

金になるものが、他人の労働であるならば。


欲望ばかりが、世の中である。道徳の顔をした。倫理にこそ雑務を挙って頼ってくる。自らの保身のために。すべてを毅然と突っ撥ねよ。


論理が局所で利用されることは、理論的ではない。理論は利用ではなく、生きるものの自由だ。


酒と、女と、タバコの、外部に出ること。少年の、塾。純粋な行い。専心。生きること。


フーン

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