ワールズエンド・アズリエステラ(1)
僕は逃げた。
逃げて、逃げて、逃げ延びて。
そうして、いつしか此処にいた。
人里を遠く離れた山奥の、切り立った断崖。
朝まだきに辿り着いたその場所には、見たこともない花が咲いていた。
きっとこれは、僕が最期に見る景色。
全てを棄てて逃げ出した、愚かな男のささやかな救い。
初めて目にした世界の果ては、夜明けの空をそのまま映したような鮮やかな瑠璃色だった。
「おや、こんなところに客人とは珍しい」
突如背後から投げかけられた、鈴を転がすような声に振り返る。
僕の視界が捉えたのは、今なお微風に揺れる瑠璃色の花に似た少女だった。
落ち着いた言葉や声音と裏腹に、十歳かそこらにしか見えないあどけない容貌。
童女ほど人懐っこくはなく、それでも拒絶の意志は感じさせないほどの柔らかな声音で、彼女は僕に向かって再びゆっくりと口を開いた。
「ようこそ。世界の果て、アズリエステラの花園へ」
「アズリエステラ。聞いたことのない名前だ」
元より植物に明るい訳ではなかったが、一度も聞いたことのない名であるからには珍しいものなのだろう。
特定の地方でのみ育つものなのか、あるいは種自体が希少なものなのか。
少なくとも、長い旅路の途中に見たことがないのだけは確かだった。
「知らないのも当然でしょう。この花は、人の住まう地に芽吹くものではありませんから」
「どういう意味だい」
「言葉の通りです。アズリエステラとは、魔族の言葉で光無き地に齎される黎明を意味するもの。命溢れる世界を彩ることは決してありません」
魔族。それは、隣り合う世界からやって来たとされる侵略者たちが自らを名乗る総称だった。
人類の敵である彼らの使う言語を知る、ということは、つまり。
疑念を言葉にするよりも先に、彼女は話を続ける。
「死した大地を再び色付ける命……それこそが、この名の所以なのです」
そこまで語って、初めて彼女は少しだけ微笑んだ。
もしも彼女が敵ならば、人類全てが憎んだ魔族であるならば、腰に帯びた剣で首を刎ねてしまおうと。
そんな思考を巡らせていた毒気が、何処かへと吹き飛んでしまうくらいに――
少女の言葉と表情は、邪悪な侵略者とはかけ離れていたものだった。
「何もかも、俄かには信じ難い話だ」
魔族とはこの世界に生きる全ての生命を憎み、戦乱と混沌を望むものの筈なのだ。
少なくとも、過去に刃を交えた中に言葉を交わす余地のある者はいなかった。ただの一人も。
生命があれば彼らは弄ぶように殺し、自然があれば踏み躙るように焼いていた。
命を憂うことも、厭うこともない、決して人と相容れることの無い存在。
魔族とは、そういうものだったのだ。
「だから私は、ずっと待っていたのです」
「言葉を尽くすことが出来る、おまえのような人間を」
まるで見透かされているようだった。
人と魔族が出会えば、どちらかの死は避けられない。
この世界は、そういう風に出来ていた筈なのに。
僕は人間でありながら、彼女に剣を向けることが出来なかった。