エヴァンジェリスト・アズリエステラ(3)
気付けば煉獄郷の死の大地を訪れてから、既に七度空が巡っていた。
隈なく全ての区画に種を蒔き終えた僕は、次の指示を仰ぐべく方舟へと戻る。
そこで僕を待っていたのは、何やら金細工の装飾を施された如雨露じみた祭具を手にするアズリアの姿だった。
「ご苦労様でした、アルス。これで種の発芽に入ることが出来そうです。さあ、早く乗ってください」
「待ってくれ。まさかこれから、その手の如雨露で一帯に水を掛けて回るつもりかい?」
いくらなんでも、アズリアの手に収まる程度の大きさの如雨露では、水やりが何日かかるか分かったものではない。
それに、方舟を浮遊させて空から水を撒くつもりならば、彼女の負担も尋常ではない筈だった。
「まさか。その必要はありませんよ」
「どういうことだい」
「これでも私、優秀ですので。とにかく、早く船に乗って下さい」
虚を突かれた僕を尻目に、彼女は事も無げにそう言ってみせる。
言われるがまま、僕は降ろされたままの梯子を引っ掴むと方舟へと乗り込んだ。
「我が命に従い、星の軛を解き放て――物体浮遊」
アズリアの詠唱が終わると共に、深く死の大地へ沈み込んでいた方舟が砂埃を巻き上げて空へと浮かび上がる。
そして彼女は、手にした祭具を――空へと掲げた。
「我が命に従い、原初の海より来たれ。永劫の流れを揺蕩う魂よ、此処に――輪廻転生」
常識外れな魔術の二重起動。それは祭具に事前に己の魔力を込め続けたからこそ為せた技なのだろう。
輪廻転生。それは、見たことも聞いたことも無い魔術だった。
少女の手を離れた祭具は船よりも更に空高くへ舞い上がり……そうして、一際大きく輝いたかと思えば、みるみるうちに膨らんで、弾け飛んだ。
「……なんだ、これは……」
口をついて出た疑問に答える声は無い。彼女は二つの魔術を同時に行使したことで集中力が極限まで研ぎ澄まされている。僕の言葉が彼女へ届くことはなかった。
祭具が弾け飛んでから少しの間を空けて、空から雨が降り注ぐ。
それは、煉獄郷に来てから初めて見る雨だった。
「まさか……この雨を、アズリアが降らせたのか?」
降り頻る雨が死の大地に吸い込まれる度、埋められた種が光を放つ。
一面が真っ白だった筈の眼下の景色は雨によってその色を変え、瞬く間に夜空めいた様相に変わっていた。
その光景に見惚れていたのも束の間、息つく暇を与えることもなくアズリエステラの花が一斉に発芽を始める。
まるで、夢を見ているかのようだった。
大地に緑が溢れていく。全ての命を失っていたその場所に、命が宿っていく。
世界の始まりは、こんな光景だったのだろうか。僕が想いを馳せる間にも、みるみるうちに死の大地は手放した筈の生を取り戻していった。
「……やはり、何度やっても……慣れませんね」
魔術の行使を終えたアズリアは、芽吹いた緑を押し潰してしまわぬように方舟を西へと移動させた後、緩やかに物体浮遊を解除して地上へ降ろす。
毅然としてはいるものの、少女の消耗は誰の目にも明らかだった。
「お疲れ様、アズリア。本当に凄いな、きみの魔術は」
「……ん。少しだけ、疲れました。眠りますので……後は宜しくお願いします」
それだけ言うと、彼女はぷつりと糸が切れたかのように意識を落とし、すうすうと寝息を立て始めた。
よほど負荷のかかる魔術なのだろう。少女がここまで無防備な姿を見せるのは初めてだった。
「――ああ。おやすみ」
既に届いてはいないであろう言葉を投げかけながら、軽くアズリアの髪を撫ぜてやる。
眠る彼女の姿は、何度見たって人間の少女と変わらなかった。
《北天の落日》を見ていたと表現した以上、彼女は間違いなく僕より何世代も年上なのだが――
少女の腰の辺りまで長く伸びた色艶の良い瑠璃色の髪は、けして百年以上の時の流れを感じさせることはない。
彼女は人間に換算すると何歳くらいなのだろうか。そんなことを考えながら、僕は彼女との約束を守る為に新たに芽吹いた緑の手入れへと向かった。
次にアズリアが目を覚ましたのは、三日後の朝だった。
彼女は珍しく起きてすぐに僕の元へぱたぱたと駆け寄って来たかと思えば、深刻そうな面持ちでこう言った。
「――アルス。一度此処を離れましょう」
「まさか、未来視かい」
「はい。《未来視の紋章》は既に示しました。誰かが此処へ来ます」
アズリエステラの花がまだ咲いていない以上、光喰みがこの地を再び訪れることはない。
彼らの目的はアズリアの言葉を信じる限り、あくまでより多くの命の輝きだ。
ならば必然、魔族ということになる。だが。
「恐らくは煉獄郷の魔族かと。先導していたのは若い男でしたが、ついてきていたのは女子供に老人ばかり……避難民の可能性が高いと思います。人間の侵攻により街が落ちたのでしょう」
「なんだって……?」
俄かには信じられなかった。
これまで防戦一方だった筈の人間に、どうしてそんなことが出来る?
考えられる可能性は唯一つだった。
「光喰みが人間側に現れた……ということか」
「確証はありません。ですが前例がある以上、その可能性も考慮しておくべきでしょう。ともかく、一度此処を離れるべきです。今煉獄郷の魔族と鉢合わせしてしまう訳には――」
「待ってくれ、アズリア。もしもきみが視た未来が、避難民が追い立てられていた光景なのだとしたら……僕たちは本当に、此処を離れていいのか?」
「――魔族の生死など、人間には関係無い筈です」
「確かにきみの言う通りだ。元々僕は魔族と戦っていた。人間の領域が魔族に脅かされている様子だって、厭になるほど見てきた。……だけど」
「だけど、何ですか?」
「魔族にも非力な者たちがいて、一方的に虐げられるようなことがあるのなら……人間と変わらないと思うんだ」
「まさか、おまえは……魔族を護るつもりなのですか?」
「まだ、分からない。……でも、少なくとも……今ここで見て見ぬ振りをするのは、なんだか気持ちが悪いんだ。此処へ来るという彼らの話を、一度聞いてみたい」
それは心の奥底から出た本音だった。
アズリア以外の魔族と戦場以外で言葉を交わしたことはまだない。
彼女の視た未来の全てが現実に起こる保証もない。
けれど、もし――
もし、本当に無辜の民が傷つけられるかもしれない未来があるのなら、それを見過ごす訳にはいかなかった。
「……分かりました。では、此処に残りましょう」
「我が儘を聞いてくれてありがとう、アズリア」
「いいえ。私だって、流さずに済む血があるのなら、手を伸ばそうとすることに異論はありませんから」
「とは言ったものの……僕のことはどうしたものかな。魔力を身に纏ってはいない以上、人間であることがバレてしまう」
「そうですね。人間のおまえが私の隣にいれば、煉獄郷の魔族たちを刺激してしまうかもしれません」
人間と魔族に外見上の差は無いが、魔力を眼で視ることの出来る魔族にとっては違いは一目瞭然だ。
もしも僕が皇女であるアズリアの傍らに立っていれば、それだけで大きな混乱を生んでしまうことだろう。
「……私に考えがあります。少々暑いかもしれませんが……我慢してください」
彼女の提案は実に簡潔なものだった。
魔力で編んだ鎧を全身に纏う。それによって、僕はさも自分自身が魔族であるように振る舞うことができるというものだ。
一つ問題があるとすれば、それは――
「この鎧、見覚えがあるぞ」
具現魔法はその特性上、本人が細部に至るまでを正確に頭の中に思い浮かべなければならない。
そして、皇女たる彼女が実物を見ずとも脳裏に思い描ける鎧はただ一つ。まさしく魔族の近衛騎士の纏う特注品そのものであった。
つまり僕は、皇女たるアズリアを警護する近衛騎士として振る舞わなければならないということだ。
「我慢してください。おまえは物言わず傍で控えているだけで構いませんから」
そんなやり取りをしている間に、東の地平線の向こうからちらほらと魔族の姿が見えてきた。
「皆、こっちだ! 急げ!!」
男の声を皮切りに、若葉の芽吹く大地に百人に満たないほどの魔族が息も絶え絶えに逃げ込んできた。
彼らは女子供や老人ばかりで、若い男は誘導を担っている数人を除けば皆怪我を負った者ばかりだった。
やはりアズリアが《未来視の紋章》で幻視した彼らは、避難民で間違い無かったのだ。
その悲愴な様子は、まるで魔族に追われる人間と変わらないものだった。
「死の大地に緑が……どうして!?」
「おお、おお……神様の思し召しじゃ」
「ママ、私たち助かるの?」
避難民たちは様変わりした死の大地の様子に口々に驚いているようだ。
無理もないだろう。死の大地が再び色付くなどという事例は、これまでに一度も無かったのだから。
「その身に纏われた大いなる魔力……貴女はまさか……!」
避難民の一人が僕たちに気付いて近寄ってくる。
「皇女殿下! やはり、霧氷郷のアズリエステラ殿下なのですね! よくぞご無事で……!」
男が跪くと、それを見た他の避難民までもが押し寄せ頭を垂れる。
「面を上げなさい、煉獄郷の民よ」
アズリアは先ほどまで僕と会話していた雰囲気とは打って変わって、皇女然とした様子で厳かに語り始める。
「確かに私は、皇女アズリエステラ・ザラキエリに相違ありません。死の大地に命を取り戻す為、故あって身を隠していました」
「おお、やはり」
「生きておられたのですね」
「十年前の戦役から戻られなかったと聞いて、御隠れになったのかと」
「馬鹿、失礼だぞ!」
「やはり皇帝家は煉獄郷を見捨ててはいなかったんじゃ!」
「この大地は皇女様が?」
「ええ、もう心配は要りません。長き旅路の末に手にした秘術で、この地は緑を取り戻しました」
アズリアの言葉を聞いた民衆は、一様に喜びの声を上げていた。
「煉獄郷に何があったのか、聞かせて頂けませんか?」
「はっ! ……ほんの一月ほど前のことです。人間の軍団が国境を越えてやってきました」
アズリアの問いかけに答えた男の話した内容は、次のようなものだった。
曰く、突如国境を越えて侵入してきた人間の軍団が、瞬く間に煉獄郷最大の都市国家イグニフェルを攻め落とした。
軍団を率いていたのは先の戦いで散り散りになったという勇者一行のうちの一人、《神槍》と呼ばれるオスカー・エッジワースなのだという。
彼はイグニフェルの魔術師たちを全く寄せ付けることなく蹴散らしてみせたそうだ。
彼らは魔族を根絶やしにすると主張しており、戦う意思を持たない一般市民すら手にかけた。
命からがら逃げ出した魔族たちは、今も追っ手に怯えているのだ。
「勇者一行……ですか」
「皇女殿下が知らないのも無理はありません。奴らはここ数年ほどで急に人間の中から現れた手練れどもですからね」
「二か月ほど前に起きた《クリスタロスの戦い》で奴らは多くの犠牲を出しました。それ以来、勇者めらの行方は杳として知れなかったのですが……まさか、此処に来てこれほどまでの脅威に成長していたとは……」
オスカー・エッジワース。その名前が確かならば、僕は彼のことを知っていた。
彼が何故煉獄郷攻略を率いているのかは分からないものの、短期間で強大な国を滅ぼしてみせたというのは《北天の落日》にそっくりだった。
だとすれば、光喰みが今回成り代わったというのは――
「最後に一つだけ教えてください。イグニフェルは、死の大地となりましたか?」
「いえ、少なくとも我々が避難するまでの間に辺りが死の大地に変わることは無かった筈です」
「……成る程。情報の提供に感謝します。霧氷郷へは私の方から連絡を入れておきましょう。避難民を受け入れる準備を整えておきます」
「いえ、お役に立てたのならば光栄です! 皇女殿下の御慈悲に感謝致します!」
男は恭しく一礼すると、今度は避難民の一団を引き連れて北の霧氷郷を目指す様子だった。
煉獄郷にいる限り、彼らは常にオスカーの軍団に怯えなければならないからだ。
避難民が北へ向けて旅立ってから、僕たちは作戦会議に移ることにした。
「アズリア。彼の話をどう考える?」
「そうですね……煉獄郷の魔術師たちが束になっても敵わない人間など、想像もつきません。それが光喰みの仕業でないというのなら、猶更です」
「ああ。僕も途中まではオスカーが光喰みに成り代わられてしまったのだと思った。でも、イグニフェルは死の大地に変わってはいない……彼は光喰みではないんだ」
「アルス。おまえは勇者一行とやらについて何か知らないのですか?」
「知っているよ。オスカー・エッジワースは人間の中でも取り分け優秀な戦士だった」
彼の武名を知らない者はいないほど、人間の領域にオスカー・エッジワースの名は轟いている。
自分より何倍も大きな巨人に力比べで勝っただとか、魔族が操る鉄壁の結界魔術を一撃で砕いてみせただとか、そういった武勇伝は枚挙に暇がない。
「……でも、都市一つを滅ぼしてしまうほどの力を持ってはいなかった筈なんだ」
彼を知っているからこそ分かる。
それに、もしもオスカーが独力で都市一つを滅ぼすほどの力を持っていたとしたら、もっと早くにその力を使っていた筈だ。
「ならば、考えられる可能性は二つでしょう」
「二つ?」
「一つは、そのオスカーという人間の背後に光喰みが成り代わった魔術師がついていて、裏で手を引いている」
「魔術師が到着するまではイグニフェルが死の大地に変わることはない……ということかい?」
「はい。ですが、そんなことをする理由が分かりません。手間が増えるだけです」
アズリアの言葉は尤もだ。
命の輝きというものに鮮度があるのかは分からないが、敢えて距離をおくことに意味があるとは思えなかった。
「そうだね。強い命の輝きを求めるのなら、自分がその場にいた方が圧倒的に効率が良い。……もう一つは?」
「――光喰みが争いとは異なる方法で命の輝きを求めた可能性です。例えば……人間と共生の関係を結ぶ、とか」
「そんな馬鹿な。そもそも、光喰みの存在だって一握りの魔族しか知らないんだろう?」
「その通りです。ですから、人間側が光喰みに歩み寄ったというよりは、むしろ……」
「光喰みが、より効率的に命の輝きを喰らう為に様々な手段を試している……ということかい」
「断言は出来ません。ですが、様々な生物を模倣する過程で彼らの知性が進化していったのだとすれば……そういったことが起こり得る可能性もあります」
イグニフェルの襲撃で死の大地が生まれなかったのは、光喰みが他のものを喰らった可能性を示していた。
差し詰め膠着状態になりつつあった人間と魔族の戦争への梃入れ、といったところか――
「おまえはオスカーのことを深く知っている口ぶりでしたが、何か心当たりはありませんか?」
「オスカーは、魔族を憎んでいた。……多分、僕が知る他の誰よりも強く。ラグナの末裔なんだ、彼は」
《北天の落日》の折、唯一逃げ延びた人間の子孫。それがオスカー・エッジワースだった。
もはや世界の何処にも金髪碧眼を特徴とするラグナ人は他にいない。
全ての魔族をこの手で殺すのだと酒場で息巻いていた彼の姿を、今でも思い出すことが出来た。
「強い復讐心……それが、光喰みの欲した命の輝きだったのでしょうか」
「かもしれないね。……なんにせよ、このまま此処で話していても仕方がない。アズリア、僕は少し寄るところが出来た。此処で待っていてもらえるかい」
「……イグニフェルへ向かうのですか」
アズリアの双眸が、じっと僕を見つめる。
「ああ。今は少しでも情報が欲しいんだ。もしもオスカーが光喰みと繋がりを持ってしまったというのなら……尚のこと、僕は彼に会わなきゃいけない」
「おまえの頼みは聞けません。私も行きます」
「これは人間同士の問題だ。きみを巻き込む謂れは無い」
「おまえの命は私のもの――違いますか? それを勝手に投げ捨てる許可をしたつもりはありませんが」
「確かに、何が待ち受けているか分からない以上、命を落とす危険もあるだろう。でも、それはきみだって同じことだ。世界を救えるかもしれないきみの命を、危険に晒すわけにはいかない」
「だからといって、死地へ向かうおまえを何もせずに見送れというのですか。……最低です。おまえは、酸鼻を極める駄目男です」
「……そこまで言わなくても」
「命の勘定に、何故自分を含まないのですか」
その言葉が、胸に突き刺さった。
返す言葉が見つからないまま、息を呑む。
「流さずに済む血があるのなら、手を尽くさない理由はありません。それがおまえの血だったとしても同じです。……だから、一人で行かないでください、アルス」
アズリアが初めて見せた表情だった。
怒りとも憐みとも違う色を湛えた少女の瞳が、射貫くように僕を捉えていた。
「……すまない、僕が間違っていた。生き残る確率を少しでも上げる為に、きみの力を借りたい。一緒に来てくれるかい、アズリア」
「酸鼻を極める駄目男から普通の駄目男くらいにまでは見直してやってもいいです」
「手厳しいな」
「見限らないだけ感謝して欲しいものですね」
「――よし。それじゃ、行こうか。イグニフェルへ……オスカーに会いに」
「はい。私とおまえが揃えばこそ、出来ることがある筈です」
心を新たにしたところで、東の地平線の向こうからは既に追っ手の騎士たちが迫ってきていた。
「さて、肩慣らしには丁度いい相手かな」
「相手は少なくとも乗馬した騎士が三十人。人間にとっては劣勢と言える戦況なのでは?」
「ああ。でも、僕ときみの二人なら――負ける気がしないから」