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Step to Tomorrow  作者: 巣立最中
四章
15/20

黒糖のりんごケーキ

        三


「俺もこの年になるといろんな負けず嫌いを見てきたが、未だにあいつを超えるのには会ったことがない」

「そんなに、なのですか」

「負けた相手に勝つまで挑むのは当たり前。日を跨いでさえ勝ちに拘った。それも相手のミスに救われた勝ち方じゃ納得しねえ、内容の良い碁でなきゃあ納得しなかった。相手にだけじゃねえ、てめえ自身に負けるのが一番腹立たしかったんだろう。だから碁に負けた日には、碁で負けた日には、学校なんかよりそっちの方が、奴にとっちゃ一大事だったのさ。高二の時だったか、どうして学校に来ねえのかと聞いたことがある。そうしたら奴は、『碁に負けたんだぞ!』って涙流して叫びやがった。そりゃあ親の声も届かねえ、奴は雪環を継がなきゃならねえ定めの中で、最大限に碁を打とうとしてたんだ。一局でも多く打とうと、一問でも多く解こうと、一秒でも長く碁のことを考えていようと……一局の碁だけじゃねえ、てめえの人生って奴にさえ、奴は負けたくなかったんだろうよ。てめえ勝手に医者を目指した俺なんぞには、一生分からん心境なのかも知れねえがな」

 お酒を一口飲んで、基信さんは続ける。

「だが、そんな奴でも、プロ棋士になりたいとは一度も口にしなかった。あいつが心の内でどう思ってたかは俺にも分からんがな」

 耽るような表情で、しかし基信さんは私のして欲しい話をし続けてくださっていた。

 嵐村家。

 香ちゃんの住まう家で、私は香ちゃんのお母様に手を合わせて、

 香ちゃんの料理を食べながら、私と千陽先生が出会った日のことや、私と香ちゃんが出会った日のことを話して、それから、私が養護教諭を目指すに至った経緯を、そしてそれを両親に伝えた日のことを話して、そうして、私のお父様の話を伺っていた。

「だから、灯理さんが三年間負け続けてたってのは、そういうことのように、俺には思える。愛娘が相手だからって手を抜くような真似をする奴ではないように、俺には思える。それでも、たった一、二ヶ月で灯理さんがそう思うくらいに奴が突然強くなったんなら、それは灯理さんが、奴の眠っていた力を引き出したんじゃあないのかと、そんな可能性を、俺は勘繰りたくなる。養護教諭になりたいと思い、その夢を伝えようとした、灯理さんの碁が、な」

「私の碁が、ですか」

「何より俺は、そんだけ努力してる灯理さんの碁が、進歩してない筈がないと……そんな筈のある訳がないと、思う。碁に対する姿勢なら、俺の知っている和も、灯理さんも、誰にも負けていないように見える。プロ棋士を目指す者の世界ならともかく、それが叶わない者の世界で、それ以上のことはないと、俺は思う。志弦と直ぐに気が合ったのも、あいつには分かったからだろう、灯理さんの姿勢が。てめえと同じかそれ以上に、何かと真摯に向き合ってる、その姿勢が」

「そう、なのでしょうか」

「あいつもまた、一本の道しか見えてねえ奴だからな」

「志弦は馬鹿なだけだよ」

 ずっと聞きに回っていた香ちゃんがぽつり。

「はっはっは、だが馬鹿のまま突っ走るのは容易じゃあねえ。世の中、賢くあることも大変だが、馬鹿を押し通すことも同じくらい大変だ」

「お父さんはどっちなの?」

「賢くなることも馬鹿で居ることも出来なかったな。要するに人間が出来てねえんだ」

「小難しい考え方するからだよ」

「はっはっはっは! そうかもな。小賢しくて小馬鹿で、どっちかというと馬鹿に寄ってる。質が悪い」

 そうだね、なんて笑って、香ちゃんはキッチンに立つ。

「香が言ってたぞ、何でも話したくなっちゃうんだ、って」

「私に、ですか?」

 一瞬何のことか分からず、目をぱちぱちさせてしまいました。

「ああ」

「それは、どういう……」

「それは灯理さんが、養護教諭に向いてるってことさ」

 香ちゃんが、茶色いケーキの盛られたお皿とお茶をお盆に載せて運んで来てくれた。

 話したくなる。

 それが、養護教諭に求められる資質、というお話でしょうか。

 香ちゃんがにこにこしている。なんだか釣られて、私も笑ってしまう。

 私はお父様と、数え切れない程の碁を打った。けれどお父様のことが、私にはまるで見えてこない。勿論、たった一手で伝わること、ひしひしと伝わって来ることというのは、あるのだけれど。そうでない、もっと奥深く、深遠に在る、道が。あれだけの碁を打つ者の、道が。

 お父様は、プロ棋士になりたいとは口にされなかったという。それは、雪環を継ぐことが分かっていたからなのか。

 私が院生からの誘いを受けた時、断らなければならかったお父様は、どんな心境だったのだ。

 お母様に子供が出来ないと判明した夜、私にそれを告げた席で、私に勉学を続けるように言い、後を継ぐことを求め、私を抱き締めたお母様から目を逸らし、涙ぐんでいたお父様は。

「父にとって囲碁というのは、何だったのでしょうか」

 お茶とケーキを配った香ちゃんが、席に着く。

「人間を量る世界だったのかも知れねえな」

 碁にはその人間の全てが出る。性格から生き方から、何もかもが表れる。

 碁という道に生きる者は、皆がそうなのだ。

 碁は、道だから。

「いや、俺なんかが知った風に言うのは間違いだ、今のは忘れてくれ」

 ……いえ。

 きっと。


 ぱくり。黒糖のりんごケーキ。マイルドな風味の中に、時々やって来る甘酸っぱさが堪りません。

 料理のいろはを、志弦さんのお母様――由希枝さんから教わったのだという香ちゃん。今では基信さんのお弁当まで作っているのだとか。先程ご馳走になった中華料理も優しい味付けで。森坂さんのお宅でご馳走になったサラダの……梅酢の効いたドレッシングは、私を倒しこそしましたが。登山で疲れていた私を思い遣ってのレシピだったであろうそれは、完成したサラダで頂くと、野菜の甘みも相まって温かい味がしました。

 香ちゃんの作った料理は、既に、香ちゃんの料理になっているように思えて。その料理を食べただけで、香ちゃんが伝わって来るようで。

 千陽先生に至っては、お仕事でも、碁でも、料理でも、先生が溢れていた。

 それでも、深遠にある、道が、見えない。

 奥深くて、私の眼で、捉えられない。

 そんな私の碁が、お父様の眠っていた力を引き出したなどということが、あるのだろうか。「どうして養護教諭になろうと思ったんだ」「養護教諭になって何をしたいんだ」「養護教諭になることに、どんな意味があるんだ」夢を伝えたその席で、そう問われ答えに窮した私などに、そんなことが出来た筈など、あるのだろうか。やはり私が負けたのは必然だったと思った私などに、そんなことが出来た筈などあるのだろうか。

 私は養護教諭になりたいと思った。

 其処に、魂が在ると思ったから

 そうすれば、其処に私の居場所が在ると思ったから。

 そんなこと、言えなかった。其処に魂が在ると思うからです、なんて言えなかった。先代の学校看護婦達の生き様に其れを感じたからです、なんて言えなかった。魂とは何だ。そんな非科学的なものを信じただけで現実を変える力になるのなら、私は三年間も苦労しなかっただろう。でも、それ以外の言葉では、表現出来そうになかった。私がどうして養護教諭を目指したのか。それは偏に、この四年間、偏に求め続けて来た物。其れを其処に見付けたと思ったからに他ならない。

 だがそんなもの、何処に在るというのだ。養護教諭になっただけで、湧いて出るとでも思っていたのか。証明の出来ない物を信じて貰える筈などないことすら、碁で勝つことで証明しようと思っていた私が、忘れていたというのか。それでは、霧山先生の熱に当てられているだけではないのかと、そう言っているかのようだったお父様の眼差しに、何も言えなかったあの席に、

 何の意味があったというのだ。

 碁でそれを証明出来ていない私などに、描いた未来が訪れることがあるとでも思っていたのか。私が道だと信じた其処で未だ何も成せていない私に、そんな手が打てると思っていたのか。

 人を救う。

 養護教諭になっただけで、それが出来ると思っていたのか。

 なろうとしただけで、それが出来ると思っていたのか。

 雪環を継ぐしかなかった私が夢を見付けたことで、お二人の心を少しでも救えるのではないかと、そんな勝手なことを思っていた。けれど、お父様を救うことも、お母様を救うことも、私には出来なかった。

 遠い。

 何もかもが遠い。

 私が信じた私とは、一体何だったのだ。

 それでは本当に、私は先生に当てられただけだったのか。

 私は、ただの哀れな小娘で。

 雪環という牧場で飼われるだけの、雌牛でしかないというのか。

 十八時間を刻む針の音が、再び聞こえて来ていた。

「灯理ちゃんなら大丈夫だよ」

 不意に発された明るい声に、虚を突かれる。

「灯理ちゃんのお父さんがどんなに負けず嫌いでも、灯理ちゃんなら、大丈夫だよ」

 今度は、どこか暖かい声に、確かな強さがあった。

「だって灯理ちゃんも、物凄い負けず嫌いだもん」

 訴えるような声が、私の心に伝って来る。

「灯理ちゃんも、物凄く真っ直ぐだもん」

 そう言った香ちゃんは、こう言って笑った。

「今も、囲碁のこと考えてたでしょ」

 、

「ごめんなさい、その、」

 そこまで言って、もうお皿が空になっていて、食卓には水と基信さんのお酒しかないことに気付く。今、何の話をしていたところだったろうか。お料理の……そう、ケーキの感想を言っていた気がする。

「灯理ちゃんは灯理ちゃんだから。灯理ちゃんのしようと思ったことは、灯理ちゃんのものだから」


「千陽さんと出会って養護教諭を目指したって、それは千陽さんのものじゃないから。絶対に、灯理ちゃんのものだから」





 私は養護教諭になって、何をしたいのだろう。

 私が養護教諭になることに、どんな意味があるのだろう。

 私はどうして、養護教諭になろうと思ったのだろう。

 ただ、私が其れを遣るのだという、強い意志があることだけは実感出来る。しかしそれを、言語化出来ない。私は何がしたいのだ。其れをすることで、私に何が在るのだ。私はどうして、其れを選ぶのだ。

 子供が好き、違う。学校が好き、違う。学校など、行くべきだとされているから行っていただけだ。それが定石だから、それが型だから、そうしていただけだ。社会の型というものが最も顕著に表れるのが学校だ。きっと先生との出逢いがなければ、今でも嫌いだったに違いない。けれど先生に会えるから、そこに保健室があるから、たとえ保健室に行かなくとも、私は学校に行くのが楽しくなった。それでも、だからと言って私がそれを次世代の子供達にもそうしてあげたいとか、そんな奉仕の精神で養護教諭を志した訳ではない。学校を楽しい場所にしたいから養護教諭を目指したなんていうことは、ない。

 そんな私が養護教諭を目指すなど、不純だろうか。

 ほんと、なんで学校の先生になんかなったんだか……

 自嘲染みた笑みのあった先生の声が過ぎる。

 山はキャンバス。筆を持つのが自分自身なら、絵の具もまた自分自身。そういうキャンパスが好きだ――先生はそう言っていた。そう言いながら、なんで学校の先生になんかなったのかと笑っていた。

 そうして、それでも、あの場所は、保健室は好きなのだと、そう言っていた。

 でも、私を見た時に、保健室に居たら何も出来ないと思ったと、そう言っていた。

 だから、保健室の先生失格だと、笑っていた。

 でも、そんな先生に、私はこう言った。

 先生が居るから、保健室なのだと。

 其処に私は、一つの揺るぎない物を感じる。其処には一つの揺るぎない物が在るから、私がこうして養護教諭を目指すに至ったのだと、そう思う。

 けれど、其れが何なのかが判らない。

 魂。

 そんな言葉で、お父様を説得出来る筈など、無いのだから。私はそれを、私の言葉にしなければならない。雪環を継ぐ前に其れをすることが必要なのだと、其処に有意義な物があり、其れをすることに、意味があるのだと、伝えられなければならない。

 私で。

 雪環灯理の、道で。

 車を降りると、粉雪が舞っていた。真っ暗な空に、雪環家の照明で浮かび上がる、粉雪。

 今年の初雪が、静かに舞っていた。

 不思議と落ち着く光景の中で、私は白い息を黒い空に吐きながら、頬に流れる涙を落とした。



 絶対に、灯理ちゃんのものだから




 絶対に、灯理ちゃんのものだから






 自室に戻ったところで、お父様から着信があった。

『今日は学校に出向いた。先生方とゆっくり話が出来たよ』

 そう言いつつ、既に雪環家でなく、異国の地にいらっしゃるお父様。

『それで来週、霧山先生をお招きすることになった』

「へ?」

『すっかり碁の話で盛り上がってしまった。手練れなのだろう?』

「え? ええ。当時の私と互先では、手合い違いだったとも思いますが」

『灯理と打つのはまた今度になるが、いいか』

「それは、構いませんが」

『担任の先生とも話したが、「他の生徒の前では言えませんが、やはり学年一位にはお嬢様が居るのが一番しっくり来ますね」なんて仰っていたよ』

「霧山先生をお招きして、碁を、打たれるのですか?」

『そうだ。灯理に色々して頂いたお礼もしたいから、夕食のお誘いもしたよ。それだけではどうかとも思ったからな、碁で交流が出来るならそれ以上のことはない』

「交流、ですか」

『なんだ、妙に勘繰るな。心配するな、ただ碁を打つだけだ』

 ただ碁を打つだけ?

 そんなことがあるのですか?

 お父様は先生を、千陽先生を試す積もりなのでは。否、先生を叩くことで、見せる積もりなのでは。養護教諭になりたいとは言ったものの、その夢について具体的に答えられなかった私が、千陽先生に当てられて浮ついた気持ちで居るのではないかと、そう思われても仕方ない状況だった私が。ただ先生に憧れ、先生のようになれたらいいと思っているだけに映ったであろう私が。間違った道に進もうとしているのだということを。

養護教諭になった後、本当に雪環を継ぐ積もりがあるのだとは、信じて貰えないであろう灯理を試す為に。私でなく、先生に、白羽の矢が立ったのではないか。

 私が養護教諭になりたいと言ったばかりに、先生を艱難辛苦に巻き込んでしまったのではないか。遂に、巻き込んでしまったのではないか。

「……でしたら、私も同席して、宜しいですか」

『同席?』

「棋譜付けを、させて頂けませんか」

 せめて、この眼で見なければ。

『棋譜付け、慣れない作業だがやれるのか』

「この三年間、お父様と打った全ての碁を、棋譜に残して来ました」

『……そうか』

 驚きを孕みながらもどこか嬉しそうなお父様の声が、私の耳に残った。





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