鋭い視線 葉先の雫
四章 一
先。
お父様を相手に、真っ新な盤に私が初手を打ち下ろす、初めての碁。
置き石が無い――私が高揚するのには、その事実だけで充分だった。
置き石は必ず星にあるから、今日は小目や目外しや高目を使って、置き碁では使えなかった布石を使おうか。……特別なことは考えず、碁会やネット碁で打つ時のように、普段通りに行くべきだろうか。普段通りで、お父様に勝てるのだろうか。そうすれば悪くならないであろう、プロの実戦に多くある布石を使うべきだろうか。
怖い。
高揚していた筈の私は、いつの間にか恐怖に包まれていた。
お父様は一体、どんな碁を打つのだ。
期待と恐怖が渦巻く中、私は手前の碁笥を降ろして、蓋を外す。
「お願いします」
声が震えていた。
ゆっくりと深呼吸して、初手を右上隅の小目に打ち下ろす。
勝って、養護教諭になりたいという夢を話そう
九月四日。そう心に決めた一局が、雪環家三階の特別対局室で始まった。
「見たの、初めて?」
「うん。初めてだわ。映像とは、訳が違うわね。迫力が……」
私はさっき、擦れ違った。
黄色と黒の縞模様の巨体と。
「あんな音出して怖い顔してるけど、かわいい時もあるんだよ?」
「オオスズメバチが?」
「うん。春なんかにはね、女王蜂がモンシロチョウを追っ掛けてたりしてねー! まあ捕まらないんだけど、それがかわいいんだよー」
さっき見たのは働き蜂でしょうから、それより大きな女王蜂。それが、モンシロチョウを追い掛けている。
「印象と実態の、相違が」
可愛い。
そんなの、ぜったいに可愛いじゃないですか!
今度は違う意味でどきどきしてしまう私。だって、そんなの絶対に
「実際には餌を探してるだけなんだろうけどな。アゲハの終齢幼虫だって狙うんだし」
「……そうよね」
「でもね、アゲハの幼虫は臭角で反撃するんだよー!」
あの、私が大好きな。
「あれ、良い匂いだと思うんだけどな。なんでオオスズメバチは退散するんだろうな」
「命のにおいがするよね」
「私も大好きだわ」
……。
アゲハさん、私達には絶対に敵わないことが判明しました、急ぎ新兵器を開発してください。まあ、あなた方に危害を加える積もりなど、私達には毛頭ないのですが。
というか香ちゃん、今、命のにおいって言いましたよね。そう、それです。それはとても素敵な言葉に聞こえます。私があのにおいが好きなのは、命が嗅げるからかも知れないです。あのにおいに、命が詰まっているように感じるから、好きなのかも知れないです。
「あっ! セミのしょんべん喰らった!」
命の遣り取りをするにおいだから、好きになったのかも知れないです。
「あっはっはっは! あっはっはっはっはっは!」
香ちゃん笑いすぎです。
セミのおしっこというのはほとんどが水分で、樹液なども混じっているくらいの基本的に無害なものということですが。きっとカラスアゲハのそれと似たようなものでしょう。あれだって、ほとんどが水分で、花の蜜が混じっているかもというくらいでしょうから。
とは言えタオルなど出して拭いてあげます。大事なのは気分です。気分は大事なのです。
拭ったタオルをこっそりと嗅いでみますが、何も臭いません。死骸や糞尿に集まるような蝶ならば話は別でしょうが。ミンミンゼミは、そんなものを食べたりはしませんし。
天候は曇り。なかなか収まらない鼓動を静めようと、私は深呼吸を繰り返していた。
今日は、香ちゃんと志弦さんと、裏山に遊びに来た私。森坂さんのお宅にお泊まりして、明日のお昼には一緒に帰ります。連休を利用したお出掛けです。
九月も半ば。曇り空の下、林道は時折肌寒さも覚える程ですが。お昼を食べた後にオオスズメバチと遭遇し、その迫力に圧倒された私はと言えば。ドキドキが収まらず、まだ身体が火照っています。
「しかし灯理が保健室の先生かー」
のんびりと歩く志弦さん。お昼から、そのことが頭を離れなかったのでしょうか。
お昼を食べながら、香ちゃんと志弦さんに、養護教諭になりたいという夢を、話した私。
養護教諭になって、そうして一人前の養護教諭になってから雪環を継ぎたいという、夢を話した、私。
お父様にもお母様にも、話せていない、それを。
勝って話そう。
私はそう思って対局に挑んだけれど、結局話すことは、出来なかった。
おそらく布石を打ち終えた段階では、どちらにも悪い手は無く、形勢は五分だった。であれば、先のハンデがある分、私がいくらか有利なはずだった。けれど中盤、些細な問題で反発され、一瞬にして難解な戦いに引き摺り込まれた。私が「互いの陣地の境界線をここに引きましょう。元々こんなものでしょう?」と言った、それ自体は常識的な手で、別に私の言いなりになったって、形勢が動くことは無かった。けれどお父様は、それを許してくれなかった。縄張りを主張する獣が如く、突如として襲い掛かって来た。私が知らずの内にお父様の縄張りに踏み込んだ訳では、なかったはずなのに。
不意に始まった戦いでどうすればいいのかは分からなかったけれど、持ち時間を大量に投入して読みを入れ、読んだ図の判断にも時間を費やした。押されているという感覚は無かった。けれど、私の進んだ道で、一手、また一手と、私が「そう打たれても特別困ることはない」と思って大して警戒していなかった手を、実際に打たれてみたら、その数手後に困って、私はじわりじわりと後退を余儀なくされた。
そうして戦いが終わった時、私の縄張りは大部分をお父様に奪われていた。
私の判断の甘さ。圧倒的な戦闘力の差。
養護教諭という志を胸に挑んだ一局で、私は敗北した。
先週打ったお父様との碁のことが、頭を離れない。一瞬でもあれば、私はそれを鮮明に思い出せてしまう。
今日はそれを忘れて、目一杯に楽しもうと思って来たのに。
一瞬。お父様に噛み付かれた、一瞬の事が。
私が抱いた志の、甘さ。
雪環を継ぐという道の上で示された、圧倒的な力の差。
私の、敗北を。忘れようと。
「千陽姉とは、イメージ違うけどなー」
志弦さんの声で、我に返る。
それは、確かに。私と先生とでは、いろいろと、逆なように思います。
「そうかな。わたしは灯理ちゃんと千陽さん、似てると思うんだけど」
え?
「なんて、いうのかな……。普通の人と、見てるところが違う、っていうか」
「私が……」
千陽先生なら、ともかく。私は。
「普通は、千陽さんのことが知りたいと思ったら、千陽さんに聞くとか、千陽さんを知ってる人に聞くとか、するでしょ? でも灯理ちゃんは、いきなりここに来るんだもん」
そう言って香ちゃんは、少しおかしそうに笑う。
「だから灯理ちゃんは、千陽さんじゃなくて、何か別の物を見てるんじゃないかなって。千陽さんと話してる時も、時々こんな風に思うんだ」
「……そう、なの」
碁は、道だから
先生の声が、脳裏に響き渡った。
私と先生は、似ている。
境遇も外見も言動も、何もかもが遠く離れている私と、先生が。
「だからきっと、千陽さんみたいな先生になれるよ!」
私が、先生のように。
「わたしは会社の社長さんとか、全然わかんないけどさ。灯理ちゃんが出来ると思ったことなら、きっと出来るんだよ!」
半歩先を歩く香ちゃんが、振り返って微笑んだ。
「だから、お父さんに追い付けなくても、焦っちゃだめだよ」
きゅんとして、涙が零れ落ちた。
思わず目を閉じたら、また零れ落ちた。
頬を伝った涙の痕が、微かな風を受けて冷たい。
「大丈夫だよ」
柔らかな布の感触に目を開けたら、香ちゃんが涙を拭いてくれていた。
鼻を啜って、痛む喉で嚥下した。
「ありがとう」
心が洗われるようだった。
自然と零れ落ちる涙を止めることが出来ずに居ると、志弦さんがどこかそっぽを見ながら言った。
「負けて泣くのは、頑張った奴だけだ」
言ってから、私の方に向き直る。
「って、中学の時の監督が言ってた」
少し恥ずかしそうに、けれど両の足でしっかりと立って、志弦さんは笑った。
そうか。
志弦さんは知っているのだ。
夢に向かって、敗れることを。
負けて、泣くことを。
また、頑張ることを。
志弦さんは知っているのだ。
それから、一時間後には真っ赤な雨雲がやって来るという情報を掴んで、私達は急いで下山した。駐車スペースまで戻って来たところで降り始めてしまい、木陰で雨具を装着。大小の蝶が慌てて葉っぱの裏に隠れていた。
森坂さんのお宅に帰ると、私はなんだかそうしていたくて、縁側で豪雨を眺めていた。分厚い雲の向こうからまだ日の光の届く夕方の五時過ぎに、海でもひっくり返したかのような雨が降り注ぐ。屋根に跳ね返る雨音は物々しく、時に勢いを増すと銃声のようですらある。盆地の山が灰色にぼやけ、遠くの山など全く視認出来ない。そんな景色を、私はただ眺めていた。
ふと足音がして、背後の廊下に志弦さんがやって来た。
目を見張って外を眺めて、ガラス戸を開ける。
そうして縁側に出て来るなり、雨音に掻き消されながら失笑した。
「すげえな」
お向かいさんの瓦屋根が白く見える程に激しく跳ね返る雨水は、屋根を流れると、そこから滝のように落ちている。雨樋も氾濫してしまって、余り意味を成していないように見える。
縁側の奥に座る私にも、雨水が庭石で跳ねて散って来る。
見渡すと、森坂さん宅の庭も所々に川が出来ていた。庭石の間を流れていったり、庭石を飲み込んだりしながら、煉瓦造りの花壇に沿って曲がって、道路へと流れ出ている。石が敷かれただけの縁側の下はまだ雨水に透明度があるのだけど、土の上を流れた川はそれを失いつつある。
「贅沢ね。ただ、雨を眺めているなんて」
風が止んだのか、雨は垂直に降るようになった。
立っているのに疲れたのか、私の声が聞き辛かったのか、志弦さんが私の隣に座る。
「雨、好きか?」
「そうね。今までは、余り意識していなかったのだけど。最近は、なんだか好きだわ。ここに居るだけで楽しくて。こんな雨、どこかで大変な目に遭っている方も居るでしょうに、不謹慎かしら」
「気にするこたあねえ。楽しいもんは楽しい」
志弦さんならきっとそう言ってくれると思っていた私は、少しずるかったかも知れない。
それでもそんな言葉を掛けられると、不思議と嬉しかった。
雨音は途絶えることなく、時に弱まっても直ぐに強まって、私と志弦さんは、少しだけ飛沫で濡れながら、なんだか飽きないその光景を眺める。
何か、話そうか――そう思ったけれど、この雨音の中で声を張るのも気が引けて、ただ雨音に聴き入る。聴いているだけで安らぐこの音を、邪魔することもないのだろう。
少し楽しそうな横顔の志弦さんも、もしかしたら私と同じことを考えているのかも知れなかったから、私もただ、その光景を眺めることにした。
それからどれくらいの時間が経過したのか、辺りが暗さを増して、雨が少し弱まった頃、私は志弦さんに聞いた。
サッカーで負けると、辛かったり苦しかったりするのかと。
志弦さんは時折語気を強めながら、静かに話し始めた。
「小学生の時、俺は本当に下手糞でな。足が速いでも敏捷性があるでもなし、体格で勝るでもなし、技術も無かった。誰より遅くまで――辺りが真っ暗になってボールが見えなくなるまで練習しても、上手くはならなかった」
先月、この庭でボールを蹴る志弦さんは、とても上手に見えたのだけれど。
「当然レギュラーにもなれなくてな、万年Bチームだ。監督なんて、俺なんか眼中にないって感じだった。背丈の都合上、当時の俺は当然監督からは見下ろされるポジションに居る訳だが……背丈の差以上に、見下されてる感じがあったよ」
さらさらと語る志弦さんだけれど、それはとても、とても辛いことなのではないか。
「Bチームで試合に出ても、俺はいつも前半で交代するか、後半から出場するか……ま、チーム内の序列は常に最下位って感じだな」
そう言って志弦さんは、笑った。とても、とても笑える状況では、ないと思うのに。
「それでもサッカーは好きだし、サッカー以外やりたいなんて思わなかったし、サッカーで勝ちたかったから、続けてた。何より、てめえがどんなに下手糞だと分かってても、負けると、死ぬほど悔しかった」
同じだ。
私と同じだ。
「へらへらしてるチームメイトが許せなかった。何より、そんな奴らに劣ってる俺が、許せなかった」
志弦さんは感情の高ぶりを抑えられないようだった。
「上手いだけの奴にはなりたくないと、思うようになった」
周りに勝つ為に。
監督に勝つ為に。
其処に、己が魂が在る為に。
「やるしかないだろ。だからもう、やるしかなかったんだよ。誰より良いプレーをして、チームが勝つ為に必要な選手になるしか、俺には道が残されてなかったんだ。誰より走って、誰よりボールを蹴って、誰よりプレーのイメージを膨らませて、誰より判断力を身に付ける。俺はてめえ自身を証明する為に、勝つしかなかったんだよ」
私と全く、同じだ。
「全てのライバルに勝ちたかった。だから中学進学の時には、敢えて強豪校を選んだ。弱少校でレギュラー取っても、意味ねえからな」
同じだ。
お父様に勝たなければ意味が無い私と、同じだ。
「三年の時、漸くAチームになった。レギュラーとして試合に出れるようになった。嬉しかったよ」
「努力が、報われたのね」
「俺もそう思ったよ。でも、負けた。県大会の決勝でな。実力は似通っていた筈なのに、ボコボコにされた。悔しかった。死ぬほど悔しかった」
二子では手合い違いだった筈の私が、先で惨敗した、それのように。
「その時に気付いたんだ。負けたくない気持ちが、足らなかったんだって。んで、香と裏山に登ってる時に気付いたんだ。これだ、って」
「志弦さんと裏山で初めて会った時、言っていたわよね、危ないからこそやる価値があるんだ、って。絶対に帰って来なければならないから、行くんだって」
「ああ。例えばピッチ上で疲れても、勝手に休めば死にはしない。けど一旦山に登ったら、何が何でも下山しなきゃならねえ。帰って来なきゃならねえ。灼熱でも豪雨でも、どんなにしんどくてもな。試合に負けても誰かが励ましてくれるし、何よりサッカーは続けられる。だけど山から帰って来れなかったらそうは行かねえ。結局俺にとっては、勝ち負けよりも生き死になんだ。生死が懸かって来ねえことには、本気になれねーんだよ。本気になったつもりでも、それはまだ底力じゃないっていうか。きっとまだ、全力じゃないんだ」
「死ねないくらい負けられない状態が理想、ということかしら」
「そんな状態でサッカーやってれば、下手でも、きっと良いプレーが出来る」
そこまで言って、志弦さんははにかんだ。
「そう信じてるんだ」
かっこいい、そう思った。
信じる。
それが志弦さんの、原動力。
自分の価値や能力を信じている訳では、きっとない。
自分を信じる、という力。
それが志弦さんを、突き動かしているのか。
「俺の母さんは、医者を目指してたんだ」
突如として、志弦さんはそう言った。
それを知っていたからか、私は私の思っている以上に驚いていた。
「……千陽先生から、聞いたわ」
今度は志弦さんが驚いた。そして、朗らかに笑う。
「そうか。俺もだ。母さんはそういうの、きっと言わないだろうからって、千陽姉が教えてくれたんだ」
本人からではなくとも、伝えることに意味がある、先生はそう思った。
志弦さんが、自分の母親の生き様を知ることに、意味があると。
「きっと母さんは、誰より医者になりたかったって、千陽姉が言ってた。だからお前は、なりたいものがあるなら諦めるなって、そう言いたげにな」
言いたげに……詰まり先生は、そうは言わなかった。
口には、しなかった。
「俺はサッカーが好きだからサッカー選手になりたいと思った。だけど、それだけじゃない。今は、プロになりたいと思ったから、その夢を叶えようとしてる」
碁が好きなだけではない、私と。
「サッカーはもう、俺そのものなんだ」
それは同じだった。
「勝ちたいんだ。絶対に」
力強くそう言った志弦さんは、眼前の庭を睨んでいた。
中学の時に、負けた志弦さん。
泣くほど悔しい敗北を味わった志弦さんは今、死ぬほど勝ちたがっている。
その鍛錬に、全てを懸けて。
俺そのものだと、そう言った道で。
「灯理は、どうだ」
盆地を作る山がくっきりとして、遠くの山もぼんやりと見える。
透明に、明瞭になって来た視界で、私は答える。
「先生と出逢う前の私は、雪環を継ぎたくはなかったわ。抗えない流れの中で、そうするしかないだけのことだった。でも、今は違う。今は、雪環を継ぎたい。養護教諭として一人前になれたなら、きっと雪環を、変えられるから。そこに私の居場所が、あるように思うから」
そう言って、ぼんやりとする遠くの山並みを、見据えた。
「勝ちたい。碁は、道だから」
内に秘めた思いを、こんなにもはっきりと言葉に、声にしたのは、これが初めてかも知れなかった。
「お互い、難儀な道に進んじまったな」
「難儀、なのかしら」
「相手も同じように、死に物狂いで向かって来るんだ。勝負の世界に生きるなら、それに打ち勝たなきゃいけない」
プロになる訳でない私に対して、志弦さんは、勝負の世界だと言った。
言ってくれた。
「どんなに負けたくなくても、負けることもある」
噛み締めるようそう言った志弦さんは、こちらを見て、しっかりと私を見て、
「だから灯理も、負けても、負けるなよ」
強く、心強く、そう言った。
「ええ」
翌朝、朝食を終えると、庭に出た。
ヤマトシジミが降り立って、水滴を飾る雑草が弾む。
雲間から射し込んだ朝で、葉先の雫はきらりと笑った。
今日はきっと、良い天気だろう。
翌月、月例の碁会で、私は格上を相手に四戦全勝した。
隙の無い完勝だった三局と、序盤でリードされながらもひたすら耐えて、耐えて耐えて、一瞬の隙に反撃に出て、逆転した一局。どれも充実の内容だった。
もう、どんな相手にも負けたくない。
勝ちたい。
死ぬほど勝ちたい。
信じるんだ。
自分の道を、自分の生き方を、打ち方を、私を、信じるんだ。
私の碁に、雪環を変えるだけのエネルギーが、在る筈だ。
対局する私の横を通り掛かったお父様の、盤上に刺さらんばかり、鋭い視線があった。




