嫌だ
三
週末、内蔵がぶるぶると震えていた。
かたかたと音を立てる歯を噛み締めることも出来ない。
エアコンのコントローラーを取ろうとしたら、冷たい汗で滑った。床に落ちて電池が飛び出したのを拾おうとしたら、身体が動かなかった。
不味い、このままでは凍え死ぬ。
五月、私は冬まで使っていた膝掛けを引っ張り出して来て、暖房を最大出力にして布団に包まった。
温まらない。室温計が二十七度を示して尚、私はベッドの上で震え続けた。掻く汗は固いままだし、厚着をしても動き難くなるだけだ。四肢の先端など冬を連想させる冷たさだ。
私はただ、震え。
嫌だ
それだけだった。
内蔵が震え始める前、私の脳裏を過ぎったのは先々週の記憶だった。
盤上に何も表現出来ず、何一つ許されず、無惨に終わった夕刻の記憶だった。
私が道だと信じた、私が型を破れるのならお父様にも勝てる筈だと、そう信じた碁の道で、無惨に破れた記憶だった。
人格の全てが否定される。また、また人格の全てが否定される。そんな恐怖だった。
碁には、運に左右される要素が無い。唯の一つも無い。全てが己の意志と決断によって為され、全ては相手のそれとぶつかり合う。だから悔しいとか辛いとか、そんな腑抜けた感情ではない、魂の、魂の問題なのだ。碁を道だと思ったその日から、それは魂の問題なのだ。
最後には雪環ブランドの雌牛として出荷される定めを知りながら、それでも抗う私には、ここでお父様に勝つしかないというのに。
二子局で打ち始めてから、三年間、進歩のない私。
背丈を伸ばし、知識を増やし、少しばかりそれらしい身体になって、羨望の的になって、なのに、私には何の進歩も無い。ただの一度も前進していない。生きるとは、何なのだ。
勝ちたい。勝ちたい。勝つ為には戦わなければならないのに、負けるのが怖い。
嫌だ
恐怖というのは行くところまで行くと、自分が今怖がっているということすら認識出来なくなるのか――私が震えたのは恐怖の所為だったと認識した頃、そんなことを知った。
数十分して漸く体温が戻って来た。今度はどっと汗を掻き、エアコンを止めて上着を脱ぐ。また寒くなって来た。けれど、もう行かなければ。
大丈夫。この二週間、どれだけ詰碁を解いた。どれだけネット碁を打った。どれだけプロの碁を並べた。もう先々週の私とは違うはずだ。
三階に下り赤い絨毯の敷かれた洋風の廊下を進むと、突き当たりにぽつりと襖がある。
戸を開けると中は無人。予定時刻の十分前、盤側に向かうと、桐の箱を取り外す。榧の甘い香りが立ち込めて、私の頬は少しだけ緩んだ。盤面を軽く布で拭ったら碁笥を中央に並べ、盤側に対局時計を設置する。エアコンで室温を少し上げてから、膝掛けを手に下座に着く。そうして大きく深呼吸をした時、ゆっくりと戸が開いて。
「風邪でも引いたのか」
お父様の第一声は、僅かな驚きを孕んでいた。
「いえ、少し寒気がしたので」
「そうか。気を付けろよ」
パーカー姿の私に何度か目を遣ってから、Yシャツ姿のお父様が向かいに座った。碁笥を引き蓋を開けると、徐々に心臓が早鐘を打つ。黒石を掴むと、震えは止まった。
「お願いします」
右上隅と左下隅の星に黒石を置いて、二週間振りにお父様との二子局が始まった。
今日、日本の囲碁人口は二百万人にまで落ち込んでいるそうだ。
日本の人口が一億二千万人を超えているのだから、年に一度でも碁を打つのは六十人に一人くらいということになる。そこから碁に熱中している数となれば、ぐんと減るだろう。更に六段以上の棋力ともなれば、桁がいくつ減るだろうか。
そんな希少な存在の中から生涯の碁敵を得るというのは、幸福なことなのだろう。私の場合、それが家に居ながらにしてお父様と城野さん、二人も居るというのだから、恵まれていると言うよりない。雪環家に生まれたから碁を覚え、雪環家に居るから碁敵に恵まれる。そのことを思う時ばかりは、この家に生まれて良かったと思うよりなかった。もし私がお母様でない母胎に宿り、雪環でない家に生まれていたなら、生涯、この縁には、碁には出会わなかったかも知れないのだから。
もし今、私に迷いがなくて。私がお父様と闘うことを怖れていなかったなら。どんなに幸せだっただろう。
碁打ちは幸せだ。誰もが一度しか人生を歩めないというのに、碁打ちはそれを、打った碁の数だけ味わえるというのだから。
碁の一局は人生に似ている。決して後戻りすることは出来ず、自分の過去は決して消すことが出来ない。リセット出来るのは局面ではなく、自分の精神だけだ。仮に失敗をしたとすれば、その碁に勝つには挽回するしかない。気持ちだけはリセットして、逆転しなければならない。それが難しいことは、現実に社会が証明しているだろう。
けれど碁は、逆転のゲームだ。一度優勢になった方がそのまま勝ち切るケースは、寧ろ希だ。逆転に次ぐ逆転で、最後の最後に勝敗が決するのだ。アマの世界だけでない、トッププロの世界でもそうなのだから、それはもう人間の性であり、世界の性だ。
良い手を打てば悪い手も打つが、それでも最後に勝つ為に全力で向かう。初めは布石を打ち、戦略を練る。どういう碁を打ちたいか、どういう人生を歩みたいかと、構想を練る。やがて中盤戦に突入すると石が競り合い、相手との鍔迫り合いが始まる。斬り合いも始まる。殴り合いも始まる。時に間合いも取り、ただどちらの言い分が正しいのかという喧嘩、舌戦が続く。それが終わると終盤戦に入る。碁の決算、人生の総決算。自分の今までの手で、今まで歩んで来た道で、勝敗という結末に漕ぎ着ける瞬間。
納得出来るか否かは、碁に、人生による。
「負けました」
勝てなかった。
今日も私は、二子局で惨敗した。
中盤の戦いで攻め損なった。そこで二子局のハンデを失った私は猛攻に出た。けれど今度は攻め過ぎた。強烈な反撃を受け、私の石は潰れ形。碁を失った。
最早、手合が違うのではないか。もう一度三子からやり直すべきなのではないか。そんな風に思ったこともあるけれど、お父様は決して、三子に戻そうとは仰らない。お父様は、私が二子で打てると信じているのだ。来る日も来る日も、私に負かされるのを待っている。
そうしていつか、置き石を無くし、私と先で打つ日を待っているのだ。
そうしていつか、私と互先で打つ日を待っているのだ。
盤を挟んで上座が遠い。盤の向こうでお父様が高い。膝の上で、私の手は小さい。
「今夜の外食はやめよう。夕食には温かい物を出して貰うように言っておく。部屋を暖かくして、身体を冷やすなよ」
私の碁が弱いのを体調の所為だと思っているのか。体調の所為に、してくれているのか。俯いたままの私に検討を持ち掛けるのは酷だと思っただろう。私は俯いたままで、お父様にそう思わせた。
気遣いだけを残して石を片付け始めたお父様に、私は喉を震わせる。
「ありがとうございます」
私はこの二時間、何をしていただろう。
お父様に、何をさせていただろう。
碁もいいが、とにかく今は勉強を続けて、私の後を継ぐんだ
お酒の入った夕食の席で、何度聞いたか知れない台詞。こんなことをしているくらいなら勉強をしていろと思われてはいないだろうか。忙しい合間を縫うように私と碁を打つ時間を作って下っているお父様に、私は何をしているのだ。これなら、打たない方がいいではないか。道標を失った私に、碁を打つ意味などないのではないか。
握った石に、どんな意志があるというのだ。
冷たかった石が私の手の中で温くなったのを覚えて、碁笥に落とした。
私は三年間、何をしていたんだ。
私は弱い
今日も私は、道を進めなかった。
お父様の手が見えない。狙いが見えない。否、正確には、しばらくしてから見えるのだけれど、それでは遅い。遅すぎた。お父様がどんな狙いを秘めているのかがわからないから、その手がどんな手なのかがわからないから、私は対応を誤り、形勢を損じていた。否、その瞬間に形勢を損じていたことを、その瞬間には私は自覚出来ないでいたのだけれど、しばらくしてから、盤上に石が増えて来て、もう形勢を逆転する選択肢の無い局面に陥ってから、手遅れになってから、私はそれに気付いた。
私は弱い
一体どうすれば、私は飛び出せる。
どれだけ詰碁を解いても、力が出せない。どれだけ碁を打っても、お父様との碁には進歩が無い。どれだけ碁を並べても、私の碁には変化が無い。
これ以上、どうすればいいというのだ。
このままお父様とお母様に愛されて、雪環家に愛されて、最高の雌牛として出荷されるのを、待つしかないというのか。愛情によって作られた雪環灯理の意思が、私の意思を食い潰すのを、見ているしかないというのか。
私でなくとも良かった雪環灯理の肉体で、私は生きていかなければならないのか。
私の心は。私の魂は。
私は。
私の今日は、今日も、昨日と同じだった。昨日と同じ今日だった。一昨日と同じ、一昨昨日と同じ、先週と、先月と同じ……私の今日に、進歩はなかった。
私にこの道を進むことは、できないのだろうか。
私が魂を呼べる其れを獲得することは、ないのだろうか。
対局室を出る頃には再び震え始めた内蔵。そこまで届くように、私は腹部を手で圧した。
まだ大丈夫、まだ大丈夫だ。
私はまだ、潰れてはいない




