エヴァンジェリスト・アズリエステラ(1)
大陸の西端に位置する花畑を発った僕たちが最初の目的地に選んだのは、煉獄郷と称される魔族の領域だった。
かつてこの地には様々な文化を持った人間の部族が犇めく熱帯雨林が広がっていたらしいが、今では見る影も無い。
魔族が流入してきたばかりの頃に、彼らが魔術によって環境を作り変えたのだ。
赤く罅割れた地面は革のブーツ越しでも火傷しかねない熱を放ち、川辺に立ち込める蒸気は卵を燻せばたちまち温泉卵が作れるほどだという。
この地はいつしか、人間がおいそれとは侵入出来ない灼熱の世界となっていた。
「……暑いですね」
「そうだね」
「そうだね、ではありません。アルス、なんとかしてください。耐熱付与でも、水精招来でも、なんだって構いませんから」
魔族と人間に、外見上の差異は殆ど無い。
吟遊詩人が街角で唄う物語に出てくる悪魔のように、青い血が全身を巡っているだとか、山羊だの鹿だのの角が生えているというようなこともない。
肌の色や目の色が地域によって差があるのは人間も同じだ。
しかし、決定的な違いが一つだけあった。魔族は生まれつき、その身体に魔力を溜め込んでおける性質があるのだという。
魔族が長命の種であるのもそういった部分が関係しているのだと、昔の仲間に聞いたことがあった。
それ故に、彼らにとって魔術は人間よりもずっと身近な技術なのだ。
魔力の膜によって熱を遮断する耐熱付与や、世界に遍く存在する水の精霊に働きかけて呼び寄せる水精招来でさえも。
「残念だけど、人間は杖や魔石でもなければ魔術は使えないよ」
「それに、あったとしても僕はその手の魔術はからっきしだ。悪いけれど、水筒の水を分けるから勘弁して欲しい」
広く魔術が普及した現代でも尚、人間は燃料無くして魔術は扱えない。
炉を使う為に火種や薪が必要であるように、人間の魔術師は魔力を代わりに溜め込む触媒を常に携帯する必要があった。
「むう……酸鼻を極める儘ならなさ。人間とは、難儀な種族ですね……」
「仕方ありません、それで手を打ちましょう。私は今手が離せませんから、おまえが飲ませてください」
一切こちらに視線を寄越すことなく、アズリアは傍若無人にそう言ってのける。
とはいえ、彼女が自ら暑さをなんとか出来ないことにも、水筒を掴めない状況にあることにも理由があった。
何故なら彼女は今、僕たちを乗せた方舟の舵を取っているのだ。物体浮遊の魔術によって。
魔力の許す限りどんなものでも浮遊させることが出来るというその魔術も、流石に二人と荷物を乗せてしまえば制御にかなりの集中力を要するのが見てとれた。
「僕が?」
「おまえ以外に誰がやるのです」
「……それもそうか」
観念した僕は、水筒の蓋を開けるとその口を少女の口元へ持っていく。
――正直な話、加減が分からなかった。
どれくらい傾ければいいのか、アズリアはどのくらいまで顔を上げられるのか。
そもそも物体浮遊に影響が出ないよう早急に済ませるべきではないのか、この光景を煉獄郷の魔族に見られたら僕は女児へ手を出している変質者待ったなしではないのか……頭の中でぐるぐると巡る思考は、少女の言葉に打ち切られることになる。
「何を妙なことを考えているのですか、おまえは」
「……いや。ごめん、なんでもないよ」
「口を開けて、少し上を向いてくれ」
「苦しゅうないです」
意識してしまったことを恥じ入りながら、水筒を傾けてアズリアの口腔へその中身をゆっくり注ぐ。
「ん――」
咳き込むこともなく、こくりこくりと喉を鳴らす様子を見て、ひとまず僕は安堵した。
「お気に召したかい」
「温いです」
貴重な飲み水を三分の一ほど飲み干しておきながら、彼女の感想は水よりも冷たいものだった。
「が、無いよりはマシですので。おまえにも少しばかりの感謝はしておきましょう」
「……それはどうも」
「しかし、おまえはよく平気ですね。服の上にフード付きの外套まで纏って」
「慣れているからね。案外通気性は悪くないんだよ、この服。フードだって、直接陽射しを浴びない方が楽なこともある」
「それが人間の知恵というものですか」
「どうかな」
そんなやり取りをするうちに、気付けば方舟は目的地である煉獄郷の遺跡地帯へと辿り着いていた。
「赤々とした荒野が急に終わって、真っ白な大地が広がっている。この辺りが目的の場所って訳か」
「はい。プロムウェオトル遺跡郡……かつてこの辺りに広がる密林に住まう部族が守護していた場所です」
「ああ。人間の話だったら僕にも少しは知識がある」
「ウェオトル族……いつも変わらず空から自分たちを見守る太陽に神の存在を見出し、熱狂的に信奉していた部族だ。侵略してきた魔族に対して徹底抗戦を貫き……十年に渡る戦いの末に、滅亡したんだったね」
「ええ。おまえの知っている通りです。この遺跡郡は、ウェオトル族の最後の砦でした」
「あの時も……軍勢を率いていたのは、魔族を模倣した光喰みだったのです。己の信ずるものを護る。その為に命を賭けた彼らの輝きを喰らう為に、怪物は当時の軍団長に成り代わりました」
「それに気付けなかったのは、指導者である皇帝家の落ち度です。悔やんでも悔やみきれません」
アズリアはばつが悪そうに目を伏せてそう言った。
殆どが白化してしまった大地に点々と佇む石造りの遺跡たちが、一層物悲しさを感じさせる。
「落ち込むのは後だ。此処で花を育てるんだろう? 手伝うよ」
彼女たちにとっては昨日のように思えることかもしれないが、僕にとっては生まれるよりもずっと前のことだ。
光喰みの実物を見た今となっては、彼女に見当違いな怒りや憎しみをぶつける気にもならなかった。
「――はい。ありがとうございます」
僕たちは方舟を降りると、アズリアが花畑から用意してきた積み荷を紐解いた。
その中から種の詰まった革袋を取り出すと、少女は作業の開始を宣言する。
「では、アルス。まずは一帯に種を蒔いてしまいましょう。」
再生の花の生育は、元々園芸に明るくない僕が聞いても突拍子もないと分かるほど特殊な手順を踏んで行うものだった。
どちらかといえば、魔術的な儀式に近い作業なのかもしれない。
「ああ。とにかく隈なく死の大地に種を埋める……だったね。こういう単調な作業は嫌いじゃないんだ。僕に任せて、きみは休んでいても構わない」
「私の大義の為におまえだけを働かせたとあっては、魔族の誇りに関わります! 私も――」
「――危ない!」
僕を追いかけて走り出したアズリアが、砂地に足を取られて転びそうになる。
済んでのところで抱き留めたその体躯は、見た目に違わず荷物ほどの軽さしかなかった。
「間に合って、良かった」
「……失礼しました。少し……ほんの少しだけ、疲れていたようです」
恐らく長時間の物体浮遊で蓄積した疲労が原因だろう。
人間の魔術師では、どんな天才であってもあれだけの重量を浮遊させ続けることなど出来はしない。
彼女の負担がどれ程のものだったかは、到底想像もつかなかった。
「気にしなくていい。きみは此処で休んでいてくれ。終わったら戻ってくるよ」
「……感謝します」
アズリアに方舟で休息を取るように促すと、僕は片っ端から砂地に種を埋め始めた。
辺りは随分と静かだった。死の大地となった場所には、人間や動物どころか魔物さえもが寄り付きはしない。
何もないからだ。言葉の通りに。
水も、食料も。命の糧となり得るものは、死の大地には一切存在しない。
それ故に、川のせせらぎも、虫の囀りも、獣の遠吠えさえも、この耳に届くことはなかった。
色さえも失ったこの大地でひたすらに種を埋め続けるこの作業は、想像していたよりもずっと空しいものだった。
「……それでも彼女は、たった独りであの花畑を作ったんだよな」
誰に言うでもなくひとりごちる僕の言葉は、風に消えていく。
彼女は、種自身の改良を続けながら、ずっと死の大地へ向き合っていたのだ。
どれだけの月日の中で、どれだけの種を地に埋めたのか。
彼女の孤独な闘いを思えば、とてもではないが音を上げてなどいられなかった。