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Step to Tomorrow  作者: 巣立最中
三章
10/20

碁、打たないか

        三


 畳の上に敷かれた布団の中で、私は目覚めた。

 小さく上下する香ちゃんの背中が見える。寝返りを打って、先生の布団は空っぽだった。

 午前四時。昨日あれだけ裏山を歩いたのだしもう一眠りしようかと思ったけれど、目が冴えている。そして、先生が戻って来ない。お手洗いかと思ったけれど、そうでもないようだ。何だか疼くから、私は起き上がることにした。香ちゃんにタオルケットを掛けて、静かに一階へと下りる。

 既に明かりの点る台所に、先生は立っていた。

「お、早いな」

 言いながら、コップに麦茶を注いで渡してくださる。

「いつもなら寝る前に予定した時間に起きるのですが。今日は少し、舞い上がっているのかもしれません」

 聞きながらぐびぐびと麦茶を飲み干すと、先生は言う。

「じゃ、舞い上がりついでに朝の散歩にでも行くか」

「また、裏山を歩くのですか?」

「ん、お供が付くけどな」

 と、先生が声を上げる。

「一太!」

 瞬間居間から黒い影。先生に飛び付いた。

「おー一太、散歩行くぞぉ」

 三百BPM。私は尻尾のテンポを見積もった。

「大喜びですね」

「灯理が居るから舞い上がってるのかもな」

 先生のことが大好きなのでは。

 静かに戸を開けて……この空は、薄明るい。薄明るい外に、私と先生は一太を連れて出た。日の出前のこの時刻は、江戸時代には明六つと呼ばれていたのだったか。明六つは日の出ではなく、夜明けを意味する。

 森坂さん宅の横にある坂道を上るのだけれど、先生の歩くスピードがとても速くて、私は置いて行かれないように地面を蹴り上げる。薄らと空が明らんで来た。

「間に合ったな」

 そう言った先生が右折して、森坂さん宅の裏手の草地に踏み込んだ。一太を呼んで座らせて、先生も座り込む。先生に倣って私も三角座り。空が、赤らんだ。

 一瞬だった。青藍の空に溶け込んでいた数多の雲が、腹を撫子色に染め、背を半色にし、明らむ空に浮かび上がった。全ての色が淡く、幻想的な風景。思わず息が漏れて、広い空を見渡した。一つとして同じ色のない、豊かな表情をした空が、美しかった。全ての光が淡く、静かで、穏やかで。光の反射が作り出す、優しく温かい表情。

 一時として同じ色をしていない空の下で、鳥達が慌ただしく鳴き始める。

 東の空に起こされて、淡い朝がやって来た。

「あっという間なのですね」

 何分間が経過したのかは、わからないけれど。私にはそれは、あっという間だった。

「あぁ。刹那の美だな」

 空の移ろう、刹那の美。一瞬一瞬が、違う表情で。瞬きをするのが、勿体無い。こんな贅沢な時間があるのかと、思ったくらいに。それは、美しかった。

 朝の訪れを知らせ終えたのか、鳥達が一瞬静まり返る。

 風が吹いて、葉擦れの音で山が鳴き出した。

「悩みがあると、ここに来るんだ」

 裏山の森で、ヒグラシの鳴き声が響き渡った。

「生きるってのはどういうことなのか、考えることをやめないために」

 強い風が私に当たって、吹き抜ける。

「なきごえを、きくために」

 それは、鳴き声なのですか。

「見えない物も、見えるようになるために……見えない物も、嗅ぎ取るために」

 泣き声なのですか。


「見誤らないために」


 慟哭(なきごえ)なのですか。


 二ヶ月前、優しい何かだと私が思ったそれは、けれど、とても悲しい色を帯びていた。

 二ヶ月前を遙かに包み込む、空のような優しさを纏って。

 散歩、いこうか――そんな先生の優しい声で、私達は歩き出した。

 優しい何があった、裏山へと、歩き出した。


 先生が向かったのは、嘗て私を連れて行ってくれた道とは逆方向だった。傾斜は急になっていて、丸太の階段で足を蹴り上げる。早足で登り切ると少し息が上がったけれど、じんわりと熱くなる身体に早朝のしっとりとした風が心地好い。日光も遮られる森の中はやはり涼しくて、私はすぐに歩き出す。

「ここが先生の散歩コースなのですか?」

「ん、どうかな。そうとも言えるし、特別なコースでもあるな」

 私と先生が起こす風を、裏山の風がそっとなぞる。一太が木の根元を嗅ぎ始めて、先生も立ち止まる。

 木の葉が一枚落ちて来て、ゆらゆらと舞った。

「ここは、あたしが初めて連れて来てもらった道なんだ」

 山の奥から、小鳥の鳴き声が響いてきた。

 一太が耳をぴくりとさせて歩き出す。

 二人と一匹の地面を踏み締める音が静かに聞こえる。

「もう二十年近く前になるかな、ふふっ、あたしも年食ったな」

 辺りが鬱蒼として来て、湿り気が強くなっていた。そんな空気を振り払うように先生は笑った。早朝の薄暗い森は、不気味だったかも知れないけれど、先生と居ると、なんだか落ち着いて。幼き日の先生がこの道を歩いたことを、想像してみた。

「その時のこと、昔っから何度も夢に見るんだよ。お姉ちゃんがあたしを散歩に連れ出すんだ。『お父さんとお母さんに会いに』って」

 千陽先生の、お姉様。お姉様とは十四歳離れているのだと、昨晩仰っていましたね。それが詰まり、志弦さんのお母様――由希枝さん。

 当時の由希枝さんは、私より年上、ということになるのでしょうか。

「あたしはさ、父さんと母さんに会える、不思議な泉でもあるのかって、胸膨らませて付いていくんだ。ふふっ、けどま、んなもんはなくてな、『ここにおとうさんとおかあさんがいるの?』って聞いたら、『ううん。いないよ』って」

「え……」

「そうしたらお姉ちゃん、『お父さんとお母さんは、燃えて、お墓に入っちゃったから。ここにはいないよ』なんて言い出してな。『でも、お父さんとお母さんがここで死んでたら、お父さんとお母さんは、ずっとここにいるんだよ』って言うんだ。あたしが『どうして?』って聞いたら、『動物が死ぬと、体が、肉が腐り始めるの』って。お姉ちゃんは、こう続けるんだ。『死んだ動物は、その森の他の生き物の骨肉となって、生き続けるんだ。だからここにいるのは、眼に見えている物だけじゃないんだよ』って。『見えない物も、見えるようにならなきゃいけないんだ。見えない物を、嗅ぎ取らなきゃいけないんだ』『そうしないと、物事を見誤ってしまうんだよ』って」

 そう話す先生の声は、どこか悲しげだったけれど。

 感情を湛えずにただそこに在るだけの森が、なんだか頼もしくて、心強くて。

 私は気丈に振る舞った。

「先生は、見えない物も見通せてしまいそうです」

 実際私は、先生に見透かされてばかりのように思います。

「ふふ、あたしもそれさ。だからお姉ちゃんに、こう言うんだ。『じゃあ、おねえちゃんはりっぱなおいしゃさんになれるね』って」

 と、一太が林道を外れて木々の間を進んで行く。先生がそれを追うから、私も追った。

 辺りは背丈のある広葉樹に覆われ、林道より暗くなる。

「ここは昔、草っ原だったんだ」

「木が成長したことで、地面に光が当たらなくなったのですか」

「あぁ。二十年も経てば、森の景色も変わる」

 木々の間から、ちらりちらりと盆地が見えた。

 二十年前、先生のお姉様は、どんなお気持ちだったのだろう。

 先生が繰り返し夢に見るという、その時に。

 二十年。

 それは私が、雪環を継ぐことになるまでの時間。十八万時間。

 二十年経つと、お父様は還暦を迎える。すぐに、という風にはならないかも知れないけれど、その時には、私はもう出荷される準備が出来ていなければならない。雪環を継ぐ支度が、出来ていなければならない。

 二十年後、この場所はどうなっているのだろう。二十年前には草原だったここも、今は木々に遮られ日の光が注がれない。

 二十年後、私はどうなっていればいい。

 二十年後、世界はどうなっているのだろう。

 この森の二十年後を見通せたなら、それも見通せるかも知れない――そんなことを、ふと思った。

 一太が辺りを歩き始めて、私と先生はタオルを敷いた上に腰を下ろす。

 暗い森で、木漏れ日が際立っていた。

 風。

 森が揺れ、差し込む光は飛ばされ散り散りになって、地面は波打つ水面のように光った。

 辺りが静まり返っても、遠くの森がざわついていた。

 全てが静まる前、吹かれて舞った髪の毛をそのままに、先生は呟いた。

「過労だったんだ」

 蝉の鳴き声が少しずつ聞こえて来た。今は静かにしていて欲しいと思いながら、私は先生の話に耳を傾ける。

「父さんが倒れて、翌週に母さんも……お姉ちゃんには、『大丈夫』って言ってたみたいだけど」

 私を初めて連れて来てくださった時、先生から出た、医者の不養生の話。

 私が咄嗟に話題を変えたあの時も、先生は、このことを思い出していたのではないか。

 あの時も、どの時も。

 その白衣を、纏う時、先生は、思い出しているのではないか。

「それで私が大丈夫だと思っちゃったからだって、お姉ちゃんは、自分を責めてたんだ」

「お姉様は当時、おいくつだったのですか」

「十八だ。受験勉強の真っ只中だった。医者を目指して、な」

 香ちゃんは、学校から帰ると由希枝さんが預かってくれたと言っていました。詰まり、先生のお姉様は、

「今にも泣きそうな顔で『私には無理』って言うお姉ちゃんに、あたしはこう言うんだ。『いつかおねえちゃんも、だいじょうぶにしてあげるからね』って」

 やさしい。なんと心優しい可憐な少女なのだ。先生は、白衣を纏うまでもない、思い遣りの装備を纏うまでもない、その道のはじまりには――――

「今でも時々思うんだ。あたしはお姉ちゃんを、だいじょうぶにしてあげられたのかって。今のあたしなら、当時のお姉ちゃんに、なんて声を掛けただろうって」

 その散歩が、先生の散歩の、始まりで。

 それが先生の、原点。


 自然界に真理が無ければ、この世には絶望しかない


 その言葉の心意が、見えてきた気がした。

 清流のような儚さが、そこに在ったのは。

 その横顔が、今にも崩れそうだったのは。


 私なんか――

 私なんか、どんな言葉を、どう紡いだところで、何も繕えはしないのだろうけれど。

 この糸を、私は、大切にしたい。

 

「あの時、先生は、保健室の先生失格だ、と、そう仰いました。けれど今なら、そんなことはないと、思うのです。先生のことを想うと、私はとても、安らいで……先生にお会いしに行く時、なんだか……私はとても、落ち着くんです。だから……きっと先生の居るところが……先生が居るから、保健室なんです」

 私は必死に、言葉にしようとしていた。

 けれど、言葉が出て来ない。言葉に出来ない。

 どれだけ多くの言葉を知っていても、どれだけ現代文の成績が良くても――

 話すのに必死で、先生のことすら見ていなかった。だから、咄嗟に笑って言う。

「うまく、言えませんね」

 そんな私に、先生はにっこりと笑った。

「ううん、良かった」

 先生の瞳が潤んでいて、今にも崩れそうな目で。私は、二月前の横顔と、重ねずにはいられなかった。

 何かを誤魔化す為だったかも知れない私の笑顔が、先生の視線にそっと撫でられた。


 あちこちで蝉が鳴き出して、鳥も再び囀り始めた。

 朝の裏山が、少しだけ賑やかになったけれど。

 この場所は、それが自然であるかのように、落ち着いていた。

「お姉ちゃんは、夢を失った。きっとあたしの為に、諦めたんだ。幼かったあたしを、これ以上、巻き込まない為に。ほとんど家に居なかった父さんと母さんが……いなくなっちまったから、お姉ちゃんは同じ道に進むことを、あたしの為に辞めたんだ」

 それでもその白衣を、クローゼットに大切に仕舞っていたお姉様。

「あたしなんかよりよっぽど頭が良くて、きっと良い医者になれただろうにな」

「千陽先生が、大切だったのですね」

 視線を落として、落ち葉を眺める先生の、表情が明るくなった。

「千陽って名前は、お姉ちゃんが付けてくれたんだ。妹が出来たら、ちよちゃんって呼びたいって、理由はそれだけ。ふふっ」

「素敵です。とっても可愛らしくて」

「父さんと母さんが漢字の候補をいくつか出して、その中からお姉ちゃんが決めたんだってさ」

 愛。

 先生に向けられた、愛の形。千陽。

 愛。

 私に向けられた、愛の形。灯理。

 もし私が後継者になると、初めから分かっていたなら。

 そうではなかったかも知れない、形。

「志弦さんの姓が、先生と同じですよね」

「あぁ。お姉ちゃんが結婚する時に、霧山の姓を選んでくれたからな」

 姓。

 両親との繋がり。

 私がお父様とお母様の、娘である証。

 私のそれは、雪環であり、

 先生のそれは、霧山だった。

「お姉ちゃんのところに行くまでは、通名で過ごしててさ」

「森坂千陽、ですか?」

「うん。本名に戻った時は、なんていうか、しっくり来るっつーかなんつーか、まぁ安堵はしたよな。あたしはほんと、お姉ちゃんに守られてばっかだ」

 私などに、わかったようなことは、言えませんが。ご両親の後を追うよう、人を救うという夢に向かっていた先生のお姉様は、救いたいものが、人々から、家族へと、たった一人の妹へと、変わったのではないでしょうか。

 多くの人を救おうとしたご両親を、近くで見ていたお姉様は――

「先生が養護教諭になると仰った時、お姉様は」

「びっくりしてたよ。養護教諭養成課程を選ぶことは、受験の間際まで伝えてなかったしな」

「喜んでらっしゃいましたか?」

「ふふっ、父さんと母さんの白衣、貰ってもいいかって言ったら、嬉しそうな顔と悲しそうな顔で泣きそうになりながら、喜んでくれたよ」

 お姉様は、想いを、千陽先生に託したのだ。


 私も、託される側に在る。

 十八万時間後に、二十年後に、託される側に在る。

 私にも、出来るのだろうか。先生のように、誰かを救うことが。

 きっと先生は、お姉様を救った。

 そして、私を救った。

 私にそんなことが、出来るのだろうか。

 お父様やお母様を救うことが、私などに。

「二十年後、先生はどうされていると思いますか」

 ただ一人生まれた私を後継者にすることになってしまったお父様を。

 私しか産めなかったことで辛く悲しい思いをしたであろうお母様を。

 私などが。

「さぁな。……子供は、ほしいかな。養護教諭も、続けたい」

「先生はどんな男性がお好みですか?」

「はっはっは! どうかな、気が合えば、いいんじゃねぇかな」

 先生と気の合う……カリスマ性がありそうです。

「変わらず碁を打って、変わらず山に来て、お姉ちゃんとも志弦とも香とも、たまに集まって飯食って、ふふっ。普通だな、普通が一番だ」

 どんなに生活が普通でも、養護教諭としてのお仕事は、きっと特別なままで。時代が変わっても、特別なままなのではないでしょうか。

「囲碁界では、あと百年は無理だと言われていたAIによる人間超えも、数年以内には確実に起こるとされていますけれど」

「そうだな」

「いつか全く歯の立たないAIが登場したら、囲碁はどうなるのかと、思うこともあります。解明されたも同然となってしまったら、碁を打つのが、空しくなったりするのかと」

 言った渡しに、慈愛を零す笑みで、先生は私を見遣る。

 そして樹上を見上げて言った。

「碁を打つっていうのは、問い掛けに答えることだから」

「問い掛け、ですか?」

「碁盤自体が、問い掛けなんだ。お前はどうすると、問い掛けて来てる。盤の前に座った瞬間に、問い掛けられる。同じ問いを掛けられた仲間達の答えに、興味がある」

 興味。そう口にする時、先生は少し楽しそうに語気を強めた。

「だから、数字じゃねぇ、あたしらが碁を打つのは、正解を叩き出す為じゃねぇ、その問い掛けに答える為だ」

 答える――それが先生の、問い掛けに対する答え。

「だから、そうじゃない。人間同士の打つ碁に、口出しは無用だ」

 そう言い切った先生は、眼前の高木を見詰めながら、こう言った。


「碁は、道だから」


 日の出を迎え、木漏れ日の明るくなった裏山の一角で、先生が立ち上がる。

「少し早いけど、帰るか」

 私も立って、タオルを拾って畳む。

「朝食の支度ですか?」

 首を傾げた私に、先生は少し嬉しそうに言う。

「碁、打たないか」


 先生に抱き付きたい衝動を、声に託した。


 早足で……軽く走って戻り、一太を居間に放すと、二階の一室に入る。押し入れから姿を現した碁盤に頭がくらり。畳の部屋の中央、盤と座布団が配置されれば、ここはもう対局場だ。

 じゃらり。午前五時三十五分、握って私の先番。

 お母様、朝まで騒ぐことはありませんでしたが

「お願いします」

 どうやら、朝から騒ぐことになりそうです



 碁を打った後は千陽先生と香ちゃんが朝食を作るというので居間に行こうとしたら、香ちゃんに呼び止められて。ドレッシングの味見を頼まれました。朝から裏山の散歩をして碁も打った私に、梅酢の効いたそれは、生殺しだった。口の中で唾液が溢れて、居間に戻った頃には零れそうになった唾液を慌てて吸って、おなかを鳴らしながら食卓に突っ伏す。見兼ねたお婆様がたくあんを出してくださって、どうにかこうにかやり過ごす。とにかく気を紛らわしたかったから、携帯で囲碁のアプリを起動して、難解な詰碁と向き合った。

 早朝ランニングから帰って来た志弦さん。私が詰碁をやっているのを見ると庭に飛び出した。窓越し、ボールを自在に扱って、地面に落とさないように蹴り上げ続けている。プロを目指す彼に、プロを目指せない私の姿は、どう映るのだろう。

 しばらくして朝食が運ばれて来て、食卓で私がどんな状態になっていたのかを暴露されてしまい、先生に大笑いされてしまう。香ちゃんは堪えられない笑いを零しながらも、何度も謝ってくれた。香ちゃんに悪気はなかった。なかったのだ。しっています。

 朝ごはんをぱくりと食べて、ゆっくり食べた方が健康的だとか、そんなに腹が減っていたのかとか、皆さんに笑われてしまう。でも、志弦さんだって私と同じくらいに食べ終えていたから、私が特別可笑しかった訳ではないはずだ。……はずだ。

 それから私は、今日の碁会に間に合わせる為に昼前には家に帰らなければならなかったから、改めてお礼を言って、帰り支度を始めた……のだけれど、私のザックに、次から次へとお土産が詰め込まれる。私がおいしそうに食べていたからと、香ちゃんがイチゴジャムをくれた。そんなに頂く訳にはいかないと言ったのだけれど、まだまだあるし、わたし達はいっぱい食べてるから、と、詰め込まれてしまった。そうしてぱんぱんになったザックを背負ったら、ずしり。バランスを取る為に踏み出した足が、ずしん。雪環家を出発した時よりも、明らかに重くなっていた。……詰め込みすぎたのでは。

 お婆様が、またおいで、志弦くんも香ちゃんも千陽ちゃんも居ない時でもまたおいでと仰って下さって、泣きそうになってしまった。駅まで送ってくださるという先生が車を取りに行って、私は香ちゃんや志弦さんと連絡先の交換をする。これでまた会えるね、なんていう話をしていたら、ブレーキ音を奏でながら門の前に車が急停止した。

 銀の乗用車。先生の車ではない。

 すぐに開いた運転席のドア口から一人の男性が下りて来て、志弦さんが驚いたよう、香ちゃんを見てぽつり。

「親父さん、どうしたんだよ。なんかあったのか?」

 この、少し大柄なおじ様が、香ちゃんのお父様、なのですか。

「間ぁに合ったか……」

 そう漏らしつつ肩で息をしながら門を開けたおじ様が、

「でっかくなったな」

 はっきりと私を見て言った。

 目を細めるおじ様に、ぱちくり。

 私が小さい頃に会っている? 香ちゃんのお父様に?

 嵐村という姓を頼りに記憶を探りますが、感触は得られません。

 記憶力には自信があるのですが。

「失礼を致しまして、大変に申し訳ないのですが……憶えが、ございません」

 相手方が憶えているのにこちらが相手方を憶えていない時、身が縮こまる思いだと聞きます。私はそういう経験をまるでして来なかったのですが、これがそのことかと痛感する時間でした。

「はっはっは。流石に憶えちゃいねえか」

「どこかのパーティで、お会いしていましたでしょうか」

「パーティ? ま、宴にゃちげえねえがな」

「と、仰いますと……」

「あれは十六年前の正月か」

 生後一ヶ月!

「いやあ、でっかくなった」

 憶えている訳が!

「はっはっは。久し振りなもんで色んな顔が見たくなってな」

 見事にからかわれてしまいました。

「香に聞いてすっ飛んで来たんだ。新しく出来た友達が灯理ちゃんってんで、そいつまさか雪環ってんじゃねえだろうなっつったら、それがまさかなもんだからな、魂消たぜ」

「黙っててごめんね。間に合わなかったらその時は仕方ないから、灯理ちゃんを待たせちゃうようなこと、したくなくて」

「そんなことを……私なんかのために、ありがとう」

 イチゴジャムを詰めてくれた時も、香ちゃんの心中は穏やかではなかったかも知れなかった。

「目元で分かったよ。沙恵(さえ)に似て美人になった」

 目を細めるおじ様は、生後一ヶ月の私と、見比べているのでしょうか。

「母のご友人でいらしたのですね」

「沙恵とは大学からだから、どちらかと言うと、親父の野郎の方かもな」

 親父の野郎。名前すら呼んで貰えないお父様。

「父とは、古いのですか?」

「中学三年からだな。そうだな、口数の少ねえ、不器用な男だったが……何より、碁のことで頭が埋め尽くされてる奴だった。登校すりゃあ碁、授業の合間も碁、昼休みも碁、授業が終わっても碁。そのうちに囲碁部には敵が居なくなっちまったみてえだがな」

「そんなに、父は碁が好きだったのですか」

「親父から聞いてねえのか? あいつは大学で留年しそうになったことがあってな、その理由ってのが、碁を打って授業をすっぽかし続けてたからなんだ」

「へ……!?」

「ははは、流石にてめえの後を継ぐ娘にゃ言えねえか。ま、親には相当言われてたようだが、何を言われようとどこ吹く風だった。大会に出ればよく優勝してたし、よっぽど碁のプロにでもなった方がこいつの為にも雪環の為にもいいんじゃねえかと、俺なんかは思ってたもんだが……こうして雪環で成功を収めてるんだから、社長ってのは存外、そういう変わりもんの方が向いてるのかも知れねえな」

 親に何を言われようとどこ吹く風だった……? お父様が?

 授業をすっぽかしてまで、碁を打っていた? それも、留年しそうになるまで?

「あいつは今でも碁をやってるのか」

「月に一局ほど、打って頂くのですが……そこまで碁が好きだとは」

「沙恵と付き合うようになったって、一緒に勉強しようって図書館に行って、奴はパソコンでネット碁を打ってやがるんだ。まあ沙恵は、そんなあいつを眺めてるのが好きだったみたいだがな。二人は仲良くやってるか?」

「どう、でしょうか。自宅に居る時は、基本的には一緒に出社して一緒に帰って来ますし、朝食はいつも、お二人で水入らずのようですが……」

 そう言うとおじ様は、相変わらずそうで何よりだと笑う。

「初めて耳にすることばかりで……私は父の、母のことも、何も知らなかったのですね」

「はっはっは、それはどうかな。俺は二十台後半になってからの奴を知らない。なんせもう十年以上も連絡を取ってねえんだからな。今のあいつを知ってるのは、灯理さんだ」

 は……? 十年以上も連絡を取っていない?

 一体……何が。どうしてそんなことに。いくら多忙なお父様でも、連絡ぐらいは……お父様だって、ご友人は大切に為さっているはずです。家に帰らず会いに行くくらいです。

「灯理、そろそろ」

 先生が切なげな表情で、白の乗用車をバックに立つ。もう、行かなければ。

「会えて良かったよ。ばたばたさせちまって悪かったな」

「いえ、とんでもないです。こちらこそありがとうございました、お会い出来て嬉しかったです。またお会い出来ますか」

「ああ。両親の馴れ初めが聞きたきゃ、いつでも遊びに来い。香の料理を食いながら昔話に花を咲かせるのも良い。灯理さんの話も沢山聞きたい。歓迎するよ」

「はい。ありがとうございます」

 もう一度皆さんに頭を下げて、深々と下げて、私は先生の車に乗り込んだ。

「まぁあんな家でよかったら、いつでも邪魔しに行ってやってくれ」

「恩に着せるように聞こえるのですが」

「ははは、それぐらいが丁度いいのさ。そう、人生には張り合いって奴が必要なんだ。邪魔してやって騒がせてやって、存分に迷惑を掛けて生きやがれ。元気いっぱいにな」

 駅のロータリーに着いて、晴れ空に飛び出す。

 暖かい大気が、ザックの重さと相まって、心地好く身体に伸し掛かる。

「ま、トマトが食いたくなったらいつでも来い」

「――はい!」

「ん。気を付けて帰れよ」

 運転席を覗き込んで、元気いっぱいに言う。

「先生! 父に、勝ちました」

 にっと笑った先生が、目元に皺寄せて拳をぐっと締めた。

 私も笑みを野放しにして、また二学期に会いましょうと、駅に歩き出す。

 往路には一人で下りた階段を、一人でないような気分で、上る。重い。ザックが重い。やはり、詰めすぎたのでは。零れてくる笑みを俯いて隠しながら、私は駅舎に戻って来た。

 始発駅の誰も乗っていない車両を見て、帰路に就いてしまったことを実感する。

 今引き返せば、また裏山を歩けるのに――――そんなことを思って振り返りそうになったけれど、踏み出して、列車に乗り込んだ。

 旅。旅だっただろう。

 身体の火照りは、暑さのせいではないだろう。

 昨日からの出来事を思い出すと、昂ぶって、疼いて、疼いて。

 旅に、なった。

 数人が待つだけの向かいのホームが、何故か目に入って仕方ない。なんていうことはないクッションが、妙に柔らかく感じられて仕方ない。


 隣でザックが沈み込む。

 発車時刻が近付いて、鼓動の高鳴りに昂ぶる。

 何かが起こる。何かが起こる。

 変わる。何かが変わる。


 そう――私はここから、旅立つのだ。






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