明日への一手
終章
「夢への第一歩だな」
「はい」
教育学部への進学が決まったことを伝えると、先生が抱き締めてくれた。
初めて逢ったあの日から、一センチ伸びた背丈。少しだけ増えた体重。先生の目に、私はどう映っているだろう。
「いよいよだな」
「はい」
「親父さんとはうまくいったか?」
「胃に穴が空きそうだと言われました」
「それで、灯理は」
「内科に掛かってくださいと」
先生は肩を震わせて笑う。
「腕の良い医者に掛かれるといいな」
「はい。私が継ぐまでは、お父様に頑張って頂かなければ」
私の肩に掛かる先生の手に、ぐっと力が籠もった。
「灯理ならやれる。頑張れ」
「はい」
道だ。
此れが私の道なのだ。
次の一歩を決めるのは、私だ。
養護教諭養成課程
その文字を見るだけで私の胸はときめき、指先の筋肉にまで力が籠もった。
「俺は青春を碁に捧げることが、碁を極めることが、俺の雪環を創ることに繋がると信じた。だが灯理は、碁に捧げるだけでなく、碁という道から、新たな道を見出した。灯理が大学を出て養護教諭になると言うなら、十年は遣れ。そうして絶対に、灯理の雪環を創れ。半端な覚悟では世間の波に呑み込まれるぞ」
「覚悟は出来ています。それが私の雪環に、必要なことなのですから」
「苦しむことが分かっている道に、それでも進むのか。失敗した時の風当たりは、尋常ではないぞ。況してやお前は女――」
「承知の上です。いつだって一人目は、誰も経験したことのない困難に立ち向かうことになるのでしょう。自分で道を創らなければならないのでしょう。お父様もそうだったのではないのですか。勝負をしていたのではないのですか。人生を懸けて、意地を張り通したのではないのですか」
「並大抵のことではないぞ。人を救うどころではなくなるかも知れない。養護教諭になったことが雪環で活かせる保証など、どこにもないんだぞ。迷い込むかも知れないんだぞ」
「成功する保証のある道に、誰も見たことの無い世界はありません。私すらも知らない世界を知るには、信じるしかないのです。艱難辛苦で諦めるようでは、何も救えません。それを闘い抜いた先に、私の歩みが在るのです。新しい雪環で人々を幸せにするために、私の道は在るのです」
「見せてくれるのか」
「それが私の、念いですから」
翌朝私は夢を見た。広大な砂漠を一人行く夢だ。
ひび割れた大地は岩石が散乱し、左手では火山が噴煙を上げていた。
生きるとは何だ。
心臓が動いているだけでは、私は其れを実感出来ない。
自らの血肉が健康であるだけでは、私は其れを実感出来ない。
此の血肉が評価され消費されるだけでは、私は其れを実感出来ない。
家畜の様な其れでは、私は其れを実感出来ない。
私が陽射しを浴びるのは、私が其れを欲したからだ。
私が一人砂漠に居るのは、私が其れを望んだからだ。
私が雪環を継ぐことになるのは、私が其れを求めたからだ。
私が汗みどろになりながら砂漠を歩くのは、私が道を行くからだ。
私の手には烏鷺の碁石。ザックには碁盤が入っていることが分かる。私はきっと旅に出た。誰も助けには来てくれない其処で、更に誰も助けに来てはくれない世界に飛び込んで行く。それでもザックにキイチゴのジャムが、裏山の湧き水が、この手に、春の陽射しの暖かい、草原の温もりがある。火山の煤に汚れても、大地の砂に汚れても、目を閉じれば、見下ろした盆地が、見上げた裏山が、いくつも林道が、澄んだ小川が、雨に霞んだ山影が、いくつもの局面が、今もここにあるかのように思い出される。そんな旅に、私は出ていた。
だから私は打ったのだ。目覚めた其の時打ったのだ。
私が見出す魂の在処――明日への一手
私をその気にさせたくば、激烈の道を行くことだ。
渇きに飢え、飢えに渇き、激烈な道を行くことだ。
私の暁光を浴びたくば、激烈に道を行くことだ。
心が叫び、魂が叫ぶ、激烈を道にすることだ。
私は灯理。
今、飼い切れない牙を剥く――雪環灯理は此処に居る。




