エヴァンジェリスト・アズリエステラ(2)
種蒔きを始めてから、どれほどの時間が経っただろうか。
漸く遺跡群一区画分の作業を終えて外壁に凭れ掛かった時、初めて白以外の色が視界の中に飛び込んできた。
「――瑠璃色だ」
まだ日が高いうちに此処に着いたことだけは覚えている。
しかし、今僕を照らすこの輝きはまさしく、地平線の向こうから一巡してきたものだった。
その時初めて僕は、死の大地にあって尚、流転するものを知った。
人間の領域だろうと、魔族の領域だろうと、顔を上げれば等しく存在する風景。
黎明の空は、まるで生命の輝きのように鮮やかだった。
こんな気持ちで空を見上げたのは、一体いつ振りだろうか――
感傷に浸りかけたところで我に返る。何もかもを棄ててきた僕には、過去を振り返る資格など無いのだから。
そろそろアズリアも目が覚める頃だろう。僕は一度、方舟へと戻ることにした。
暫くして、方舟まで帰って来た僕を出迎えたのは一杯に詰まった荷物袋ばかりだった。
「アズリア?」
呼び掛けに応じる声は無い。
四人掛けほどのスペースの中を隈なく探してみても、少女の姿は何処にも見当たらなかった。
荷物が手つかずのままに放置されているところを見れば、盗賊の類が押し入ったという訳でもなさそうだ。
他の可能性を考える。光喰みの仕業か? いや、荷物が朽ち果てていない。
それに光喰みが相手ならば彼女は扱うことの出来る魔術の全てを使ってでも僕に助けを求めただろう。
煉獄郷の魔族に見つかった? それも考え難い。彼らがこの辺りに来る理由がないからだ。
僕たちが今いるプロムウェオトル遺跡群は、煉獄郷の中でも西寄りの場所だ。地理的には人間の襲撃が起こり得る位置に存在しない。
現在大陸の東半分を領有する人間が、大陸の南西に位置する煉獄郷を攻めてくることを警戒するならば、必然的に軍隊は国境付近に配置されることになる。
補給地点ならまだしも、何の価値も持たない死の大地に警邏隊を割く余力はない筈だった。
「少なくとも危機的な状況ではないということか」
これ以上考えていても仕方がない。僕は第二の目的を優先することにした。
それは即ち、汗を流すことだ。夜通しの作業で汚れ切った服も、一度洗う必要があるだろう。
僕は上空から見た時死の大地に一番近かった川辺を目掛けて歩き出した。
予想通り、そう遠くはない距離にそれはあった。
立ち込める湯気こそまるで天然の温泉にしか思えないが、煉獄郷を流れる川の一つだった。
流れの緩やかな浅瀬ならば、沐浴にも洗濯にも困らないだろう。
「この辺りでいいか。……それにしても、凄い蒸気だな」
唯一不満点があるとすれば、それは視界の悪さだった。
もしも近くに魔物でも現れてしまえば事だ。僕はすぐに手繰り寄せることの出来る位置に剣を置くと、まずは汗を流すべく川へと足を踏み入れた。
つま先が水面に触れる。熱が全身へと伝わる。
その感触は飛び上がるほどの熱さすら覚悟していた僕にとって、むしろ――丁度いいとさえ言えるものだった。
「煉獄郷の魔族は、川の温度を魔術で調整でもしているんだろうか」
じんわりと身体の芯から温まるような、心地よい湯加減に包まれる。
まさに極楽だ。……この地は人間にとって、煉獄などと呼ばれていたというのに。
「僕はまだ、彼らのことを何も理解出来てはいないんだな」
戦場で会う魔族という存在は、誰も彼もが人間に強い憎悪を抱き、鬼気迫る形相で襲い来る侵略者でしかなかった。
もしもアズリア以外の魔族とも言葉を交わすことが出来れば、いつか彼らと笑い合うことだって出来るのではないか――
かつて彼女が真実を口にしたところで、戦争を止めることは叶わなかった。
それでも、夢想せずにはいられないのだ。互いに理解し合うことで開かれる、別の道を。
世界を再生する旅の果てにあるかもしれない、可能性というものを。
僕は人間にとって当たり前の価値観が、ほんの少しずつ揺らいでいくのを感じていた。
「――ええ、私もおまえのことが理解出来ません」
「……え?」
聞きなれた冷ややかな声で、僕は現実に引き戻される。
何処だ? この声は、一体何処から聞こえている?
辺りを見渡せば、視界を覆う湯煙のすぐ向こうに……彼女はいた。それも、一糸纏わぬ姿で。
思わず視界に入れてしまった彼女のあばらの浮いた左の脇腹には、《未来視の紋章》のような、そうでもないような紋章が見えて――
「人間という種族の男は、湯浴みをする淑女も気にせず平然と隣に居座るものなのですね」
強い口調で責めるでもなく、淡々と。
まるで断然された文化の向こう側から語り掛けるかのように、他人行儀な言葉。
じとりと睨め付ける少女の視線は、今までに受けたどんな氷結魔術よりも――恐ろしく、寒々しいものだった。
「アズリア、違うんだ。……きみが此処にいるってことを、知らなかった」
慌てて踵を返した僕は、そのまま背中越しにアズリアへと語り掛ける。
取り付く島があるのかは分からないが、嘘を並べ立てるよりは幾分かましだろうと思ったからだ。
「明け方に一区画分の種を蒔き終えたんだ。そろそろきみが起きる頃だと思って、一度方舟へ戻った」
「でも、きみの姿は見えなかった。方舟や荷物の状態を見るに緊急性は感じられなかったから、先に汗を流しておこうと思ったんだ。だから――」
「そうですか。それが私の真横で沐浴を始めることと何の関係が?」
「――ごめん。気付かなかったんだ……本当だ」
アズリアが信じられないのも無理はない。
僕自身、運命の悪戯としか思えなかった。
「……折角、おまえのことを信用出来ると思っていたのに」
何と言い繕ったとしても、彼女を傷つけた事実を帳消しにすることなど出来はしないだろう。
とにかくこれ以上彼女の尊厳を傷つける訳にはいかない。
僕は川を上がるべく、一歩前に出た。その時だった。
「待ってください」
呼び止めたのは、他でもないアズリアだった。
「――アルス。見られた以上、もはや隠し立てはしません。私のもう一つの紋章を、おまえは知る必要があります」
「待ってくれ、アズリア。きみは一体、何の話を……」
後ろから手を引かれ、振り向かせられる。
その時初めて、彼女は自身の裸体を見られたことなど気にも留めていなかったことに気付いた。
彼女がけして他者に見られてはならなかったもの。それは、これだ。
再び目にした少女の脾腹。その柔肌には、二つの紋章が存在していた。
《未来視の紋章》と、もう一つ。半ばで互いを重ねたようにして刻まれている、およそ見たことのない未知の紋章がそこにあった。
「――双紋章。今この時まで秘匿され続けてきた、皇帝家が皇帝家である所以です」
紋章は一人に一つ。その概念を打ち破る、二つの紋章が一つの肉体に同時に顕現している状態だった。
「きみは、今までこれを隠し通してきたのか」
「魔族はおまえたちと違い、血筋よりもその実力に重きを置いて支持します。それ故に、皇帝という存在は常に絶対的な強者でなければいけませんでした。だからザラキエリ家は――禁忌に手を染めたのです」
「禁忌……だって?」
「ええ。魔族の手によって創造された後天的な紋章。皇帝家に生まれた魔族は、それを生まれ持ったものと併せて双紋章とすることで、皇帝家の存在を絶対たるものにしたのです」
人為的な技術による紋章の追加。それを独占していることが知れ渡れば、確かに大事だろう。
だから彼女は、皇帝家の為にも秘匿し続けなければならなかったのだ。
「最早研究に携わった誰もが消され、機密を知るのは皇帝家に連なる血筋のみ。おまえがこの事実を公表すれば、もしかしたら人間が魔族を滅ぼすことすら叶ってしまうかもしれませんね」
アズリアはそれだけ言い終えると、足早に川を上がっていってしまう。
僕は湯煙の向こうにいるであろう彼女へ向かって、無意識に言葉を発していた。
「――アズリア」
「アズリア、聞いてくれ。僕は、今日此処で知ったことを口外するつもりはない」
「というか……多分、下手をしたらお尋ね者なんだ。人間に、僕の味方は……多分、もういないと思う」
返事は無い。それでも聞こえていると信じて、僕は言葉を続ける。
「僕は一度死んだんだ。きみと出会う前に、既に。花畑できみに出会って……その時初めて、僕の心臓は再び動き出した。だから――」
昔から、何かを言葉にするのが苦手だった。
それでも、伝えようとすることに意味はある筈だ。
自分に言い聞かせるようにして、僕は最後まで言葉を紡いだ。
「この命はきみのものだ。きみと共に歩むと決めた時に、そう決めた。きみが光無き地に齎される黎明である限り、僕はきみを裏切りはしない」
「……でしたら、男として責任の一つでも取ってもらいましょうか」
「え」
「――ふふ。本気にしましたか?」
「おまえのことを信じましょう。それと……二度も運命の悪戯を引き寄せた、その幸運も」
烟る視界の向こうで、冗談めかして少女は笑う。
彼女の背負っていたものは、僕が思っていたよりもずっと大きなものだった。
ただの人間である僕が、それを少しでも肩代わりしたいなどと思うことは傲慢なのかもしれない。
けれど――彼女の信用に報いたいと願うことくらいは、許されるだろう。